嵐の前夜
シンは今、ノイエの元に向かって、長い廊下を歩いている。
ヌアクと別れてから程なくしてやってきた二人の男は、恐る恐るシンに目隠しをした。三人の侵入者の内の、無事だった二人だが、必要性がなければ、シンも無体な乱暴を働くつもりはない。大人しくされるがままに任せ、手を引かれて連れて行かれた。
一邸宅としてはそこそこの距離を歩かされたところで、扉の開く重々しい音がした。
「ここだ。半刻後、迎えに来る」
中に押し込められ、早々に後ろの扉が閉ざされた。すかさず鍵の閉まる音がする。
目隠しを取ると、すぐ目の前にノイエの姿を見つけた。
「母さん!!」
椅子に座っているノイエの元に駆け寄った。
「大丈夫かい!?」
両腕を掴んで確認する。見たところ、怪我らしきものは見当たらない。その両腕には、銀の腕輪がはめられていた。鎖こそないが、魔力を封じる魔法がかけられた魔力錠だ。
「何が丁重に預かってるだっ、これじゃ犯罪者扱いじゃないか!」
「まあ、招待されたんだったら、なかなか快適な待遇だったけどね」
憤慨するシンとは対照的に、ノイエはのんきに応じた。
室内の様子を見ると、本来は人が寝泊まりするような場所ではないようだ。窓すらない息苦しくて白い部屋。客間と比べると半分ほどの狭さだ。
目を引くのは、正面に設えられた巨大な純白の神像。貴族の邸宅には必ずあるはずの個人用礼拝堂らしい。とりあえず一番堅牢なこの部屋に、簡易ベッドを運んで臨時の牢獄にしたのだろう。ヌアクがどれだけ宗教儀礼に無関心かが伺える。
「やっぱりお前絡みだったわけだね」
令嬢然とした装いで現れたシンを、ノイエはすました顔で観察する。シンのプラチナに染められた神に手を伸ばした。
「随分妙な真似事をさせられてるようじゃないか。一介の薬剤師に何の用かと思ったら、あたしゃ、お前を言いなりにさせるための人質ってわけだね?」
「――ごめん……」
「謝るよりもちゃんと説明おし」
これまで決して追及はしなかった部分に、遠慮なく切り込んだ。
「お前の素性に関わることだね?」
過去などどうでもいいと放置してきたことだが、さすがに今に関わってきた以上、知らずにいるわけにはいかない。
何から話せばいいのかと、思わず言い淀んだシンの頬を、すかさずバチンと両手で挟んだ。
「あたしは、言葉を選ばなきゃ話せない相手なのかい?」
「……」
真っ直ぐな怒りで凄まれ、シンは自分が情けなくなった。ノイエに対して計算づくの説明をしようとしていた。
物心ついた頃から、自分を責める者はいても、怒る者は誰もいなかった。怒るほど気にかけられたことなどなかった。
良ければ褒め、悪ければ叱る――そんな当たり前のことを、自分に教えてくれたのはノイエだ。ノイエの娘だから、『普通』の生き方を知れた。そのノイエに、取り繕って自分から距離を置こうとしていたようなものだ。ともに生きることを、こんなに望んでいるはずなのに。
「ごめん、母さん……全部話すよ」
シンは思いつくまま、ぽつりぽつりと話し出した。思い出したくもない記憶――理路整然とはいかなかった。それでもできる限り、正直に語った。
死んだことにされた前皇太子の罪、伏せられた出生、幽閉生活を送った修道院、神に怯えた幼少期、逃げ出してから犯した犯罪――それから今、なぜこんな状況に置かれることになったのかまで、知っている限りのことを話し尽くした。
その後の、ノイエの第一声。
「お前、バカだねえ……」
心の底からあきれ果てるノイエを前に、シンは言葉を失った。
「今の話だと、お前、血の半分は魔法使いじゃないってことかい? それで、魔法が使えないだの黒髪だのを『特別』だって、くよくよしてたのかい? そりゃ単に、父親に似たってだけの話だろう? ごく『普通』なことじゃないか。間が抜けてるにも程があるよ」
