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神の温床  作者: 寿 利真
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雲の下の罪人

 空には魔物が棲んでいる。


 見上げた空は、いつも高い塀に切り取られている。

 時の流れに置き去りにされた、底なしのよどんだ平穏が横たわる空間。

 世俗の汚れから隔絶された、怒りも悲しみの苦悩も激しさもない、堅牢な壁の中。

 純白の修道着に身を包んだ女達が、神にすべてを捧げるための楽園。


 唯一の出口である空は、恒久的に途切れない厚い雲の蓋。

 何物をも受け付けない高潔の色は、漆黒の髪のわたくしを高圧的に見下ろしてくるよう。


 物心つく前から、この壁の中に閉じ込められている理由が、幼いわたくしにはまだよく分からない。

 理解できるのは、わたくしが『特別』であるということだけ。


 何故ならば、誰もが持っている神からの贈り物を、一人だけ持っていない。

 一番大切なものを、天はわたくしにだけ授け忘れた。


 だから、わたくしは空が嫌い。


 罪人のわたくしから、すべてを奪う、神という魔物が。











 いいえ、いけませんっ。私のことなどお捨ておきくださいませ!

 あの方とご結婚されれば、おなたは次のご領主様になれるのですから。

 そんな……駆け落ちだなんて、そんな恐ろしいこと!

 本当に、こんな私のために……?

 ああ……どこまでも、あなたについていきます!


「……馬鹿か、こいつは」


 一連のセリフを一人で、なおかつ身振り付きで発していたシンは、にべもなく吐き捨てた。薄暗い質素な部屋の中、台本を放り投げて、ベッドに荒っぽく身を投げる。


 領主の娘に見初められた貧乏貴族の青年と、小間使いの娘との、悲劇的な恋の物語。こんな安っぽいテーマが、古典悲劇の名のもとに、傑作として大衆に受け入れられてしまう理不尽さが、どうにも納得できない。

 役者になってから初めてのヒロイン役。大抜擢ながら、早くもシンは、役作りに行き詰っていた。正直、できるものなら投げ出したい。


 愛する男とともに逃げ、追っ手に殺される哀れな女。残された男は絶望を胸に秘めたまま領主の娘と結婚し、一族への復讐に全力を注ぐ。やがて破滅を見届けた男は、安らかに恋人の後を追う。


 まるで主役の二人を病原体にして、不幸がどんどん感染していくようだ。自分勝手を押し通し、周りの全てを不幸のどん底に突き落としていく傍迷惑な無神経さも、それが世間に感動をもって支持される理由も、シンには理解ができなかった。


「それじゃあ、残されたほうはいい面の皮じゃないか」


 架空の物語に、不自然な感情移入をしていることに、自分では気づいていなかった。

 その耳に、異常に重々しい鐘の音が届く。


「一刻か……」


 王宮の敷地内に聳え立つ超高層聖堂、別名『鐘の塔』からの時報だ。国中の眠りを覚ます一刻の鐘の音。

 国民の誰もが、鳴り終わるまでの二十分ほどを、天の神への祈りに捧げる。

 今頃は母親のノイエも、階下で祭壇の神像に跪いているはずだ。

 しかしシンは長々と続く騒音に苛立ちを感じながら、不信心に寝返りを打っていた。世間にばれたら、完全に不敬罪で捕縛ものだ。


 しかしそんな姿すら、他人が見たら、瞬きすら忘れて見入るだろう。といっても、十七歳にふさわしい、可愛らしいとか愛らしいといった形容とは無縁だ。氷のように冴え冴えとした美貌。気の強さを明確に映し出す空色の双眸。そこに映る、際立って豊かな表情は、舞台の後列からでも目を奪われ、ため息が漏れるほどだ。肩の辺りで切りそろえた灰白色の髪を投げ出して横たわる姿は、まさに気だるげな美の化身。


