【第1部番外】in the Hot Spring
第1部終了後の読了をお勧めします。
第1部と第2部の間のツクルトゥルス、アルフォンスス家での出来事。
「皇子殿下。湯殿が用意できました」
「ああ、分かった」
侍従の声に僕は立ち上がると部屋を出る。先ほどまで書簡に目を通していた。アウストラリスへ送る、招待状だ。
そう、立太子の礼では諸国の賓客を招く。そしてその賓客は大抵王族や皇族。アウストラリスの場合は、きっと数多く居る王子の一人が国を代表して出席するはずだった。
僕は顔を知る王子を思い浮かべながら筆を走らせ名を入れた。彼女は僕のものだ。もう誰にも渡さない。お前にも。
アイツはこれを見てどうするだろう。素知らぬ顔で出席するだろうか。そして隙あらばかすめ取ろうとするだろうか。それとも、他の王子に役を任せて様子を伺うのだろうか。
僕はアイツがどうする気なのか。それが知りたかった。諦めてくれたのならそれで良い。でも、そうとは思えなかった。僕がアイツだったら……きっと何が何でも奪おうと思うに決まっているからだ。
服を脱ぐと、冷気が肌を刺す。ツクルトゥルスの春はまだ来ない。そしてここの湯殿は珍しくも屋内にも屋外にも据えてあり、僕は外で空を見ながら湯に浸かるのが好きだった。
ここで使う湯は温泉。源泉がかなり熱いため、冷気で冷ましてちょうどいい温度となる。夏は川の水と混ぜないととても入れる物ではない。
肩に冷たい物が触れ、空を見上げると夜空を雪がちらついていた。
飛び込むように湯につかる。強ばった肌が一気に緩む。温度差にぴりぴりと肌が痛んだが、目を閉じて堪える。しばらくそうしていると肌が湯になじみ、ようやく痛みが落ち着く。
そのまま池のように広い風呂を奥へと進み、お気に入りの場所へと落ち着く。岩に囲まれた一角。源泉が近く、熱めの湯と注ぎ込む水音が楽しめる。
「ふぅ」
息を吐ききると、手足を伸ばし空を見上げた。水面から上がる湯気で辺りがかすんでいた。
こうしていられるのもあと少し。近いうちに僕たちは皇都に戻る。そして、戻れば皇子として務めを果たさねばならない。おそらくこんな風に空を見上げて心を休ませることもなく。
なぜかひどく不安だった。
僕は上手くやれるのだろうか。
自分が子供だと言う事は一連の事件で思い知った。僕は何も知らない。権力を操れるだけの力も、才気も持たない。とにかく持ち駒が少なすぎた。
信頼できる人間は叔母とレグルスと、スピカだけ。当然と言えば当然かもしれないが、父さえもまだ完全には信用できなかった。
ルティの裏切りは僕の心に影を落とした。レグルスが連れて来て、信頼していたというのに、あんな形で裏切られたのだ。
こんな状態で、敵だらけの宮に戻って、僕は一体何が出来るというのだろう。皇位の継承が決まってしまった今、僕が役に立たないと知れば、誰もが僕を傀儡にしようと企むだろう。これから、僕の元には僕の義理の親になるがため、娘を差し出す貴族が次々に連なるだろう。
僕にはまだそれに対する何の用意も無い。
武装した兵の中に丸腰で飛び込むようなものだ。
もちろん考えなければならないとは思っている。スピカのために。ただ、どうして良いのか途方に暮れてしまうのだ。
スピカの身分。そしてその力。皇子である僕と一緒になるには障害が多かった。身分一つだけでも頭が痛い問題なのに。
──逃げてばかりいても駄目な事は分かっていた。少ない武器でも、戦わなければならない。僕とスピカの居場所を宮に何としても作らなければならなかった。彼女を手にするのなら皇子を辞めろと言う人間も居るだろう。でも僕はその地位を失えば、何の力も無い人間だ。好きな少女一人守る事の出来ない、ただの子供だった。今その地位を手放せば……スピカはルティにいや、彼だけではない。他の男達にやすやすと連れ去られてしまう。僕は皇子の権力を振りかざしてでも、いくらその姿が情けなく滑稽でも……彼女を守らなければならなかった。
────力が欲しい。真に自分に付随する力が。
僕はあの事件からずっとそう思い続けていた。
僕は頭まで湯につかる。
室内に戻って、体を洗わなければ。適当にすませるとスピカに怒られる。
体を誰かに触られるのは極力避けて来た。普通皇族であれば一人で湯浴みなどしないはずだけど、僕は誰かが一緒なら湯など使わないと宣言していた。世話をしてもらう事自体に……ひどく嫌な思い出があったから。
あれ以降僕の肌に触れた人間はスピカだけだ。
あの柔らかい肌に触れたかった。抱きしめて、存在を確かめて、安心したかった。
彼女だけだった。怖がらずに全部預けられるのは。でも──今は別の意味で怖い。
──だめだ。
これ以降考えると自己嫌悪に陥って、しばらくは浮上できなくなってしまう。やめた。考えるのは。
ああ、本気でのぼせそうだ。そろそろ出よう。そう思って立ち上がりかけたとき、
「──ヴェガ様、寒い!」
は──?