遠慮会釈なく、ずけずけと言い放つ。あれほど苦しめられた過去を一刀両断され、的を射ているだけにシンはかっとなる。
「子供の頃から当たり前みたいに刷り込まれてたら、誰だってそう思い込んじまうだろうっ!」
「他人のせいにするもんじゃないよ。自分の頭でよく考えりゃ、分かることさ。お前は自分が『罪』だなんて思ってんのかい?」
「思わないさ!」
反射的に言い返して、シンはしまったと思う。ノイエがにやりと笑った。
「だったら問題は何もないじゃないか。解決だ」
「――まったく、母さんはホントに甘やかしちゃくれないね」
苦笑いで降参するしかなかった。そんなシンに、ノイエは祭壇へと視線を促す。
「この部屋の主も、大分開き直ってる様子だよ」
「――ヌアク?」
「ほら、この礼拝堂の雑な扱い。普通捕虜の監獄代わりに使うかい? 多分朝の礼拝もしちゃいないだろうし。お前以上の信仰心の薄さじゃないか。ここまではっきりしてりゃ、かえって気持ちいいくらいだよ」
ノイエはからからと笑って、新築同様にきれいな室内を見回した。
「――母さんって、ほんとタフだよね」
「でなきゃお前は育てられないさ」
「母さんに育てられたからこうなったんじゃないか」
口を尖らせてみせるが、内心ほっとしてもいた。
「母さんは全然驚かないんだね。あたしが元王女の娘だって聞いても」
「そりゃ、王女だって子供くらい産むだろうさ」
今まで思ってもみなかった発言に、シンは虚を突かれた。
「そ、そりゃ、そうかもしれないけど……」
「惚れた男と一緒に逃げるなんて、女としちゃ上等な部類だよ。嫌いじゃないね」
あまりにも簡単に言うノイエに、シンはむっとする。
「あたしの母さんは、母さんだけだよ」
「そりゃそうさ。どんな理由があったって、子供を捨てた女に母親を名乗る資格はない。全てを捨てて逃げるのは、一番簡単なやり方だからね」
「じゃあ、何が上等だってのさ」
「簡単でも、楽じゃあないってことさ。――どうしようもない想いってのは、あるもんだよ」
シンは何も答えられなかった。そんなことを言われても、今更どうとも思えない。ノイエは、皮肉に笑う。
「まったく、まだまだガキだねえ。ま、そのうち分かるようになるよ」
「――エシェレにも、同じこと言われたよ」
うんざりと吐き捨て、ふと職場や下町の仲間達を思い出した。
「……仕事、無断欠勤だ。もう出演できる当てもないし、早いとこ代役立てといてくれるといいんだけど」
「当分元の生活に戻れそうにないのかい? 二人そろっていきなり行方不明じゃ、今頃みんな大騒ぎだろうね」
しかも現場には血痕の痕跡が残ってるはずだし……と内心で付け足す。
「大人しくいいなりになり続けるつもりはないんだろう?」
「当り前さ。チャンスさえ見つけりゃ、あたしはいつでも動く。場合によっては、この国にはいられなくなるかもしれない。――それでいいかい? 母さん」
一度だけ、シンは確認を取った。ノイエに、今まで築き上げた全てを捨てさせることになるかもしれない。ノイエは珍しく穏やかな微笑みを浮かべ、シンの頭を撫でた。
「当り前だろ? 人間どこでだって生きちゃいけるが、あたしの娘はお前だけだよ。つまらない心配するんじゃない」
「――母さん……必ず助けるからね。一緒に逃げよう」
ノイエより一回り大きな体で、子供のように抱き付いた。その背中をノイエは優しくさする。
「あたしの方は逃げ出す隙がなさそうだ。大人しく待っててやるから、適当に手を抜いておやり」
ノイエの奇妙な激励に、シンは顔を上げる。
「お前は、自分を見失うとすぐ無茶をするからねえ」
――バレてる!?