 シンを目当てに、せっせと劇場に足を運び、愛をささやく男達の数は増える一方だが、遠慮を知らない唇からは、いまだ辛辣な拒絶以外の言葉を聞いた者はいない。

 それについてはいくつもの武勇伝がある。最近で一番話題になったのは、こっぴどく振られた男が、刃物を振り回してシンと無理心中を画策した件だろうか。


 突きつけられたナイフを、シンは苦も無く蹴り上げ、力任せに男を殴り飛ばした。

「死にたきゃ、一人で勝手に死にな。そこまで付き合ってやるほど、あんたに価値はないよ」

 凍るほどに冷ややかな眼差しで見降ろされた男は、拾ったナイフを衝動的に自らの首にふるった。

 その美貌に跳ねた鮮血を、しかしシンは眉一つ動かさずに拭い、平然と立ち去ってしまったのである。


 男は命こそ取り留めたものの、この刃傷沙汰はシンの学校で大問題になってしまった。男の家族から学校を通じて謝罪を強要されたシンは、何の躊躇もなく退学の返答を叩き付けて帰ってきた。


 絶世の美少女の内側に収まる、下町育ち特有の粗雑な言動と、何より納得のいかないことにはどこまでも立ち向かう激しい気性……シンはそういう少女だ。


 朝の祈りの鐘が響き終わるのを待って、威勢よく起き上がる。灯を吹き消し、雨戸を全開にすると、小ざっぱりとした狭い部屋に、早朝の光が差し込んだ。三階の窓から、無意識に空を睨み上げると、やがて小さく身震いして踵を返した。


 手製の粗末な梯子を下りてダイニングルームに入ると、真っ先に祭壇が目に飛び込んでくる。部屋の隅の白い棚に祀られた、白い神像。どの家庭にも当たり前にある純白の空間から、反射的に目を逸らした。このちっぽけはずの存在が、ぽっかり切り取られたような威圧感で自分に迫ってくるのを振り払うように。


「おはよう、母さん」


 食卓越しに、母親に声をかける。


「おはよう? お前はちょっと早すぎるよ。一体いつ寝てるんだい」


 寝巻のままで席に着いたノイエは、面白くもなさそうに応じる。シンと同じ髪の色と、何より気の強さを湛えた目をした、典型的な下町女である。

 すでに外着に着替えたシンと、食卓に並ぶ冷めかけた料理とを見比べる。


「朝早くからこんな手の込んだ朝飯作って、その上芝居の練習までしてたみたいじゃないか。また倒れて担ぎ込まれるのなんざ、御免だよ」


 ノイエの指摘に、シンは露骨に渋い顔をする。

 シンは原因不明の持病を持っている。ついひと月前、稽古場で発作を起こしたばかりだった。


「あの発作は寝不足とは関係ないよ。大体今だって寝過ぎなくらいなのに」

「だから、一度病院に行けって言ってるんだよ。まったくガキじゃあるまいし、医者が怖いでもないだろうが」


 いくら言っても、頑なに診察を拒絶する娘に、何度目か分からない小言をぶつける。

 もっとも自分譲りの頑固者を動かすことなどできないと、諦め混じりではあるのだが。


「医者なんかに、あたしの体が分かるもんか……」


 微かな呟きが聞こえたが、聞こえないふりで食事を温めなおす。

 確かにシンが『特別』であることは事実だから。そして誰より、本人がそれに苦しめられてきたことも知っている。そんな素振りを絶対に人に見せようとしない娘の気性が、自分の教育の賜物であることも。


 シンの『特別』のひとつが謎の奇病だ。人並外れて頑健なシンを、何の前触れもなく突然襲う発作。十日間に2回来ることもあれば、3年間まったくないこともある。その発作は、普段は人の半分も眠らないシンを、異常に深い眠りに誘う。いつも通りにおはようと起きたら、6日経っていたこともある。


 シンは仏頂面で、意図的に距離を置いて、指先から火を放つノイエを眺めた。テーブルのガス台に引火し、連鎖的に走る炎が、鍋の下で円を形作る。火が点いたのを確認して、席に着いた。

