【第3部番外】メイサのお説教
開かれた窓から流れ込んだ爽やかに乾いた風が淡い緑色のカーテンを揺らした。そして風はあたしのところまでやって来て、前髪をそっと持ち上げる。
随分心地よい風だった。微かだけれど、秋の気配を含んでいる。それもそうだろう。だってもう秋はすぐそこまでやって来ている。そして秋が深まる前に、あたしはジョイアに戻る事になっていた。
あたしは手に持っていた手紙をベッドの脇のテーブルに置く。そしてそっと目線を下ろすと、膨らみかけたお腹を撫でた。ルキアの時と違って膨らむのが早い気がした。二人目だとそういう事もあるってお医者様は言われてたけど……動かないでじっとしてるから太っただけなのかもしれない。
溜息をつく。今日何度目だろう。いくら溜息をついても、胸の中の熱を持った想いが消える事はなくて、その事にまた溜息をつきそうになる。
また手紙を手に取って、そっと開く。もう何度も読み直したその手紙。届いたのは昨日の事なのに、既に少しよれてしまった。
相変わらずきれいな字で書かれた一文を指先でなぞる。すると彼が手紙に語りかける声が心に届いた。
『内緒にしてて驚かせようと思ってたけど……びっくりしてお腹の子に何かあるといけないし。――来週、ジョイアを発つよ。僕が君を迎えに行くからね』
それを読んでから、あたしはお祭りを待つ子供みたいに、その日を指折り数えるはめになってしまった。こんな想いをするのは、ジョイアに向かう旅の途中のはずだったのに。
ふと後ろでクスクスと笑い声が聞こえて、振り向くとメイサが笑いながら部屋に現れる。
「落ち着かないみたいね」
「……だ、だって」
「まさか直々に迎えにくるなんてね。表向きは鉱山の視察ですって。あの皇子さま、のんびりぼんやりしてて、鈍い鈍いと思って油断してると、いきなり大胆なことをするからびっくりしちゃうのよね。いまいち掴めないわ」
あたしは相槌を打つ。シリウスは確かにそうだった。本当はしっかり計算してるのかもしれないけれど、あの普段の穏やかさ――のんびりぼんやり鈍いは酷いと思うけど――を知っているととてもそうは思えない。
それにしても……
メイサのニヤニヤ笑いには全く慣れない。このところ、それが酷くなってる気さえする。
「そ、そんなにおかしいかしら……」
「ううん、初々しくて可愛いと思ってるだけよ。変な子。二人目の子供を産もうとしてるのに、最近初めて恋を知ったみたい」
くすくす笑われて、頬を膨らます。
「メイサはこのくらいのちょっとした事じゃ動じないのよね、きっと」
少しの皮肉を込めて言うと、さらりとかわされた。
「まあね、歳をとればそれなりに修羅場も経験して強くなる訳よ」
修羅場って……尋ねようとするけれど、その横顔が少し翳っているような気がして口をつぐむ。彼女がこんな顔をするのは、大抵彼が絡むから。
でも……修羅場って言えば、あたしも結構なモノをくぐり抜けて来た気がするのよね。なのに、まだこんなに子供っぽいのが悲しかった。二児の母になろうというのに、初々しいって言われるのは……。でもメイサが言うように、最近になって彼に二度目の〈恋〉をしているような気がして、不思議だった。そんな事を思いながら、こっそり彼女を見ると、目が合って笑われる。
あと五年したらメイサみたいに落ち着いた女性になれるのかしら。……なんだか想像できないのも情けない。
メイサはまたもや肩を落とすあたしの頭をそっと撫でる。
「それでも子供を産んだ事は無いから、あなたみたいな強さは無いわ」
「強さ?」
「死ぬのを迷わず止めたでしょう」
「……」
「母は強しって本当ねえって思ったのよね。一人産んでたから、余計に可愛かったのかしら」
「……そうかも……しれないわ」