シンの顔から血の気が引いた。
ノイエの居所を探るために少々やらかしたことは、言わないでおいたのだが。
「焦らなくていい。いくらだって待ってやるから、お前らしくおやり。やり過ぎない程度にね」
全てをお見通しだと言わんばかりに諭す。実際はカマをかけた程度だが、シンの反応で大方の察しがついていた。それでも、これ以上叱ろうとは思わなかった。道から外れかける度に、親が力尽くで引き摺り戻すのでは意味がない。
「……ホントに、母さんにはかなわないよ……」
シンの中で絶えず追いかけてくる焦燥感が、少し薄らいだ気がした。
あまりにも余裕をなくしていた。人間性を欲しながら、自ら人間性を手放していた。
空っぽの心を温めてくれる太陽が、ほんの少し留守になったくらいで、あまりにも凍り過ぎたと反省する。
最優先事項は変わらない。
『お前らしく』――それが何かも、正直よく分からない。
それでも、ノイエに顔向けできないようなことはやめなければと、自分に歯止めをかけた。
「母さんの言う通り、あたしはまだまだガキだったね……」
母親に言われなきゃ、気付けないんだから――心の中で苦笑した。
密かに王宮入りして、早五日間。シンは苛ついていた。
それでも態度には出さず、黙々と資料に目を通して、ヴァイシャとして必要なデータの最終チェックを続ける。
ヴァイシャの寝室に閉じ籠り、持ち込まれた資料のほぼ全ては頭に入れた。病はすっかり快方に向かったというシナリオの元、明日に迫るヴァイシャデビューを万全の態勢で待つばかりだ。
そんなシンを苛つかせるのが、常に側に張り付く侍女キーアの存在である。ヌアクは必要な確認事項のやり取りで、二度『見舞い』に訪れただけだが、このキーアは一日中片時も離れない。看病の名目で、夜まで同室のソファーで休むものだから、こっそり抜け出すこともままならなかった。
分別と思慮で努めて感情の露出を抑えつつも、なお怯えの滲み出る態度で、シンを見つめ続ける瞳。
この辛気臭い空気の中、張り付きでヴァイシャ指導を受けてきた。正直鬱陶しい。
教育の一環として王宮の見取り図も記憶したため、むしろヴァイシャとして表に出てからの方が自由に動けそうだった。その時ならキーアと離れる機会はいくらでも作れそうだ。
キーアはさすがに王女付きの侍女だけあり、よくものを弁え有能だった。シンの質問には的確に答え、不必要なおしゃべりもしない。数日前にあんな目にあわせられた恐怖の対象が相手と思えば、よくやっているものだと感心するべきなのだろう。シンの言えた義理ではないが。
じっと見据えるシンの視線に、キーアは反射席にガタっと席を立つ。その過剰反応に、シンは苦笑いした。あの夜の体験は、思慮深く落ち着いた侍女に、余程のトラウマを植え付けたようだ。はっとして、気まずそうにまた腰を下ろす。
「そんなに怯えるこたあないよ。今あんたを殴り倒す意味はない」
宮仕えの気苦労に同情しながら、気楽に声をかける。意味があればやるということだが。
「承知しております」
キーアはどことなく堅い表情で応じる。
「あんたも大変だねえ。あたしなんかのお守りを押し付けられてさ。ホントはヴァイシャの行方が気掛かりなんじゃないかい? 捜しに行かなくていいのかい?」
乱暴狼藉を働くつもりはないが、揺さぶりは折に触れかけ続けている。情報を得るなり行動に制限をかけるなりできれば儲けものだ。キーアの思いつめたような目を、逃さず観察する。
「あんた、ヴァイシャが消えた経緯、知ってるんだろう?」
「私は何も存じません。もしもの折にはヌアク様に従うよう、言いつかっているだけです」
キーアは内心ぎくりとする。見抜かれていることを承知で白を切る。