 窓の外を見れば、出勤の人影が、チラホラと上空を横切り始めている。


 どこか別の世界の物語のように、遠い目でただ眺めるしか、シンにはできない。


 シンの一番の『特別』……この魔法使い達の世界で、シンは魔法が全く使えなかった。


 ありきたりの日常を、シンは当たり前に送れない。蝋燭やガス台に火の一つも点けられないし、階段のない建築様式のこの世界では、二階に上るのも一苦労だ。空を飛んで移動する人達の遥か目下、一人だけ地面を歩くしかない。


 自分はこの世界から、外れた存在。

 気を抜けば、じわじわ蝕もうと狙いすまして忍び寄る、このどうしようもない疎外感。シンの普段の気の強さは、それを拒むための鎧でもあるのかもしれない。

 一番大切な『魔法』がないからこそ、それ以外をがむしゃらに頑張って、自分を引きずり込もうとする心の闇を振り切ろうとしているのだ。

 退学してから、たまたまスカウトされた老舗劇団のレシウス座で、一年足らずでヒロインの座を射止めた快挙も、その容姿ではなく、本人の努力と実力に裏打ちされてのものだ。


「確かに魔法以外だったら、お前はなんだって一番なんだけどね……」


 シンの内心を正確に読み取っているノイエが、含みのある眼差しを向ける。


「知ってるかい、シン? 諦めと卑屈は、違うんだよ。健気とか前向きとか、よさげな言葉で言い換えて装うのは、あまりみっともよくないねえ」


 シンの目付きが剣を帯びる。


「……どういう意味だい?」

「お前が学校をやめてきたとき、あたしは何も言わなかった。あんな事件がなくたって、遅かれ早かれだったからね。無駄だと思うことを無理にだらだら続けるよりゃ、よっぽど上等ってもんだ。あたしが気に入らないのは、その落ちこぼれ根性さ。別の取り柄で、悔しさは誤魔化せたかい? お前自身が納得してない限り、諦めの言い訳にはならないんだよ。物分かりのいいフリなんざ、百年早いね」


 誰よりシンを理解していながら、淡々とした言葉には容赦がない。

 自分は『特別』だからと、初めから抗いもしない性根が気に入らないのだ。


 きつい気性はお互い様。ノイエの一方的な言い草に、シンの頭にどっと血が上る。


「それじゃ、魔法を持って生まれなかったことを恨んで、いじけて生きてりゃいいってのかい? できることで頑張って、何が悪い!」

「それは本当に、できないことなのかい? お前に魔法がないのは、絶対確実な事実なのかい? 現にお前は、誰もかなわない魔法を持っているじゃないか。確かにお前は『特別』だろうさ。それが嫌なら、そうでなくなるまで、死に物狂いで努力する。それが道理じゃないか。他のなんだって努力できるお前が、魔法だけダメだなんて、あたしは思わない。無理と決め込んで僻んでる半端者の頭を撫でてやるほど、あたしゃ優しくないよ」


 頭ごなしの手厳しい物言いに、シンは唇をかみしめた。


 ノイエの言いたいことは分かっている。『普通』でさえあったなら、疑うべくもない正論なのだろう。それでも、やはり違う。根本から、違っているのだ。だからこそ『特別』なのに。


 言いたいことは山ほどあった。それを言わせるための挑発なのだと、分かっている。それでも反駁しかける自分を、強い意志で抑え込んだ。これ以上は、言うべきことではない。

 誰にも、言うべきことではない。


「仕事に行ってくる!」


 シンは椅子を蹴飛ばして立ち上がると、鞄をひっつかんで二階玄関へと歩いて行った。


「どこへ行くんだい? 稽古場が開くのは一刻も先だろ?」


 今日も本音は引き出せなかったかと、ノイエは涼しい顔でお茶を飲みなが更に煽る。


「母さんのいない所ならどこだってマシさっ!」


 振り返りもせずに出ていきかけるシンの目に、祭壇の神像が飛び込んだ。通り過ぎざま、無造作に殴りつける。完全な八つ当たりで、神像は床の上に高い音を響かせた。


「何てことするんだいっ、この罰当たりが!」

(ばち)なら生まれる前から当たってる!」


 吐き捨てて、シンは荒々しく扉を押し開けた。

 下町商店街の中央通りを見下ろし、ダイニングルームの二階玄関から、躊躇いもせずに地面に飛び降りた。軽やかに着地すると、背後の一階玄関を振り返る。

 ノイエが女手一つで切り回してきた薬屋の調合室兼倉庫になっている。そこにぶら下がる『ノイエ薬局』の看板を力任せに殴りつけ、稽古場とは正反対の方向へと足を向けた。


 下町商店街の朝は早いが、いつもの活気を取り戻すまではもう少しかかる。ふと見上げた空には、人影がまばらに散っていた。あと一時間もすれば、雲の下は通勤通学ラッシュの混雑が始まる。


