【第3部番外】仲直りのきっかけ4
部屋の外に飛び出すと、中庭に足を向ける。本宮の入り口を見はっていた兵が不審そうに目を細め、僕が僕だと知ると姿勢を正した。
「出てもいい?」そう問うと、彼は気の毒そうな目で頷いた。彼の想像を否定するだけの気力はすでに無かった。
長い渡り廊下を渡らずにすぐに中庭に降りる。そして柔らかく茂った草の上にしゃがみ込むと、焚かれた篝火の光をじっと眺めた。
大きく息を吸って、そして吐く。それを何度か繰り返して、漸くまともに息が出来るようになる。
さて、部屋に戻るにはどうしたものか。そう背筋を伸ばしたとたん、
「――無茶をされるのではないかと思ってましたが」
誰もいないと思っていたのに聞き慣れた低い声が響く。驚いて振り向くと見知った顔が煌煌と焚かれた篝火に照らされている。
「イェッド」
溜息のような声が出た。もしかしたら、近くで聞き耳を立てられてたのかもしれない。やりかねない。だとすると、我慢して正解だった。
「我慢強くなられたことで」
「我慢できてないよ」
できてたら、あんな風に寂しそうにするスピカを置いて部屋を出たりしない。
『一緒に寝ないの?』
縋るような声が蘇る。あの声に応えて、全てを堪えて、寄り添って眠るくらい出来ないと、全然だめだった。
さっきのスピカの顔を見て、アウストラリスからの帰り道、すぐにお腹が張ると不安そうにする彼女を思い出した。結局その時は大事に至らなかったけれど、それを思い出すと、続けられなかった。滾るような想いを無理矢理に抑えて部屋を出たはいいけど、頭――いや、もっと別の場所かも――を冷やすといっても……瞼の裏には、彼女の白い項が焼き付き、手にも指にも彼女の柔らかさが残り、鼻の奥は彼女の匂いで痺れ、唇や舌は彼女の甘さでいっぱいだった。うん。昂ったものを消す方法はあまり無い。悲しいことに、とても空しい方法が一つ思い浮かぶだけ。ああ、こうなると、やっぱり寝室はもう一つあった方がいいのかもしれないな。しばらくは。
「しかし以前お教えしたでしょう。あの手紙はどうされたのです?」
「もちろん熟読した」
イェッドから貰った『妊娠中の夫婦生活』。スピカが帰ってくる前にと再びじっくりと読んだ。だからこそ止めたんだ。あれには僕だけが満足するような方法しか書いていなかった。昔は何とも思わなかったけれど……というより思いつく余裕が無かったけれど、今ではどうしてもアルフォンスス家での一夜を思い出す。
――僕がずっと続きを求めてやまない、あの夜を。
一度あんな風な夜を過ごせば、それ以前のように自分だけ想いを遂げてもなんだか空しいように思えた。どうしても同じものを求めてしまう。もう一度あの甘い声を聞きたいと願うし、あの艶やかな表情を見たいとも願う。
でも、今日の彼女にそんなことをしたら――
さっきのはまだ入り口だった。もっと進めたら即、医師を呼ぶことになりそうだった。それはまずい。途中になったらあまりに辛い。――今でさえ狂いそうなのを必死で堪えてるのに。
「あーあ」
空を見上げても、雲に隠れて月も星も見えなくて余計にもやもやした。今が五ヶ月。産み月までまだ半分しか過ぎていない。冬が過ぎ、春になるまではまたお預け――そう思ったらなんだか立ってられなくてしゃがみ込んでしまう。
イェッドはそんな僕を見て、呆れたような声を出した。
「お若いから余計にお辛いのでしょう。どうです――やはり側室を持ってしまわれるとか。もともとそれが当然なのですし、お声をかければ何十人でも――」
それ以上は言わせない。「――僕が一体何のためにあれだけの苦労をしたと思ってるんだ!?」
今更何を言うんだ。噴火しそうな僕の前で、イェッドは飄々と続ける。
「それでは、スピカ様にお願いされては? こういう場合、一応医師としてはそうお勧めすることにしていますが」
「何を?」
「つまり、――――とか」
無表情からさらりと飛び出すとんでもない発言に、耳を疑い、直後頭が沸騰する。言葉に触発されて、過去に押し込めていた記憶が滲み出したけれど、不快なだけの記憶も彼女を相手に置き換えると、それは随分と違ったものに変化した。あれ? 不快どころか――、ああでも――
ぽんと頭に浮かんだ絵に胸が跳ねて、後ろめたさに思わず叫んだ。
「スピカにそんなことさせられないって!」
叫ぶ声が外宮の壁にぶつかって反響し、中庭中に響いた。少々裏返った間抜けな声が、戻って来て僕の熱くなった頬を撫でる。ああ。
直後イェッドがくっと籠ったような笑いを漏らす。無表情かと思った彼の目だけがいつもより柔らかい。口元が震えている。
――医師としてだって? 嘘だ。あぁ、くそ。どう考えてもからかわれてる。
そう気がついたとたん、ぐったりと肩から力が抜けた。
※イェッドの発言については、自主規制中。ご想像にお任せします。