「――ま、そういうことにしとこうか」
シンもあえて追及はしなかった。
キーアは安堵しながらも、シンの視線に居心地の悪さは否めなかった。
目の前の少女の頭の回転の速さは度を越している。わずかな視線の動き一つで、どこまでも見透かされてしまう。ヴァイシャの頭脳も優れていると思っていたが、シンのそれはずば抜けていた。一度見聞きすれば忘れない記憶力、二度説明する必要がない理解力、現状から結果や因果関係を読む洞察力――魔法以外のあらゆる点で異様に優れている。
シンはすでにヴァイシャとしての情報を完全に吸収していた。
城壁内においては、要人の安全のため、魔法使用不可の結界が張り巡らされている。誰もが魔法を使えない王宮内で、シンの魔法障害も問題にはならない。明日の婚約披露パーティーで、完璧なヴァイシャを演じきれるはずだ。
しかしこの五日間付きっきりだったが、未だにシンと言う人間が掴めない。初対面の時は本気で悪魔だと思った。今は気さくでさばけた普通の下町娘そのもの。あの夜の顔は、まるで幻であったかのようだ。表情も豊かで、ヌアクと重なったイメージはもう欠片もない。――しかし腹部に残る痣は現実だ。
ただ、一つだけ断言できることがある。シンは、顔が似ているだけで選ばれたわけではない。その知識や身のこなしから、特別な教育を受けていることはすぐに分かった。ヌアクもそれを知っていたのだ。ヴァイシャが双子だったという話は噂にも聞いたことがないが、全くの無関係とは思えなかった。
演劇をやっていたというが、ヴァイシャを完全に把握した今では、キーアですら、シンが我が主にしか見えない。そのせいか、とっさの時には体が反応してしまうものの、最初程の恐怖は感じなくなっていた。
いや、むしろ、普段の言動を見る限り、率直であけすけで、魅力的な人物にすら映る。
本当に、この少女は一体何者なのだろうと、無意識に見つめて考えを巡らしていた。
「あたしの素性が気になるのかい?」
「はい、気になります」
問われて、正直に頷いた。
「ヴァイシャの従姉妹さ」
「――は?」
呆気ない回答に、キーアがぽかんとして聞き返す。
「だから、ヴァイシャの従姉妹。メネイオスとヌアクの姪。アルファーシュの産んだ不義の子だからね。ずっと修道院で極秘に育てられてて、途中で外の世界に逃げ出したのさ」
揺さぶりの一環として、シンは事実を教えてやる。王家の血筋と言うだけで、キーアにはそれなりに効果があるだろう。
キーアは混乱した頭を必死で整理する。
「あ、あの……それでは、アルファーシュ様は……?」
「さあ、『扉の向こうの世界』とやらで、今も生きてるかもね。一人で向こうに逃げて行ったらしいからね」
「で、ですが、いくら不祥事だからと、皇太子さまのご崩御という虚偽を公表し、ご息女の誕生を隠匿するなどと、そんなことが……ヌアク様と同じお立場と言うことでしょう?」
ヴァイシャにすら、その存在を知らされない程の罪の子――ヌアクと印象が重なった理由が分かった気がした。
「立場は違うよ。あたしとヌアクじゃ。あたしは、黒髪を受け継いだからね」
どうでもいいことのように付け加えられた言葉に、はっとする。
「ま……まさか……」
頭の中で不意に繋がった。ヴァイシャから聞いた『扉の向こうの世界』――魔法も使わずにあらゆることを成し遂げる超人達の住む世界。
まるでシンそのものだ。あり得ない髪の色も、それで説明がつく。
数日前、シンに向かって吐いた自分の言葉が脳裏に蘇った。
――この悪魔。
それに対して、シンは答えた。
ガキの頃から知っていた――と。