 交通法規に関連する建築基準法に従い、地上三十メートルを超える建築物こそないが、商店街の町並みは見上げるような高層建築が主流である。

 竹の節のように一部屋ごとに層が連なる建築様式は、狭い土地を最大限の効率で利用できる。


 空を行く魔法使い達とは対照的に、シンのいる場所はその最底辺である。まるでシンを嘲笑うかのように、地上五十メートルから二百メートルまでの空域を、縦横無尽に人影が飛び交っていく。

 それより上は、貴人専用空路となる。


 乗り物の種類は多種多様で、一般的なものではクッション型から、絨毯、ソファー、財力と魔力さえ及べば部屋型までもが、頭上を横行闊歩する。


 例えば、シンがどうしようもなく一人だと感じるのは、こんな時だ。


 空を自在に泳ぎ回る魔法使いの群れ。

 各階ごとに備え付けられている玄関や、水平に天を仰ぐ商家の大看板。

 最上階の商品売り場に、階段のない建築様式。


 魔法使いのために作られているこの世界のあらゆる仕組みに、シンは適応できない。


 学校でも教室移動のたびに、級友とは一時的に別れて、一人、校舎端の障碍者用階段へ向かったものだった。

 ひとえに、魔法の力を持っていないがゆえに。

 

 いや、それも違う……。皮肉な気分で訂正する。ノイエの指摘は、ある意味的を射ている。


 シンと勝負をしても、勝てる魔法使いはまずいない。

 何故なら、全ての魔法から見放された存在だから。本人の望むと望まざるとに関わらず、自身に向かうあらゆる魔法を抹消してしまう。自分はもちろん、他人の魔法すら。

 社会生活の上では全く役に立たない上、あまりに異端に過ぎる存在だ。

 それゆえ、シンはその能力をひた隠しにしていた。薄々気付いている親しい知人も、あえてそれに触れないことが暗黙の了解になっていた。


 言いようのない孤独感を引き摺りながら、シンはとぼとぼと歩を進めた。王都の外れの方へ向かって……。


「おや、お前の職場はいつからそっちに移転したんだい?」


 少し離れた二階玄関の方から、ノイエの声が降ってくる。


「どっちに行こうがあたしの勝手さ!! っぶっ!?」


 振り返った真の顔面に、何かが直撃した。


「人の顔に何投げつけてっ……ん?」


 地面に叩き付けようと握りしめたそれは、レインコートだった。


「天気予知報だと、今日は降るらしい。持っていきな」


 シンはとっさに、自分の髪に手をやった。


「ただでさえお前は目立つんだから、あんまりヘマするんじゃないよ」


 その含むところに気付いて、言葉を失う。

 向いた足のずっと先には、シンだけの秘密の場所があった。

 気が滅入って一人になりたい時に向かう、安らぎの禁区。

 人混みで一人より、誰もいない場所で一人の方が、孤独は紛れる。

 だから折に触れ、国の聖域である立ち入り禁止区域の森林に、こっそり出入りしていた。


「なんで……?」

「人にバレたくなかったら、珍しい薬草採集はほどほどにしとくんだね」


 ノイエの指摘に、シンは「あっ」と口元を抑える。

 珍しい————つまり、この近辺に原生していない薬草を大量に採取できる場所など限られている。時々稼業の手伝いのつもりで持ち帰っていたお土産のせいで、ノイエには明白だったらしい。


