【第3部番外】仲直りのきっかけ6
スピカ様の様子がおかしいことに気が付いたのは、しばらく皇子殿下とルキア様のお世話について昔話をした後だった。
「スピカ様?」
心配してかけた声に彼女ははっと顔を上げられた。そしてその肩越しに暖炉の上に置いたその冊子が見えて、急に思い出した。皇子と寝室に籠られる前に、あれの置き場所を聞いておかないと。
昨日顔を出したときには既にお二人は部屋に入られていて(日が暮れたばかりだったのだけれど)邪魔は出来ずに、今日出直すことにした。
あれを差し出したのは失敗だったかもしれない。話題作りに、って軽い気持ちで持って来たものの、よくよく考えると、私が持っているなんて思われなかっただろうし……。殿下がスピカ様の不在時に読まれたと思われても問題な気がした。私生活上の秘密は時に夫婦仲を壊す事もある。もしかしたら、そっちを気にしていらっしゃるのかしら? うーん……何か言いたげにしていらっしゃるけれど、相変わらず自分からは言って下さらないし。ともかく、このぎこちない雰囲気は早めになんとかしたい。
「先ほどのお話の続きになりますが……」
そう切り出すと、彼女の顔が強ばる。その視線が殿下に向けられるのが分かって、思わず小声になった。「……今後はどうされます?」
「どうって?」
「ルキア様のときはどんな風にされていらしたのですか?」
私が尋ねたのはその隠し場所。アルフォンスス家ではベッドの脇に小さな机が置いてあって、そこで彼女は書かれていらしたようだ。何度か見かけたことがある。でもここには机や本棚などが置いていないから、書斎に置いた方がいいのかなと思うけれど、彼女はそちらをしばらく使用しないはずだから、この部屋にそういう場所を作った方がいいような気がした。移動が大変だし。
部屋は無駄に広い。一冊どんと置くにしては目立ちすぎる。かといって、凝った場所などとなると、彼女が取り出すとき、いちいち大変だし。うーん。
「――ルキアのとき?」
見ると、怪訝そうに彼女の眉が寄っている。皇子殿下をちらりと見る。殿下はお手元の書類をじっと見つめてぶつぶつと何か呟かれている。私は小声で続けた。
「今までも内緒だったのでしょう? 今後も内緒にしておいた方がよろしいのかと思いまして。殿下も隠されてますよ」
「……隠す……」
顔色が悪い。一体どうしたのかしら?
「内緒にされない方がいいですか? 堂々とのほうが?」
まあ、堂々とされてる方もいらっしゃるし。私の知る限りでは少数だけれど。ただやっぱり置き場は皆様気にされると思う。皇子殿下に関してはさっき言ったように徹底して隠されていて、探しても見つからない。私が昔、殿下の書かれたメモの切れ端を見つけたのも単なる偶然だし、小さくちぎられたそれを復元するのには半日かった。スピカ様のものも発見した時は本棚の本の奥に隠されていたのだ。それがずっとそうだったかは知らないけれど、やっぱりこっそりつけられるのではないかと思う。
「…………どっちもいや」
「はぁ?」
今回はつけないってこと?
思わずくだけた調子で聞きそうになって、慌てて飲み込む。
「ごめんね、シュルマ、我が儘だって分かってるの。でもやっぱり駄目なの。あたし、獲られるのは嫌なの。あたしだけのものなの」
意味不明な言葉に戸惑う。相変わらずどっかずれてるんだから。日記なんて誰もとらないって。
「は? 誰もとらないですよ? その、スピカ様の負担にならないようにお手伝いをさせて頂くだけで」
「手伝い? ――それは、あたしが無理だから?」
眉間の皺が深くなるのを不思議に思いながらも頷く。ああ、そんな顔しちゃ可愛い顔が台無しじゃない。
あの日記は表紙が分厚いせいか今でも結構重いし、これから紙を継ぎ足して使われるならもっと重くなる。お医者様にも「極力重いものは持たせないように」って指示された。ルキア様は仕方が無いけれど、それも膝の上に抱くくらいにってきつく言われているのだ。
それなら運んであげないといけないでしょ。
「――あ、」
急に思い当たる。
そうか。スピカ様は、ルキア様のときの続きにではなくて、別に付けられるつもりなのかもしれない。
「そうですか。じゃあ、新しいものにされます? ほら、私、選んで参りますわ。もっと別の――」
軽いものを、と言いかけたとたん、彼女が立ち上がった。ゆっくり顔を上げて私を見据えた彼女を見て、体温が急激に下がった。
「新しいもの? 何? どういうこと? シュルマ以外に別のお相手がもういるってことなの?」
その目が据わってる。中の緑色の瞳はギラギラと光っていて、普段の穏やかさは欠片も無い。こんな顔見たこと無いし……はっきり言って、これは別人。ど、どうしちゃったの――――凄まじく、コワイんですけど。――え? あれ? ……相手?
