【第3部番外】仲直りのきっかけ5
『そうそう――預からせていただいたものをお返ししないと』
*
足元ではルキアが木馬を揺らして遊んでいる。その横であたしは椅子に座ったままぼんやりとしていた。朝からずっとこんな感じだった。
今朝元気に出仕して来たシュルマは、再会を喜びあった後、あたしが謝るといたずらっぽくそう言った。
預からせていただいたもの――そう言われてすぐに思い当たった。そして忘れていたことに愕然とした。馬鹿みたい。あたし、彼女に頼んで行ったのに。ルキアの母親の役目と、そして――シリウスの妻の役目を。
その可能性。自分で考えていたというのに、そう信じて彼女に託して行ったというのに、周りのシリウスへの評価を聞くうちに都合良く解釈してしまっていた。つまり、シュルマがシリウスを好きかもしれないってことは頭から消え去っていたのだ。
シュルマの想いは誤解だって、オルバースの陰謀だって言われて。全部丸く収まったって浮かれてた。
だけど本人に聞いた訳じゃない。シリウスからも話を聞いていない。彼があたしの過去を尋ねないのにあたしから聞ける訳も無い。
お腹の中でぐるぐると黒い感情が渦巻いた。必死でそれを消そうとする。そうよ、返してもらったの。あたしは、シリウスを。だから何も気にすることは無いし、――彼と彼女がどんなことをしたかなんて……気にしちゃいけなかった。
でも、でも、夫婦ってことは――当然……
昨日途中までになった諸々のことを思い出すと泣きたくなって、膝に突っ伏そうとしたら、膨らんだお腹が邪魔をした。
二月だ。あたしが妻としての役割を放棄したのは。その間のことをとやかく言う資格など、どこにも無い。どこにも無いのに。
「ああ、もう、あたしったら。どうしてこうなの」
誰にも聞こえないようにとひっそりと呟くと、ルキアがふいに顔を上げてきょとんとあたしを見つめた。手を伸ばすと、ハイハイで近づいて、あたしの膝を掴んで立ち上がる。「あーあー」と抱っこをせがむ幼子を膝に抱き上げると、ぎゅっと抱きしめた。柔らかさと暖かさに随分慰められる。
悔しかった。こんな風に嫉妬なんかしたくなかった。自分がどれだけ小さいか思い知らされるから。
――あたししか知らないはずなのに。
そんなどろどろの想いが胃を焼いた。自分がどれほど嫉妬深いか思い知らされて、情けなくて恥ずかしかった。
産婆による定期的な診察(しばらくは毎日ってことになったのだ)が終わり、夕食の時間になっても、シリウスは戻って来なかった。それも仕方が無くて、あたしを迎えに行った分だけ、ジョイアに残した仕事が溜まっていたからだった。今日はそのアウストラリスからの使者とハリスの領主及び、騎士団長(ちなみに今ハリスの騎士団長は昔お世話になった元副隊長のトリマンだった)まで交えての会議が行われているそう。
今朝起きたらもう既に彼は居なくて――というよりあたし、やっぱり疲れていたみたいで、昨日の夜彼が帰ってくるのを待てずに眠っちゃったから、本当に帰って来たかどうかは知らないのだけれど――、ルキアを連れて来たサディラに尋ねたら、早朝からの朝議に出てると聞いた。
やっぱり立太子後から徐々に仕事が増えていて、それはこの間のアウストラリスとの和議以降、さらに増えたようだった。彼の力が認められたってことだと思うから、喜ばないといけないけれど、その分あたしも遅れを取り戻さないとと気を引き締めたのだ。
早く彼の部屋で彼の仕事を手伝いたい。そう切に願うけれど、あたしの一番大事な仕事はルキアを育てることと、お腹の子供を無事に産むことだった。それをおろそかには出来ない。
ルキアの時は食べ過ぎによる体重増加で警告された。今回は幸いにしてまだ太り過ぎの警告を受けることは無くほっとした。けれど油断は大敵。あたしは目の前に置かれている菓子――食後のデザートだ――を睨む。
その作成者であるシュルマは夕食の片付けで部屋を離れていた。朝のあの話は、途中でルキアが泣き出して中断されたまま。彼女はその後、淡々とあたしの身の回りの世話をしてくれるだけで、今まで通りの態度を取っているように見えた。ただし――まだ、前みたいに侍女の仮面は外してくれない。
普通に見える。だけどその普通さが、どこかぎこちなく他人行儀な態度に感じられて、嫌な想像が持ち上がる。
あたし、シュルマにものすごく残酷なお願いをしてるのかもしれない――。
そもそもシュルマがシリウスを好きだとしても、あたしがあんなお願いをするのはお門違いだった。
あたしはあのとき必死だった。だからそのことに気が付かなかったけれど、今となると、シュルマが「まるで殿下を自分のものみたいに」って怒ったとしても不思議じゃないのだ。誰を選ぶかはシリウスが決める。そのことで散々シリウスには文句を言われたけれど、シュルマはもっと怒っているのかも。
そしてあたしは幸せそうな顔で帰って来て、やっぱり当たり前のように彼女からシリウスを取り上げる――、その上、傍でそれを見てろって……それ、なんてひどい女かしら?
悶々と考えていると、そこにようやくシリウスが帰って来た。窓に咲いていた黄色の花は黒く枯れていた。もう外は闇に染まっている。
「ただいま。スピカ、ルキア、――と、ううん、名前が無いと不便だな、早めに考えないと……」
戻って来るなりぶつぶつと考え込むシリウスに、暗い思考を一度仕舞って微笑みかける。
「おかえりなさい」
膝の上に抱いたルキアはいつの間にか気持ち良さそうに眠っていた。シリウスが近づくとそっと覗き込んで嬉しそうにする。
「やっぱり君だと安心するんだ。寝付きが早い。僕だとそんなに簡単に寝ないよ?」
「え? シリウスが寝かしつけてたの?」
「うん」
少し照れくさそうに、でも誇らしげにシリウスは言う。
「――殿下はルキア様の湯浴みもされて、その上おむつも替えられていらっしゃいましたよ」
シュルマがシリウスの夕食を運び込みながら口を挟む。自分のことのように嬉しそうだった。
「うん、任せてくれても全然大丈夫だ」
シリウスは彼女に〈普通に〉対応する。父さんや、ヴェガ様や、イェッドと同じくらいに心を許しているのが目に見えた。以前の彼は、女の子と一定の距離を置いていた。その場所には彼ら以外誰も踏み込めなかった。昔からは考えられない変化に驚き、さっきのシュルマの言葉が耳の中でわんわんと鳴る。
目を見開いたままのあたしに、彼はにっこりと微笑む。そしてその笑顔のままシュルマが並べた夕食の席に座る。
「上手になられましたものね」
「まあね」
「お止めしても聞き入れて下さらなかったので大変でしたわ。前代未聞です!」
「だってやりたかったんだ」
くすくすと笑い合う二人を見ていると、なんだか――シュルマはあたしではなくシリウス付きの侍女みたいに見えた。皇子付きの侍女の意味。あたしはもうそれを良く知っていた。一度そう思ってしまうともう駄目で、あたしはいつしか引きつった笑顔のまま顔を伏せていた。