 自分のうっかりに呆れながら、緩む口元を手で隠して、無言でノイエを見つめた。

 気付いていて止めないことが、いかにも母らしい。シンのやることに、干渉をしない。時々頭をもたげる卑屈さを容赦なく殴り飛ばすことはあっても、結局シンが好きでやっていることには、決して口を出さない。こんな逮捕レベルのことですら。

 厳しくて、大らかで、粋な――そういう母なのだ。


「まあ、あれだ……もしも何かあった時は、母さんひっかついでどこまでだって逃げ切ってやるから」

「おやおや。あたしをお前のヘマに付き合わせる気かい?」


 シンは答えず、ただニヤリと返す。

 当然だと。

 ノイエに言っていないことは、たくさんある。本当に、たくさん。

 幼い頃から抱え込んできた想いは、いつも胸にくすぶり続けている。

 それでも日常を、そこそこ平穏に、幸せに生きていられるのは、ノイエがいるから。


 出会えた幸運――それが、今のシンを創り上げ、動かしていることを折に触れ感じる。


 言葉の通り、今の生活を守るためなら、何でもできる。たとえノイエの日常を壊しても。静かだが決して揺るがない決意が、常に胸の奥にあった。


「なんでえ、もう喧嘩は終わりかい?」

「っ!?」


 シンの後ろで、青果店の親父が店支度をしながら陽気な声をかける。それに呼応するように、あちこちから不特定多数の笑い声が沸き起こった。


「二人の怒鳴り声を聞かねえと、朝が来たって感じがしねえなあ」


 斜め上の二階の窓から、金物屋のハーンがスプーンを持ったまま顔を出す。


「せめて朝の一服が終わるくらいはねえ……」


 歓楽街で占い師をしているイマラが、お茶をすすりながら無責任な感想を漏らす姿が、隣家の窓に見えた。


「今日は大人し目だから、まだガキどもの目が覚めないよ。ほら、起きろっ!」


 反対側の三階の窓が空き、三人の子供を叩き起こしながらの、魚屋のおかみさんのよく響く声が聞こえる。

 見渡す限りから、同様のヤジが飛び交ってきた。


 予期せぬ展開に、シンの肩からどっと力が抜けた。


「なるほど……我が家はこの辺りの目覚まし替わりだったわけかい?」


 憮然と呻き、一転して声を張り上げた。


「いつまで見てる気だい!? あたしゃ見世物じゃないんだ。とっとと引っ込んで、飯でも食ってな!」

「おお、怖え、怖え」


 そうは言いながら、誰も怖がってはいない。

 その中の一人、仕立て屋のご隠居が、不意に窓から身を乗り出す。


「見世物といやあ、シン。次は一体いつやるんだい? シンの出る芝居とあっちゃ、見ねえわけにゃいかねえだろ? なのにお前さんときたら、ちっとも教えてくれやしねえ」

「ふん、冗談じゃないね。あんた達みたいに、見世物と芸術の区別もつかない連中にぞろぞろ来られちゃ、うちの劇団の格が落ちるってもんだよ。ご隠居は大人しく、家で娘婿でもいびってな」

「おいおい、シン。あまりお義父さんを唆さないでおくれよ」


 シンの悪態に、ご隠居と同じ窓から、婿養子のヒュアースの苦情の声が上がる。辺りからはどっと笑い声が溢れた。


 シンは思わず天を仰いだ。

 これだから、彼らを劇場に招きたくないのだ。こんな気のいい連中の前で、どシリアスな本格悲劇のヒロインなど、こっぱずかしくてとても演じられたものではない。きっと何年もいじられるに決まっている。