確かに、お腹にいるこの子の将来がルキアの姿と重なった。そんな風に形に見えたから、余計にそれを失うのが怖かったのだと思う。ルキアと過ごした七月という日々は、毎日がすごくキラキラと輝いていた。一日一日に考えられないほどの変化があった。あたしは驚くほどそれを覚えていた。きっと、無意識に幸せの期限を感じていたからなんだろうと思う。
「それにしても……今度は、どっちかしら。分かる?」
「性別? ――さすがに分からないわ。でも…………」
「女の子?」
「……なんで?」
「ちょっと悲しそうにしたから」
「……」
あくまでなんとなく、なのだ。だけど、ルキアのときには感じなかった〈何か〉を感じていた。もし、それが、その兆候ならば…………この子の歩む道はあたしと同じかもしれない。もっと厳しいものかもしれない。でも、あたしは、あたし達はきっとこの子を守ってみせる。あたしが父さんや、母さん、それからシリウスやヴェガ様……いろんな人に支えてもらったみたいに、今度はあたしが、……〈あたし達〉がこの子を支えていく。
「大丈夫よ」
あたしは手をぎゅっと握ると、心配そうにしているメイサに向かって微笑む。そしてお腹をそっと撫でながら、優しく語りかけた。
「シリウスと、あたしが守ってあげるからね。あとあなたには素敵なお兄ちゃんがいるわ。ルキアって言うのよ」
「……変わったわねぇ……」
メイサは感慨深そうだった。
「前だったら〈あたしが〉守ってあげる、だったのにね。ま、あの皇子様、ちょっと見ないうちに大きくなったものね。うん、いい傾向だわ」
シリウスが褒められるのがすごく嬉しくて、思わず頬が緩む。
「それにしても、ルキアくんかぁ……どんな皇子様になるのかしらね。〈伯父〉さんそっくりになったら、皇子さま、嫉妬しそう」
メイサはそこで言葉を切る。そして躊躇った後、そっと尋ねた。
「…………あのとき、分かったの?」
メイサが問う意味はすぐに分かった。あたしは小さく首を横に振る。
「はっきりは分からなかったの。でも――」
もう一度確かめられたらって思ったけれど、もう母の部屋には入れなかった。それはシトゥラではもう暗黙の了解。
『――ルキアは、僕の子供だ。僕が一番、スピカを愛しているから、だから――』
あの言葉をシリウスが言ったからには、もう確かめる理由が無い。あたしが調べれば、彼のその言葉をあたし自身が否定してしまう事になる。
もともと、ルティが〈否〉と言わなければ、どうやっても証明できないような事。そして彼はなぜか結局口を開くことが無いままに、シトゥラを去り、王都エラセドへ戻ってしまった。あたしはほぼ確信してるし、シリウスにはあたしが見たものを伝えてもいいけれど……状況が状況だけに、説明する事で逆に変に揉めそうな気がした。
あたしはシリウスにあの夜あった事を詳らかにする勇気がない。その他もろもろの事は余計に言えない。自分の記憶が消せるのならば消してしまいたいくらいの事だったし、それこそお墓まで持っていかなきゃいけないかもと思っていた。
それに――
あたし自身、もうあの言葉だけで十分だった。彼がそう言えば、血筋の問題が酷く小さい物に感じられるのが不思議だった。
「確かに、皇子様がいいって言ったからね、誰も口出し出来ないわ。……あのとき、あの子もやるなあと思ったのよ。陛下の前で、あんな若い子がああ言えば、陛下もあなたを無下に扱えなくなる。もし、彼の提案を呑まないとすれば、十七歳の子に男として負けてるってことになっちゃうでしょ」
「え?」
あたしは驚く。だって、てっきりシリウスは王の良心に訴えていたと思っていたから。――言われてみるとそうだった。感情論かと思ったら、意外に冷静に詰めてたんだ……。
「あの状況で、ああ言えるっていうのは、ねぇ。侮れないって思っちゃった。結局全て勝ち取った事を考えると、ルティよりよっぽど策士かも。で、普段を知ってるとあれが計算には見えないから、厄介よね」
