【後日談】再会のとき 2
その日、宮は午後に到着するという来客を迎える準備でざわめいていた。あちこちで、黄色い声も上がる。それも仕方がない。〈彼〉が王太子として知られたのは半年前の事だったけれど、〈彼〉の存在自体はそれ以前からこの宮で知らないものはいないほどだったのだから。
まず剣術大会での優勝はまだ記憶に新しい。そして、僕の側近として宮に一時期〈遊学〉していたのも公のこととなっている。もちろんそれは表向きの話だけれど。
僕の妃候補として送り込まれていた女性――宮に仕官している侍女達は、彼が王太子と知るなり、ミルザと同じように恋の罠に嵌ったようだった。身分がないままでも魅力的な男だったのだ。王太子と知れば、誰もが放っておけないのだろう。
率先してアウストラリスに向かったシェリア、それからエリダヌスを彼が見初めたという話は届いていないし、夢を見る女性も多そうだ。僕は騒動の予感を感じて、大きくため息をついた。
「どうしたの? シリウス」
声をかけられてはっとする。緑灰色の瞳がこちらを心配そうに見つめていた。
「あ、いや……なんでもないよ」
「疲れてる?」
そう言うスピカは、窶れた印象が拭えない。髪を緩く項で纏めているからか、細くなった輪郭が、柔らかさを失った頬が、疲れを強調していた。出産という大仕事を三週間前に終えたばかり。そしてそのまま激動の育児生活に突入なのだから、当たり前ではあった。
「ううん。君ほどに疲れてはないから大丈夫だよ」
「ごめんね、何も手伝えなくて。あたしの、兄の事なのに」
「彼は王太子として訪問するんだ。君が気に病む必要は全くないよ。こっちのことは僕に任せておいて」
スピカは僅かに頬を強ばらせている。〈兄〉という響きはやはりまだ固かった。それは願いに近い言葉にも聞こえた。――彼がスピカを〈妹〉だと、そう呼んでくれるまでは、抵抗無しに呼ぶことができないのかもしれない。僕はそんな風に考えている。
スピカは桃色の産着を着た双子の一人を胸に抱えて、お乳をあげていた。彼女は今度は離乳まで頑張りたいと意気込んでいた。ルキアの時は途中でサディラに任せてしまったから。
と言っても、さすがに双子を一人でというのは無理な話。新しく乳母をと探したものの、突然雇った娘に大事な妃と娘達を預けられるほどの信頼が出来る訳もない。いまいち踏み切れなかった。
しかし、僕を悩ませた乳母の問題は、ルキアのおかげであっさり解決した。彼の乳離れが遅かったせいで、サディラがそのまま乳母を引き継げたのだ。僕もよく知らなかったけれど、お乳というのは飲む子供が居る限りは出続けるものらしい。あくまでスピカの補助として残ってもらうことになった。
ただ、ルキアは急に乳離れをしなければならなくなったので、なだめるのが大変だった。でも、「お兄ちゃんだから我慢出来るかな?」と言い聞かせると、意外にすんなりと妹達にサディラを譲ってくれた。
サディラ本人には無理であれば別で探そうかと提案したのだけれど、彼女はこの仕事に誇りを持っていたようで、他の娘に譲る気は全くなさそうだった。頼りになる臣下を持って、僕もスピカも幸せだと心から思う。
スピカが胸から子を離すのを待って、僕は尋ねた。
「ええと、それはエアル?」
「そうよ」
「じゃあ、リトスは? サディラのところ?」
「ええ」
僕は隣の部屋の扉を見る。部屋を改装して、二間続きだった部屋の寝室の隣に、もう一つ部屋を作ったのだ。
スピカは幼子の頭を撫でる。まだ色素は薄いけれど、黒髪だった。今は目を瞑っていて見えないけれど、その瞳の色は黒。それが双子の片割れのエアル。正式にはエアルナ・アネモス・ジョイア。春の風という意味だった。
そして今、別室でサディラにお乳をもらっているのが、リトス。正式名はリトラス・ウーラノス・ジョイア。こちらは空の宝石と言う意味。どちらも黒髪黒眼で、一見そっくりで見分けがつかないけれど、エアルは瞳の縁に僅かな緑が入っていて、リトスは真っ黒なのだそう。そしてエアルの方が微かに丸顔で優しく、リトスの方がすっきりした涼しげな顔立ちなのだそうだ。彼女の話す二人の印象から僕は名前を決めたのだけれど、この名は「似合っている」と周囲の人間には割と好評だった。
