【後日談】再会のとき 6
それはスピカの部屋に遣った使いが戻って来てからすぐの事だった。
「え? 部屋にいない?」
侍従が口にした事をそのまま繰り返すと、隣にいた王太子は無言で立ち上がる。そして父に向かって「少しの間失礼いたします」と断り、爽やかな笑顔を無理矢理に張り付かせたまま食事の席から離脱した。
僕はメイサとスピカが花の中を優雅に散歩している絵を思い浮かべて――直後、慌てて侍従に命じる。
「近衛隊長に言って、急ぎ二人を探させてくれ。『王太子殿下がお怒りです』って」
そうして、風のように部屋を後にした彼に続こうと立ち上がる。
「え、なに? ルティリクス様はどうなさったの?」
ミルザが父に問うのを横目で見つつ、僕は目で父に了承をとると彼の後を追った。
「なにやってるんだあいつは。じっとしてろって簡単な命令も聞けないのか」
ぶつぶつと言いながら、ルティは早足で廊下を歩く。ジョイア宮中に詳しい彼には当然案内など必要ない。その長い足は真っ直ぐに僕の部屋へと進んでいた。
いつも端然としているはずの後ろ姿には、今はなぜか酷い焦躁が浮かんで見える。僕は形だけでも並んで歩こうと、足を早めて隣に並ぶ。
「だから、そんなに心配ならいつも隣においておけばいいのに」
僕は敢えてもう一度言う。理由などいくらでもつけられるし、それが一番安全だろう、あらゆる意味で。
「ジョイア帝に見初められたら終わりだろう」
ルティは、さきほどと同じ答えを繰り返す。はっきり言わないと分からないのかとでもいうようなうんざりとした顔だった。
「だから、それはないって」
まず、父が娘とも言えるくらいの歳の女性に手を出すなんて事は有り得ないんだけど。今でも父が母を愛しているのを僕はよく知っているし。
……まあ、一時期ラサラス王がスピカを妃になんて事を考えていたこともあったのだし、そういう国で育った彼だ。それに加えてメイサのあの美しさ。心配する気持ちは分からないでもない。
だけど、今回は回避策はあるのに。なぜこの男はいつも黙りを決め込むんだ。
「大体、そんな事言われる前に、婚約者ですってはっきり言えばいいのに。いくら美しくても、父はわざわざ他人のものに手を付けるような人じゃないよ」
「まだ国内で婚約の手続きが済んでないのに、こっちで先に披露なんか出来るか。正式な手順を踏まなければ、あいつが軽く見られるだろう。だから内々に連れて来てるのに」
ああ、それで同伴の連絡がなかったわけか。納得して僕は提案する。
「じゃあ、内輪だけの話にすればいいじゃないか。そのくらいの融通はきかせるつもりだけど」
「俺がお前を信用出来ると思うか?」
「信用出来ないのは自分の行いが悪いからじゃないのか?」
さすがに皮肉を返すけれど、彼は全く堪えた様子もない。僕の助力など欲しくないのだろう。ふんと鼻で笑った後、今の申し出などなかった事のように、苛立ちを纏った言葉を吐き続ける。
「それに、万が一ジョイア帝があいつにその話を持ちかければ、あいつは頷く」
「はぁ? なにそれ」
なんだか頭が痛くなって来た。ルティ、君たち一体どういう関係なんだよ。もしかして一方的な片思い? もしそうだったら、何かいろいろ逆転してないか?
「あいつは損得で物事を考える癖がある。国の為とかふざけた事を言って、嫁ぎかねない。今まであいつがどれだけそうやって身を売ったか」
身を売る? その言葉にぎょっとする。――いや、それはないと思うけど! 彼女、確か言ってたし。『好きな男以外とそんな事したくない』って。
「それは誤解なんじゃ……彼女、そんなことしないと思うけど」
「誤解なもんか。あいつ、お前とだって寝ようとしただろう」
「知ってたの?」
怒りすぎてるのか、その耳が真っ赤だった。髪の色と見分けがつかなくなっている。あ、なんか頭の血管切れそうだけど、大丈夫?
「ああ、とてもよく知っている」
低い声が刃のように尖った。僕を殺意の籠ったような目で睨んだあと、ルティはふいに怒りの矛先を変えた。
「大体、スピカが生むのを遅らせれば良かったんだ。そうしたら、全て整ってから正式に訪問出来た。面倒を避けられたんだ」
「そんな無茶な。生まれる時期なんか、決められる訳ないだろう」
僕は男――特に独身男――特有の勝手な言い分に呆れて、ため息をつく。
「そんな事言うなら、お祝いにだって、ゆっくり来れば良かったのに」
「あいつは絶対行くって言って聞かないし」
「……ああ、そういうこと」
ぴんときた。つまりは、彼の急なジョイア訪問の主目的は会談ではない。そのやり口には思い当たることが十分あり、仲間意識に僕は思わず頬が緩む。
一方、いつの間にかルティの顔は険悪だ。その顔に思わず吹き出しそうになると、ルティは僕をちらと見て足を早めた。もう僕は小走りにならないと追いつかない。
黒い磨かれた石が敷き詰められた廊下に、靴が打ち付けられる音が響く。食堂を出た後、早足であっても穏やかだった足音は、今は随分慌ただしくなっていた。僕の息はそれにつられたように上がっている。
「くそ、なんでこんなに遠いんだ」
確かに会議は本宮の南端で行われ、僕の部屋は北端だった。直線距離でも結構あるのに、通路は都合良く通っては居ない。最短でも本宮を西へぐるりと迂回するから、思っているよりも時間がかかった。
悪態をつきながら大股で歩く隣国の王太子と、小走りの自国の皇太子に、侍従や近衛兵がぎょっと目を見開いて道をあけて行く。再び追いついた僕は、話を続けた。
「でもさ、そんなにぴりぴりするくらいなら、メイサにわがまま言うなって言えばいいだろう」
「お前なら、スピカにそう言えるのか?」
「……」僕は少し考えて、肩を落とした。「言えない、かも」
もし逆の立場、メイサが出産して(誰の子供かはこの際考えないけれど)、スピカがお祝いに行くと言い出したら、止めることなど出来ない。駄目だと言えば、彼女はきっと悲しむ。そんなもの見たくない。甘いと言われても、惚れた弱みかもしれない。
ルティも同じなのかな、そう考えていると、
「だろう。言っても無駄だ。あいつは俺の言う事なんかまったく聞かないんだ」
ルティは疲れた調子でそう言った。
言う事を聞かない? そうなの? なんだか微妙なずれを感じて、尋ねようとした時、ふいに彼が立ち止まる。
僕は彼の背中にぶつかりそうになって、慌てて足を止め、そして顔を上げた。
クスクスという笑い声が響いた。笑いあう二人の美しい女性は部屋に入ろうとしているところだった。一人は淡い緑のドレスを着た、子を三人産んだとは思えないほどに、可憐で瑞々しい僕の妻だ。そして隣には、黒いドレスを着た、妻より少しだけ背の高い、色香が周囲にまで匂うような艶やかな女性。その腕の中にはルキアが満面の笑みを浮かべて抱かれていた。ミルザに抱かれているとき以上に嬉しそうだった。もしかしたら、抱かれ心地の差だろうか。うん、まあ、あの胸は誰が見てもすごいし。
そんな事をぼんやり考えた僕の隣で、男の視線が細く尖った。それを見て、まさか、と思う。半年前に彼がここを訪ねた時には見せなかったその表情に、僕はとある考えが浮かんだ。けれど、それは同時に沸き上がったルキアの命への心配であっという間に吹き飛んだ。