自分の不用意な一言を後悔した。今の彼女になるまで、どれだけの葛藤を経てきたのか。平然と語れるようになるまで、どんな目にあってきたのか。
そんなシンがようやく手に入れた家族を――おそらくは唯一の理解者を、奪おうとした。
その複雑で極端な性格と苛烈な反撃を、もう恨む気にはなれなかった。
「あなたは何故、そのようにお強いのですか……?」
分を超えていると承知で、思わず呟いた。シンの父親が何者かを察したことは、隠しもせずに。
シンはその目を見返し、静かに宣言する。
「あたしは、母さんを取り戻すためなら、どこまだって強くなる」
キーアはその眼差しの強さに圧倒された。
『太陽を守るに、罪悪感はいらぬ』――以前聞いたヌアクの呟きを思い出した。
シンの太陽。暗闇に差し込んだ、たった一筋の光。それが盲目的に絶対のものに変わったとして、誰に責めることができるだろう。
ふとキーアは、ヌアクが気になった。シンと、ほぼ同じ立場。むしろ公然と批判の目にさらされて生きてきた分、過酷な人生と言えるかもしれない。
ヌアクにもその『太陽』があるのだろうか。だからあれ程シンという人物を理解していたのだろうか。
しかしいくら考えても、分からなかった。思い当たるのは、彼が常に王家と保身のためのみに行動する事実だけだった。
宗教国家スウェネト王国の頂点に立つ現人神――けれどあと十日でその地位から降りることになっているメネイオスは、深夜の寝室で一人、頭を悩ませていた。その面持ちはひどく陰鬱だ。小柄で小太りの丸い顔は、ここしばらくの苦悩のため、どことなく面やつれしていた。
苦悩の始まりは、ヴァイシャとヌアクの婚約から。ヴァイシャが自分の後を継いで、王になることが決まった日。まだ当分は猶予があると思っていた事柄が、突然目の前に突き付けられた。
仲が良いとは言えないが、血の繋がった娘が憎いわけでは決してない。妃を早くに亡くして、可哀想だったとも思う。しかし込み上げてくる強迫観念はどうしようもなく心を苛み、自身を凶行へと駆り立てる。
ヴァイシャを王にしてはならないと。
姉のアルファーシュは、確かに身の毛もよだつ罪を犯した。しかし存命の長子である彼女を差し置いて、世継ぎの座を奪ったことは、神の教えに背く行為だ。空から全てを見通す天帝の眼に、更にこれ以上の罪を重ねて見せるわけにはいかないのだ。
いつの頃からか、年を追うごとにヴァイシャがアルファーシュに似てくることに気が付いた。姿形以上に、その考え方や性質が、末恐ろしくなる程に。そのことが、ずっと躊躇っていたメネイオスの背中を押した。この事態を看過すれば、いずれ大いなる災いをなす確信があった。
王位に就くべき資格のない我が娘――たとえ抹殺するという大罪を犯してでも、避けなければならない事態はあるのだ。
だから、二人の刺客を差し向けた。一人が実行、一人が手引き。ところが二人ともそのまま消息を絶ち、翌日、王宮の裏門付近で骸を晒していた。
一方でヴァイシャが急病を患い、全てをヌアクに任せて部屋に閉じ籠った。二人は裏で何を目論んで動いているのか。
とにかくヴァイシャが恐ろしい。神意を畏れない娘。何を考えているのか分からなかった。警戒して外出を避けながら、報復の手はずでも整えているのではないか。ヌアクが向うについてしまっていることが、余計に悩ましい。
一番信用している弟にすら、打ち明けられない秘密がある。普段なら何事につけても頼り切っているヌアクに相談すらできず、この件に関しては全て単独で動くしかないのだ。
メネイオスにできたのは、可能な限りヴァイシャに人を近付けないよう取り計らうことだけだったが。