『リトスの方がお父さん似ね』とスピカは言うけれど、正直、どっちも僕似だと思うし(あ、これはもう、とんでもなく嬉しい事なんだけど)、違いがよく分からない。父親としてどうなのと叔母にも言われたけれど、叔母も分からないから文句を言われる筋合いはなかった。
とりあえず、僕を含め周囲の者たちの判別用に、エアルには桃色の産着、リトスには水色の産着を着せている。これはメイサからもらった贈り物。僕は女の子に水色ってどうなのと反対したけれど、どちらも可愛いし、使わないのは勿体ないし、判別には丁度いいでしょうとスピカが着せてしまった。そして、着せてみたらリトスには水色がとてもよく似合っていたのだった。
「か、……かあたー!」
高い金切り声と、ぎいと軋む音に部屋の入り口を振り返ると、髪と同じくらいに頬を赤くしたルキアが、大きな茶の目から涙をぽろぽろこぼしながら扉から侵入中だった。重い扉を必死で押し開けている。シュルマが後ろに立って苦笑いを浮かべてそれを手伝う。
「ええと、先ほどお昼寝が終わられまして――」
我慢の限界だったのか、ルキアがうわーんと大きな声で泣き始めると、スピカがおやおやと眉を上げる。彼女が「おいで、ルキア」と優しい声で呼ぶと、ルキアはたたたと駆け出してベッドの上に必死でよじ上り、スピカにしがみついた。
「ああ、エアルが潰れるよ!」
僕が慌てると、スピカは大丈夫とエアルを左腕に抱き直す。そして泣き続けるルキアの赤い髪を空いた方の右手でそっと撫でていた。
「ああ、敵わないな」
僕はひとまず、スピカと子供達を部屋に残して、仕事に戻る。なんというか、疎外感を感じてしまう。母と幼子の間には父親の入る余地なんかないのかもしれない。
あれだけ懐いていたルキアでも、やっぱり寂しい時はお母さんじゃないと駄目なんだ。
「――殿下、こちらでしたか」
今日はさすがに出入りが多い。今度はイェッドが顔を見せた。ということは。
「ご到着か?」
「はい。王太子殿下はひとまず謁見の間に向かっていらっしゃいますが……ええと」
「何? 何か問題?」
イェッドが言いよどんだのを見て、僕は首を傾げる。
「それほど大きな問題ではございませんが、実はお連れの方がいらっしゃいまして。お部屋の用意や食事の用意など……とにかく、こちらにお通ししてもよろしいでしょうか。お話を聞いていただかないと、私には対処出来ません」
「え――? って」
誰?と問おうとした次の瞬間だった。
扉の向こうから、一つの人影が現れる。ルキアと同じ燃える炎の色の髪をして、同じ大地の色の瞳を持った女性。
髪は高く結い上げて、アウストラリス風の体の線が強調される黒い細身のドレスを着ている。肩からかかったショールで隠れてはいるけれど、その体の放つ妖艶さはこちらまで匂って来るかのようだった。
確かに見知っているはずなのに、この外見をしている人間を僕は他に知らないのに……別人に見えて一瞬誰か分からなかった。
「ええと、殿下。そんなにじっくり見られるのは失礼ですよ」
思わずじっくり見入ってしまっていたようだ。イェッドの咳払いにはっとする。彼の顔を見ると、『スピカ様に言いつけます』としっかり書いてある。
僕は慌てて首を振って、「ち、が、う!」と叫んで、彼女に再び向き直る。
「――え、うそ」
そう言って呆然とする僕に、彼女はひどく魅力的な笑顔を向けた。艶やかな声が、その肉感的な唇から溢れる。
「お久しぶりでございます。――皇子、いえ、皇太子殿下」
「メイサ、なんでここに?」
隣国からの来客に対する礼、そんなものが吹き飛んでしまっている僕に、彼女は普段通りの彼女の口調で返答した。
「あら? 生まれたらお祝いに駆けつけるって言ってたじゃない? 忘れちゃったの?」
よそ行きの顔を止めた妃の再従姉の顔は、酷く気安く、そして懐かしい。
「覚えてるけど――え、え、でも、なんでルティと一緒……」
自分で聞いて、直後、理解する。それなりの身分を持つ貴族の娘が、王太子の隣国への訪問に付き添う――そんな理由は、そんなにたくさんは思い当たらない。気が付いて、僕は雷に打たれたような気になった。