スピカの声だった。
「寒いから良いのよ。あなた、ここの湯殿は久しぶりでしょう? 覚えてる? 小さな頃はシリウスとプール代わりに遊んでたけれど。傷も良くなって来たし、せっかくだから帰る前に入ってた方が良いわ」
叔母の声もする。
風呂場の入り口から二つの黒い影が現れ、僕は慌てて回れ右をした。そしてあごまで湯につかる。
ドプンと音がして丸い波面が目の端に届く。
「熱い!」「ほらほら、肩まで浸かって! すぐに慣れるわよ」
な、な、なんで!
スピカだけなら、いい。
はっきり言ってその場合はラッキーだ。彼女を風呂に誘おうなど、変態扱いされるのがオチだった。夫婦同然なんだから、僕としてはそのくらいしても良いと思うんだけど。というか、そうしたい。でも、彼女の性格から言ってそんな事言うだけでも多分駄目だ。何かの偶然を装うとか、策を練ってからで無いと。はっきり言って真っ向勝負は嫌われそうで怖い。
問題は、叔母。
さすがに…………見たくない。想像することさえも禁忌めいたものを感じてしまう。万が一目にすれば変な夢でも見てうなされそうだ。もちろん見られたくもない。もう子供の頃とは違うのだ。
……どうしよう。
出口は一カ所。通れば彼女達と鉢合わせ。せめて腰に巻く布くらいは持ってくれば良かった……
僕の葛藤をよそに、女二人のおしゃべりは続く。
「ねぇねぇ。スピカ。シリウスってどう?」
叔母がスピカに話しかけている。
あのさ。どうって何が。予想が出来て、のぼせも手伝ってクラクラして来た。
「何がですか?」
「うふふ、もちろん閨での事よ!」
「!」
ああ……やっぱり。『あの』叔母が聞かないとは思えなかったのだ。思い返せば、成人の儀の後も何か聞きたそうにしてた。あの時はそれどころじゃなかったから免れたけど、落ちついた今なら聞いてもおかしくない。僕が警戒してたから、標的をスピカに変えたらしい。
「え、えっと」
「ちゃんと満足させてもらってる? 変な方向に頑張ったりしてない?」
「ま、満足?? へ、変な方向って……」
ああ、もう、一体何を聞いてるんだよ! スピカも答えちゃ駄目だ。……答えは、聞きたいけど聞きたくない!!!!
このままここに居たら耳を塞いでても聞こえてしまう。スピカの答え次第では立ち直れないぐらいに傷つく可能性がある。下手したら再起不能。恐れが興味に勝った。背に腹は代えられない。
ザバザバとわざと音を立てて泳ぐようにして出口に向かう。
「シリウス!?」
叔母から目をそらしたら、しっかりとスピカが目に入った。彼女は唖然として隠す事も忘れていた。闇夜でも分かる、そのきれいな胸の形。頭の血が沸点に達した気がした。
──あれ?
次の瞬間、天と地が逆転した。
*
遠くで声が聞こえる。背中が痛い。
「ちゃんと育ってはいるみたいねぇ」
「ど、どこを見て、え、──見ちゃったんですか!?」
「なに怒ってるの。私はこの子の叔母よ叔母! 別に見たからってなんて事無いじゃない。だいたい男の裸くらいで動揺するような歳でもないわ。あなたこそ何よ、今更そんなに動揺しちゃって」
「…………」
見なくてもスピカがどんな顔してるか想像できた。ああ……なんだかもう、どうでもいい感じ。
「ああ、それじゃあ介抱お願いね。侍従を呼んでも良いけど、どうする? どうせ自分でやりたいでしょ?」
「念のため……お医者様呼んで来てくださいますか?」
「分かったわ。……のぼせただけだと思うけど」
足音が遠ざかる。それと同時に唇に冷たくて柔らかい物が触れた。口の中に水が流れ込む。
あれ……これって……もしかして。覚えのある甘い感覚を確かめたくて、目を開けようとするけれど、瞼が重くて開けられない。手を伸ばしたいけれど、だるくて駄目だった。意識が体の少し上を漂ってるような感覚だった。
水は甘く体に染み渡る。のどの渇きよりももっとひどい渇きが胸に広がって、焼け付くようだった。
ずっとこうしたかった。でも出来なかった。
この唇が、最後に触れた場所を思い出すと、優しく触れるだけではすまない気がした。彼女の全てを奪い尽くすような、そんなことしか出来ない気がした。
ごめん、スピカ。僕はやっぱりあの事を忘れられない。あの口づけが忘れられない。今でもその唇の上にアイツの印が残ってるような、そんな気がしてならないんだ。
アイツが笑う。情けない僕を見て笑う。その残像をどうしても消し去れない。
君を好きだという気持ちと同じくらいの強さで、あの口づけが憎くてたまらない。その愛らしい唇が憎くてたまらなかった。
いつもは隠し通してるはずなのに、今は……どこか箍が外れたようで、どこまでもそんな気持ちが流れ出て行くような気がした。
どうか。この気持ちが彼女から隠せていますように。
甘く可愛らしい口づけが続く。熱に浮かされる。ともすればすぐに手放しそうな意識の中で僕はそれだけを必死で祈った。