そのヴァイシャも報告では順調に回復し、明日の婚約披露パーティーには万全の態勢で出席できるという。その席で、何をしてくるのだろうか。今は理想的な王女らしく振舞っているが、神や伝統よりも己の思考に重きを置く合理主義は、幼い頃からアルファーシュと重なった。
ひとたび決断したなら、決して揺らがず貫こうとする。ヌアクとの婚約も、反対する暇も与えず根回しを済ませ、公式発表して強引に話を進めてしまった。ヌアクは基本的に自分とヴァイシャを同列に扱っている。王家のことを考えれば、今回ヴァイシャに従う理由も理解できる。
「だが違う、ヌアク。それでは、駄目なのだ。神に許されない」
狂信的な宗教観に支配された老人は、苦しげに呟いた。
巨大な罪を避けるために、それより少し軽いだけの大罪を犯さねばならない理不尽さ。罪悪感は絶えず心を蝕むが、後には引けない。『真実』を知る者は、他にはヌアクを育てた大司祭だけ。自分の行いが反対されるのは明らかだ。
やはり全て自分でやるしかなかった。
「――ヴァイシャが王位に就くことは、神々がお許しにならない」
強く自分に言い聞かせる。
そこに、配下の者の声が聞こえた。許可を出すと、巨大な姿見が扉のように開き、男が入室してきた。王宮から大聖堂にかけての地下には秘密の通路が張り巡らされ、いくつかの重要な施設や部屋に繋がっている。国王の寝室もその一つだ。
国王になってからはよくこの地下通路を通って、大聖堂の神像にひっそりと祈りを捧げに行っていたが、極秘任務に関してはごく限られた配下にも使用を許している。
「何用だ」
「ヌアク様の別邸に謎の女が囚われておりました。密かに奪い去り、調査しましたところ、ヌアク様の恐ろしい謀略が露呈しました」
最も重用する配下のアジスは、監禁されていた女を取り調べて得た情報を、努めて冷静に報告した。
「薬を使って聞き出したことですので、まず事実かと……」
全ての報告を終えて、その企みの信憑性を保証する。
「何ということだ……!」
メネイオスは眩暈を感じた。
「まさか、二世を担ぎ出してくるとは……」
ヴァイシャを王にさせないために断腸の思いで行った行為が、更なる重罪人を掘り起こしてしまった。最悪の事態である。罪人としてどこかで野垂れ死んでいるとばかり思っていた罪人が、至高の冠を戴こうとしている。
「まったく、ヴァイシャは何を考えておる! ……いや、これは、ヌアクか……」
ヴァイシャはシンの存在を知らない。ヌアクがこの短時間に罪の子を探し出し、影武者に仕立てたということだ。ヴァイシャ本人は婚姻の日まで、安全な場所に身を隠しているつもりだろうか。暗殺者の再度の襲撃に備えて。ヴァイシャの安全確保のためなら、ヌアクはそれくらいのことは苦もなくやるだろう。
「ヴァイシャの行方は?」
「それは判明しませんでした」
監禁されていた女――ノイエの知る以上のことは、分かりようもない。
メネイオスはヴァイシャを脅威に思う余り、重要な可能性を見落としていた。暗殺は成功したことを。ヴァイシャは王位に就く瞬間まで雌伏し、虎視眈々と備えているのだと、思い込んでしまった。
だが、覚悟はできている。そんな悪巧みは、何をおいても阻止しなければならない。それが正義だ。
「人質を奪われて、ヌアクも慌てていることだろう。その女はどうしている?」
「地下通路の牢に監禁しております」
「ならば、食事に毒を入れろ。解放するには、秘密を知り過ぎている。人質を神の御許へ送れば、二世もヴァイシャの真似事をする必要はなくなるだろう」
苦悩しつつも、しっかりとした口調で命令した。
アジスは一礼し、姿見の奥へと姿を消した。
一人残ったメネイオスは、窓の外の夜空へと目を向け、跪く。
「貴方様の御心にそうためなのです。どうか恐ろしい罪を犯す私をお許しください。どうか……」
