序章 葵の御紋
(面白くねぇ……)
松平頼基は、そうぼやきながら成田不動近くの御蔵前を、つらつらと歩いていた。
烏羽色の着流しに女物の派手な小袖を羽織って、大刀一本のみを落とし差しにした異装である。
御蔵前の人通りは多い。道行く人々がその異装に目をやるが、頼基はそれを一切構う事はない。
無役の頼基は、暇だった。故に、面白くない。本当にそう思う。
剣は飽いたし、学問に精を出すなど柄ではない。小普請の弱小家禄を食む身には、自由に酒を飲む銭などありはせず、吉原に流連など夢のまた夢だ。銭が無ければ内職をとは思うが、面倒な事は当然したくない。
かと言って、神楽坂の屋敷に帰れば、小煩い母親が待っているだけである。
(世が世なら、肩で風を切って歩ける身分だったのによ)
頼基は十八松平の一つ、鵜殿松平家の当主である。徳川姓ではないが、鵜殿松平といえば皆が尊敬する身分である。
それが、〔下馬将軍〕こと酒井忠清のせいで日陰者になってしまった。
忠清が徳川宗家を潰して宮将軍を擁立すると、それまで徳川と名乗っていた者全員に、宮将軍への遠慮という事で松平へ改姓するように命じたのだ。それに反対する尾張・水戸・紀州藩の御三家は、謀叛という名目で幕府軍に滅ぼされてしまった。
今や執権として幕政を壟断する、酒井得宗家の世の中である。幕閣要職は一門で占められ、その陪審に過ぎない御内人が幕府直臣である旗本・御家人を差し置いて、江戸を我が物顔で跳梁している。
それを変えようと、得宗家に反抗しようと試みる者もいる。頼基は内心で彼らを応援しているが、自分がそれに加わろうとは思わない。命を賭してまで酒井得宗家を倒そうという覚悟が、自分には無いのだ。それは臆病であると言ってもいい。
そう拗ねているうちに、二十四歳になった。このまま何も為さず、飼い殺しにされたまま老いていくのだろうか。徳川の血を引く、他の者と同じように。
(あべこべな世の中ったぁ、こういう事かねぇ)
面白くない日は酒に限る。しかし、銭が無い。仕方ない。不味いがツケが利く、知り合いの居酒屋でも行こうかと思った時、往来を塞ぐ人だかりに出くわせた。
喧嘩だった。三人の武士が、若い武士と向かい合っている。
若い武士の側には、十になるかどうかの幼い男女の兄弟。三人の武士は酔っているのか、赤ら顔で激高している。
「何があったんだい?」
頼基は、側にいた歯抜けの老爺に訊いた。
「あの子供が、三人の武士にぶつかって袴を汚したんでさ」
「へぇ」
「で、怒った三人の武士が切捨御免って時に、あの若侍が出たったわけで」
「ふむ。見掛けによらず、気概がある」
若い武士は、十八かそこらであろう。顔立ちには、まだ幼さが十分に残っている。色が白く貴公子然とした顔立ちは、軟弱なようにも見えるが、
(中々骨がありそうだな)
と、思わせるほどの眼光があった。
「そこをどけ、青侍」
「嫌です。子供相手にムキになって情けないですよ」
「何? 酒井得宗家の御内人である我らに向かって何という事を」
「御内人なら人一倍自らを律し、他の武士へのの範とならねばならぬのではないでしょうか?」
「……おのれ、もはや許せぬ」
三人が一斉に刀を抜き払う。それと同時に、若い武士も身を勇躍させ、一人に抜き打ちを浴びせていた。
(斬ったか)
いや違う。刀背打ちだった。更に一人は小手を打たれ、もう一人は肩を打たれた。
見事な手並みと度胸に、野次馬から拍手が挙がった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「いやぁ、見事見事」
御内人が這うように逃げ去ると、頼基が声を掛けた。
「当然の事をしたまでです」
「当然と来たか」
「武士ですので」
「もし俺なら、足が竦んで何も出来なかっただろうな」
すると、若い武士は軽く微笑んだ。
大きな目だった。傍で見ると、やはり幼くも見える。額にある赤い面皰が、何とも若々しい。
「やるね。〔やっとう〕は?」
「清流館で少し」
「京橋の千葉派壱刀流か」
「あなたは?」
「松平頼基っつう遊び人さ」
「松平……」
その姓を聞いても、若い武士の表情に変化は無い。大抵、松平と聞くと驚くものだ。