ようやく〈ずれ〉の存在に気が付いたときには既に遅い。
固まる私を横目に、スピカ様はルキア様を抱いていらっしゃることを忘れたのかのように、すごい勢いで部屋を出て行った。ちょ、っと。ルキア様は!? 妊婦が抱いて走るってのは、どう考えてもまずい。
「スピカ!?」
思わず“様”を付けるのを忘れて叫ぶと、窓辺の殿下が気が付かれて、焦ったように駆け出された。私もすぐに後を追う。
篝火で赤く照らされた中庭で、金色の影を漆黒の影が捕まえる。白い息の固まりがいくつか闇に浮かぶ。二人とも息が上がっていらっしゃった。
殿下は腕の中からルキア様を取り上げられ、そして「座って!」とスピカ様に強く言われる。スピカ様は抵抗されたけれど、彼は彼女を無理矢理その場に座らせ、隣に腰掛けられた。珍しく殿下が怒っていらっしゃる。――喧嘩だ。しかも殿下がなんとなく優勢。これまた珍しい光景に渡り廊下を降りたところで思わず足が止まった。
「どうしたんだよ? 無茶しちゃ駄目だろ!?」
「だって! ひどいんだもの、シリウスったら――」
「な、なにが!?」
殿下が? なにが? 私も不思議でしょうがない。なに? スピカったら何を怒ってる訳?
「しゅ、シュルマがっ、」
へ? 私が? 矛先がどこを向いているかいまいち分からない。
俯いて黙り込んだスピカ様の次の言葉を殿下も待ち構えている。やがて意を決したように彼女は顔を上げた。
「昨日、帰って来なかったのは、シュルマのところに行ってたの?」
「「――はぁ?」」
殿下の声と自分の声が重なった。理解するのにたっぷり三呼吸ほど要した。
「な、なんだって? 僕とシュルマ?」
「だ、だって! あたし、シュルマにそう頼んで国を出たんだもの。シリウスをお願いって――だからっ」
「ちょっと……落ち着いて……ええと、君多分ものすごい誤解を……」
「誤解? でもすごく仲良くなってたじゃない! 今まで女の子とうまく話できなかったのに! それに、シュルマが、預かってたものをお返ししますって――それって絶対シリウスとルキアのことなんだもの!」
私は頭を抱えた。いくらなんでも……深読みし過ぎでしょ。大体……どう考えたら、あの殿下が、彼女以外を閨に呼ばれると思うのかしら。自覚が無さ過ぎる。
殿下も困った顔でルキア様の背を撫でていらっしゃる。けれど、遮らないのは、彼女に全部吐き出させた方がいいと思われたのか。それとも――その様子が余りに可愛らしかったからか。
だって、これは、焼きもちだ。
彼女、いつもどこか諦めてて、自分の望みを押し隠してて。決して殿下に甘えを見せることは無かったはず。これほどしっかり彼女が焼きもちを焼く様子、私見たこと無かった。当然殿下もだろう。
「昔のことはあたしは言えないの。だけどっ――今も、ってことなら、やっぱり我慢できなくって!」
そう言うと、彼女は膝に顔を埋めようとする――けれど、お腹が邪魔をして、結局は顔を手で覆うに留まった。
ああ。これはかなり望ましい変化なんじゃない? 特に皇子殿下にとっては。そう思って当の殿下のお顔を見て、ぎょっとした。
とろけるような笑顔――とでも言えばいい? 涼やかな目の目尻が緩んで、漆黒の瞳がキラキラと光っている。唇も笑みを浮かべて柔らかい曲線を描いていて――愛しくて愛しくてたまらないってお顔。スピカ様は見えていらっしゃらないみたいだけれど、勿体ない。初めて拝見したけれど、これは勿体ない! あ、でも彼女だけは見慣れているのかしら? これを独り占めは、はっきりとずるい。
あー、やっぱり彼女のいない間に無理にでも迫ってれば良かったかしら……そう一瞬思ったことは、すぐに心の奥底にしまい込む。そして丁寧に別の感情を被せて埋め込んだ。彼女の心を読む力とあの嫉妬の表情を思い出すと、どうにも命の危険を感じたのだった。
その後、私が今来たかのようにお声をかけると、殿下に優しく誤解を解かれた彼女は憑き物が落ちたような顔で私に謝った。私は呆れながらも笑って許した。なんたって、すごく面白いものを見せてもらったし。そして私も誤解されるような物言いを謝って、三人で笑い合った。
ルキア様は騒ぎにも気が付かず眠られたままだったので、そのまま預かることを申し出ると、案の定殿下がすごい勢いで頷かれた。
ルキア様の柔らかな寝息を聞きながら、数歩先を歩く。それは穏やかな優しい夜。腕の中の幼子は重いというのに、足取りはひどく軽かった。
「あのね、出来ないかもしれないけど、その時は一緒に方法を考えましょう?」
後ろで可愛らしい声が囁く。――“方法”だって。昔教えてあげたときなーんにも知らなかったし、分からずに言ってるのよね、きっと。知ったら前みたいに卒倒しそう。そうそう、あれは強烈に面白かった。男女の契りを詳しく説明したら、呆然としたまま「そんなの、絶対無理」って震えてたもの。初々しかったわよね……。ああ、でもその割にあっさりと許しちゃったってことは、案外殿下のお為って言い聞かせたなら素直にやっちゃうのかも。うん、それ、面白そう。なんだか、色んな意味で。
ちらと振り向くと、“分かっていらっしゃる”殿下と目が合う。殿下は私を気にされたのかひどく焦った顔をされている。二人の言葉の取り違えが行き着く先を思い浮かべると吹き出しそうになった。
――やっぱり退屈しないわ
そう思いながら、空をあおぐ。雲が晴れたそこでは、星が瞬き始めていた。
〈仲直りのきっかけ 完〉