 そんな思惑をよそに、シンの元級友でもある幼馴染のトゥーシャが、向かいの窓から顔を出した。


「ご隠居さーん。これもらってきたからあげるよ」


 シンの内心を察してにやけながら、刷り上がって間もないレシオス座のポスターを掲げる。


「わっ、バカ、余計なことをっ! ————ああ……」


 一枚の紙きれは無情にも、窓から窓へ飛んで行った。


「何っ!? こいつぁ……おい、みんな! シンが準主役やるぞ!!」


 ご隠居の大声の直後、シンの頭上で盛大な歓声が沸き起こった。


「レシオス座でヒロインたあ、大したもんじゃねえか!」

「こりゃ、みんなでお祝いしなきゃならないねえ」

「おう、シンの祝いとなりゃあ、隣町からでも野郎どもがあつまってくるぜ!」

「よし、キャンペーンセールの準備だ!」

「派手にやろうぜ!」


「――だから、イヤだったんだ……」


 肝心のシンを置き去りに、周りはお祭り騒ぎで盛り上がる。

 内心頭を抱えつつも、込み上げてくる嬉しさを否定できない。

 今は自分も、この粗野で単純で善良な人達の一員なのだ。


 むず痒い気分で、この状況をどう押さえたものかと思案したとき、ノイエ薬局の最上階の玄関が開いた。


「いつまでうちの娘をバカ騒ぎに付き合わせてる気だい!? そんなに暇なら店の支度でも始めな!」


 絶妙のタイミングで、ノイエの助け舟が入った。すでに開店準備を整えて、六階の店舗から一同を見下ろした。


「シン、お前もさっさと仕事場へお行き。それからお前さん達、余計なくちばし入れて、シンの邪魔したら承知しないよ」


 まさに鶴の一声。野次馬達に傲然と釘を刺すと、忙しいとばかりに店に引き上げていった。

 やはりシンとは貫禄が違う。神経の太い下町仲間たちも、幾分肝を冷やす。


「やれやれ。ノイエの方は本当に怖えからな」


 誰かの呟きを合図に、皆潮を引くようにそれぞれ場所へ戻っていった。


「じゃあな、シン。応援してるからな」

「あたしらにできることがあったら、何でもお言いよ」

「そのうち店のモン、差し入れに持っていくから、楽しみにしとけ」


 思い思いの激励を残して。


 唐突に静寂の中に取り残されたシンは、おもむろに家の前に引き返すと、殴りつけられて傾いた店の看板を掛け直した。周りからいくらかの忍び笑いが漏れ出たが、今度は素知らぬ顔で歩き出した。


 くるりと方向転換すると、歓楽街の稽古場の方へと。


 我ながら現金だな、と、内心で笑いが込み上がる。

 自分の下町娘と称される気性の全ては、この街で育まれたのだと実感する。皆が自分に気付き、目を留め、心を懸けてくれる。魔力障碍者であろうとなかろうと。

 この街の仲間の一人として受け入れられている今の自分が、シンは好きだった。


 いつか、隠し通してきた秘密を口にする日は来るのだろうか―——ふとそんな思いが脳裏をよぎる。そして彼らは、それを受け入れてくれるだろうか。


「まあいいさ。時間ならある。気長に行くさ」


 表情以上に、その足取りは軽かった。


 離れていく後姿を頭上から見守りながら、仕立て屋のご隠居が茶をすする。


「いやあ、シンも、今じゃすっかり下町娘だな」


 感慨深く、数年前に思いを馳せる。


「ノイエが、スラムの方から子供を拾ってきた時は、どうなることかと思ったがなあ」


 この小さな町が、激しくひっくり返ったものだった。えらく荒んだ眼をした、汚くて無口な子供に、先が思いやられた。


「そのうちすぐノイエみたいになっちまうよ。今だって、あの頃とはまるで別人だし」


 同じく湯飲みを手に、一人娘のシアンが請け合った。彼女はノイエの少し年上の幼馴染である。


「そんなに違ってたのかい?」


 下町の住人になってまだ数年の婿養子ヒュアースが、食事の後片付けをしながら、妻に尋ねる。話には時々聞くが、現在のシンとはあまりにかけ離れていて、どうしてもイメージできなかった。


「そりゃあもう、手の付けようがなかったよ。いや別に、悪さするってわけじゃなかったんだがね。逆に何もしようとしないのさ。表情もなければ、反応もしないし、しゃべらない。魔力もないし、知能が遅れてるんじゃないかって、本気で心配したくらいさ。ノイエの根気強さを見てなきゃ、バカな道楽はおやめって言ってたかもしれないよ。今になってみりゃ、えらく頭のいい子だって分かるんだけど、とにかくあの頃は何も知らない子だったね」