「お前さんの名が聞きたいね」
「芳賀助之進と申します」
「芳賀ね。この辺りの者かい?」
「いえ、谷中にある紅粉屋藤兵衛の寮に住んでおります」
「芳賀の姓で紅粉屋って来りゃ、伊草島の八院藩か」
すると、助之進という若者は首肯した。
「私は一度も訪れた事がないのですが、父が八院藩の家老をしております」
「知ってるぜ。八院藩の芳賀冬帆といやぁ、切れ者で江戸まで名が届いていてらぁ」
「私はよく判りませぬ。あまり縁がありませんので」
「そうかい。ま、人には色々あらぁな」
不意に周囲が騒がしくなった。先程、助之進が打ち倒した御内人が仲間を引き連れて戻って来たようだ。
その数、十。流石の助之進も、その数に顔を強張っている。
「情けねぇなぁ」
頼基は嘆息し、助之進を後ろに押し退けた。
「松平殿」
「まぁ、任せとけって」
この放蕩児が、若造に触発されたのか。そう思えば笑えてしまう。
「おい、どうしたんだ大勢で」
「何者か知らぬが、そこをどけ。私は後ろの若造に話があるのだ」
小手を打たれた男が、腕を押さえながら喚いた。
「へぇ、先程の経緯を見ていたが、お前らが悪いぜ」
「我らは御内人だぞ。それも、内管領・小笠原右膳様直属の」
「だから? 天下の御内人が子供に因縁を吹っ掛けた挙句、若造に捻られ、臆面もなく数を恃んで意趣返しかい。情けないねぇ」
「貴様」
そう挑発している内に、頼基も腹が立ってきた。これが、今は幕政を動かす御内人の姿かと思うと情けなくなる。
これが、武士かなの。助之進という男に比べたら、この男達が唾棄すべき存在ではないか。
「抜くか? 抜くなら、これを見て抜きやがれ」
と、頼基は女物の小袖を脱ぎ捨てた。
着流しに記された、葵の御紋。それを見て、御内人の血の気が引いていく。
「俺は鵜殿松平家当主、松平十郎三郎頼基。この紋所に文句がある奴ぁ、前に出ろい」
流石の御内人も、この啖呵には言葉を失ったようで、何もせずに退散した。
「よ、葵の大将軍」
「松平、いや徳川の大樹公」
どこからか歓声が挙がった。粋な江戸町人が発したのだろう。日ごろから御内人の横暴を苦々しく思っていた町人達が、手を叩いて称賛している。
その騒がしい中、助之進が深々と頭を下げていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
久し振りに、気持ちの良い酒が飲めた。
御内人に一泡吹かせたし、何より葵の御紋が思いの他に利いた。
「今更、徳川など」
と、失笑されるかと、内心はヒヤヒヤだったのだ。
(それにしても、芳賀助之進)
武士ですから、と言った。久しく、意識しなかった事だった。武士の棟梁となるべき徳川の血脈の裔だというのに。
宵闇の中、船河原町の居酒屋を抜けて川岸に出た。
中秋の夜風が、川面を凪いている。酔いを醒ます、心地よい風だった。
「伊草島か」
九州の遥か海西に浮かぶ、絶海の孤島である。
島民の気性は荒く、島内外で戦が絶えないが故に、〔戦島〕などとも呼ばれている。一度は訪れてみたい場所だった。
しかし、それは無理だろう。時勢が乱れつつある。
十年前、幕府はエスパルサ王国に壱岐対馬を攻められ、手痛い損害を受けた。それは何とか切り抜けたものの、幕府を助けたサンレーヌ王国と同盟を組み、〔居留地〕と呼ばれる領地を国内数か所に与えてしまったのだ。それに、浪士と呼ばれる反酒井得宗家の怒りが爆発。朝廷と組んで、何やら蠢動を始めている。
ふと、頼基は川岸を歩む足を止めた。
殺気だった。闇の奥に何かが潜んでいる。
「出て来い」
そう言うと、闇の中から覆面の男達が、五人現れた。
「松平頼基」
その声に聞き覚えがあった。恐らく、御内人だろう。したたかな、怒りが込み上がる。
御内人。いや、それを用いる、酒井得宗家に。
(幕府など、滅ぼしてやろうか)
徳川の血を引く、この頼基なら出来るかもしれない。
しかし、その徳川が倒幕とは、それこそあべこべな話ではないか。
(まぁ、それも一興)
だが、全てはこの五人を始末してからだ。
頼基は、大きく息を吐くと、腰の一刀を抜き払った。