やがて日が差し込むまで、祈りを捧げ続けた。
夜が明ける少し前のことだった。扉を叩く音で、ヌアクは目を覚ました。ベッドから起き上がり、扉を開けると、部下のジークが畏まっていた。
ジークは街外れの別邸に詰めさせていた。人の出入りの少ない別邸に移送したノイエを任せていたのだ。
主を叩き起こす必要のある報告――その時点で大体の予測はつく。
「ノイエは?」
「――さらわれました。今かろうじて動けるのは、私だけです」
見れば、震える体を何とか気力で持たせている様子だ。
「相手は?」
「不明です。奇妙な匂いを嗅いだ直後、意識を失い、気付いた時には証拠も残さず女は消えていました。申し訳ありません」
非常事態を前に、ヌアクは冷静に考えこんだ。
「分かった。もういい。後処理をしたら、『神々の森』の方の探索に加われ。以上だ。下がっていい」
「は、はい……」
沈黙の後で次の指示を出し、ジークを帰す。
すっかり醒めた頭で、今後のことを考える。
情報の拡散の懸念からノイエを別邸に移したが、裏目に出たらしい。この屋敷からずっと継続的に見張りを付けられていたということだろうか。
正直買ってきた恨みの心当たりが多過ぎて、相手の特定が難しかった。自身の行いの結果ももちろん、メネイオスの無理な命令も多くは自分が実行してきた来たから、知らないところで恨んでいる人間も少なくはないだろう。
別邸とはいえそれなりに厳重な警備の中で、強硬な作戦を実行できる相手は誰かを絞り込んだ方が、早いかもしれない。そして現実問題として、誰であったら脅威となるのか。
ノイエから秘密が漏れた場合、最も影響を及ぼせる人物。自分を窮地に追い込める力を持っている敵対者。該当者は、ゲネイナ財務卿だ。
本当にゲネイナの仕業だとは、ヌアクも考えてはいない。危険性の問題だ。仮に自分に不利な情報が出回った時、攻撃してくる可能性の高い不安要素は可及的速やかに排除しておく必要がある。無実のゲネイナにしてみれば、とんだとばっちりなのだろうが。
もう一人、可能性としてメネイオスもあり得るが、実質こちらは大して手を打つ必要がない。メネイオスは二世の存在を絶対に公表しない。内心でどう思っていようと、シンをヴァイシャとして扱うしかないはずだ。周辺を監視し、ノイエの行方を探る程度でいい。
もしそれ以外の誰かが『訳の分からない言いがかり』を付けてきたとしても、たかが下町女一人の『妄想』がヌアクを脅かすことはない。
そして一番肝心な問題。
シンに悟られてはならない。これは絶対だ。ノイエは今も変わらず、ヌアクの手の内にあると、思わせ続けなければならない。
ゲネイナを蹴落とし、メネイオスから実権を奪い、国王の夫として強権を揮ってでも、神に支配された制度を改革する。ノイエが取り戻せなかった場合は、数年単位でシンを騙し通すつもりだ。
夜が明ければ、シンのヴァイシャとしての生活が始まる。近付く相手には特に注意を払い警戒を強める。余計なことを吹き込む者が現れないように。
騙し通せなかった場合、まずシンに殺されるなと、他人事のように思う。自分まで殺されたら、改革が不可能になる。せいぜい用心しなければと、どうでもいいことのように決意する。
初めから、全てが行き当たりばったりだと、分かってはいる。しかしその場その場で、対応していくしかない。過ぎたことは変えられないし、嘆くための心も元より持ち合わせてはいない。どんな面倒な事態になっても、結局その時ごとに最善と思える手段に手を尽くすだけだ。
ただ、犯人は誰か――今すぐ出ない答えを悩んでも無駄という、ヌアクの割り切りの早さは、今回は大きな誤りだった。