「いや、そうでもないぞ」


 娘の述懐に、ご隠居は思案顔で首を振る。子供の頃、遊んでやった時のことを思い出していた。


「誰でも知ってるような常識を知らないと思ったら、逆にとんでもない専門知識を当たり前みたいにのぞかせることがあってなあ。礼拝もしたことがなさそうなスラムの子供が、なんでこんな司祭並みの神事の知識があるのかと、驚いたことがある。自分のことは何も話しちゃくれないが、まあ、ワケありってことは、初めから分かってたよ」

「へえ、あんな不信心な子がねえ。あたしゃ、あの子が礼拝してるとこなんて、いまだに見たことないよ。葬式の白い喪服だって、これでもかってくらい露骨に嫌がってたし」


 この界隈では、シンの信仰心の薄さは密かに有名だった。仲間内では、どこか不安定さが垣間見えるシンの性向に、はらはらしつつ、黙って見守っている部分だ。


「私は前から思ってたんですけど……」


 食器を片付け終わったヒュアースが、自分の湯飲みを手にして話に加わった。


「シンの『ワケ』っていうのは、高貴な家の出ってことじゃないですかね」


 予想外の発言に、父娘は揃って目を丸くする。


「細かい事情までは分かりませんけど、少なくとも私は、初めてシンを見た時、なんで貴族のお姫様が下町にいるのかと思いましたよ」

「そりゃあ、あれだけの別嬪だったら、誰だってそう思うさ」

「美人って評判のお城のお姫様だって、きっとかなわないよ」


 笑って茶々を入れる二人に、ヒュアースは困ったように首を振る。


「そういうんじゃなくてですね、何というか……立ち居振る舞いとか習慣的な行動とか――無意識に出てくるものが、貴族と共通しているんです。神事の知識にしたってそうですし。それ相応の教育を受けた者でなければ、ああはいきませんよ」


 確信に近い口調で断言する。婿養子になって家を継ぐという条件でシアンと結婚したヒュアースは、それ以前までオートクチュールのデザイナーだった。身近に接して、貴族の生態を良くも悪くも把握している。

 説得力を感じて、父娘は無言で顔を見合わせた。


「貴族の不文律なんですが、彼らは自分の家から問題のある子供が生まれると、人知れず修道院とかに捨ててしまうそうです。何しろ、身元不詳の修道者の三割はそうだって噂もあるくらいで」


 前の職場は、しっかりアンテナを立てての情報収集が必要とされていたため、上流階級の情報をイヤになるほど耳にしていた。

 貴族社会では、血筋家柄はもちろん、親族の品行、縁戚関係から祖先の功罪までが進退を決定させる。そんな中、『問題がある』のに、高位で生き残っている貴族は、ヒュアースが知る限り、一人しかいない。

 貴族同士で腹を探りあう性質の社会で、暴露合戦は日常茶飯事。中でも不義の種類のスキャンダルは、宗教上の観点から、問答無用で命取りとなる。まして祝福されない子供など問題外だ。異常なほど厳格な戒律に守られている。


 シンは魔力障碍者。その意味では、問題といえば問題だ。


「やめだやめだ! くだらねえ!」


 ご隠居が突然怒鳴り飛ばし、重苦しくなった空気を無理やり吹き飛ばした。


「シンはシンだ。生まれも過去も関係ねえ。お前もあんまりつまらねえこと言いふらすんじゃねえぞ」

「ええ、分かってます。私もシンは大好きですからね」


  義父の指図に、ヒュアースは迷わず同意する。シアンの顔つきは少し不安気だ。


「でも……面倒が起きなければいいんだけど……」

「うーん、あの美貌と気性だけでも、トラブルの種だからなあ……」

「バカもんっ!」


 懸念する娘夫婦を、老人は叱りつけた。


「それを支えてやるのが仲間ってもんだろうが。お前達も、できる限り気を付けてやるんだぞ」


 二人は力強く頷いた。


 ――下町の多くの仲間達から見守られていることに、シンは気付いていない。

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