言葉はきついけれど、さっきからメイサは、随分シリウスを褒めているみたい。シリウスが褒められる事って少なかったから、やっぱり素直に嬉しかった。彼は、どうしてか誤解されやすいんだもの。そう思ってニコニコしていたら、急にメイサが眉を寄せた。
「――でもね。あなたの前ではどうしてあんなに駄目なのかしら……」
メイサがぼんやり呟くけれど、あたしはそれを風にさらりと流す。
何度言われたか分からないその台詞。これ以上聞いたら、きっと耳にタコができてしまう。
「大体、あなたもね、あれだけ注意したのに……皇子様が可哀想ってのは分かるけど、甘やかしちゃ駄目に決まってるじゃない!」
喧々諤々とお説教を始めるメイサに背を向けるとベッドに潜り込む。
甘やかしたんじゃないもの……それに、お医者様も大丈夫だって言うから……。
何度言ってもメイサは聞き入れない。多分、彼女の中でいくら評価が上がろうと、未だにシリウスは〈その部分では〉そういう印象なんだろう……。
シリウスはあの後すぐにはジョイアに帰らなかった。ラサラス陛下の回復を待って改めて様々な利権について話し合いが持たれ、それはシトゥラで行われた。だから……あたし達はしばし再会の幸せに浸る事が出来たのだ。
でも、会談が終わり、シリウスはジョイアに帰る事になったとき、あたしはまだ本調子じゃなくて長旅には耐えられなかったから……。
――置いて帰らないで欲しかった。ずっと傍に居て欲しかった。でもそれは皇子である彼には無理な話。彼にはジョイアでの仕事がたくさん残っていた。
だから……彼がジョイアに戻る前日、あたし、どうしても寂しくて、離れたくなくて。自分の部屋に戻る彼を引き止めて――一緒に居てって、甘えたのはあたしの方だった。
それが直接の原因ではないと思うけど、その数日後――そう数日後なんだからやっぱり原因はそれじゃないと思うけど……――ほんの少し体調が悪くなっちゃったものだから、メイサはシリウスのせいだって怒っちゃって、わざわざ手紙で罵詈雑言を浴びせていた。
お医者様は心配はいらないって言われてたし、シリウスに心配かけたくなかったから黙ってておいてほしかったのに……。
シリウスはシリウスであたしを庇って否定せず、素直に「反省してます」って手紙で謝ってきた。手紙に映る彼はそうやって悪者になるのを喜んでるようにも見えた。
まだ甘えることは慣れないけれど、抵抗は無くなってしまった。あんなに彼が嬉しそうにするなんて思いもしなかったから。
「――あぁ、もう、なんて幸せそうな顔してるのよ……ちっとも反省してないでしょ! 説教の意味が無いわ!」
覗き込まれて、呆れられる。ふと目の前の壁にかかった大きな鏡を見て、自分の頬がまたもや緩んでいるのを知る。違うの。反省はちゃんとしてる。だけど――
「……ありがとう、メイサ。叱ってもらえて、すごく嬉しい」
叱ってくれるのは、あたしの事が大事だから。それがあんまり嬉しいから、いつかメイサを姉さんと呼べればいい……そんな事も考えてしまう。そのくらいにあたしはこの再従姉のことが大好きだった。
幸せになって欲しい。メイサにも――それから――
未だ後ろ姿しか見せてくれない、彼。妹だと分かったあの時から、ひと言も話せていないまま。彼は何も語らずに去ってしまった。気持ちは分かる。あたしだって、突然血の繋がりを教えられても、気持ちの整理なんかつく訳がない。だから、今話されたとしても、何を話せばいいかなんて、それどころか向かい合ってどんな顔をすればいいかさえも分からないけれど。
あたし達の間にあった事を全部取り消す事は出来ない。簡単に忘れる事も出来ないだろう。だけど、あたし達は新しい関係を築いていかなければならない。兄妹という関係を。
ねえ、ルティ。今度、あたしがあなたを呼んだら、振り向いてくれる? 振り向いたその顔は――笑顔だと信じていいの?
ねえ、――お兄ちゃん
〈メイサのお説教 終〉