【第3部番外】仲直りのきっかけ2
「スピカ――すぐに休もう」
重いお腹を抱えて輿から降りてすぐ、シリウスが心配そうにあたしの肩を支える。旅の疲れで少しお腹が張っていたのを感じていたので、あたしは出迎えの人たちに挨拶をすると、彼に体を預け、部屋へと案内してもらうことにした。
まずは陛下にご挨拶をって目通りを申し込んだけれど、陛下は近々宴を開くから、その時で良いとおっしゃった。そのときにゆっくり話をしたいと。お腹の子供のことを配慮して頂いたのもあるけれど、多分他にも色々配慮をいただいたのだとすぐに分かった。
父さん、ヴェガ様、それから――。あたしが会いたかった人たちとの時間を優先して下さったのだ。
部屋は本宮に移されていた。外宮のあたしの部屋は結局殆ど使わずじまい。部屋を与えてもらってすぐに新婚旅行に出かけて、そこでルキアの存在を知らされて。出産後宮に戻った後は離宮に居たものだから、実質半月も使っていないかもしれない。
もともと物を持っていなかったから引越しはあっさりと終ったそうで、新しい部屋はシリウスの部屋のすぐ東側。裏庭に面し朝日の差し込む明るい部屋だった。
シリウスがあたしの居ない間に部屋にいろいろと手を入れてくれたらしく、石造りで重い雰囲気のはずだった本宮の一室が、窓に入れられた色硝子によって明るく柔らかな雰囲気に変わっていた。
「きれい」
入るなり目を見開くあたしにシリウスははにかんだ笑顔を向ける。「君の家族からだよ」
「……そうなの?」
シリウスは頷くと、突っ立ったままのあたしの腰を攫って長椅子に座らせた。その椅子も随分と柔らかい素材で作られているようで、座り心地が良かった。全部あたしのために、あたしの周りの人が手を尽くしてくれたのが分かって胸がぎゅっと痛くなる。
扉が叩かれたかと思うと、サディラが入室して来る。その腕の中を見てあたしは今日一番の緊張の時を迎えた。
「座ってて」
立ち上がろうとするあたしをシリウスがたしなめる。そう言われても無理だった。
「――ルキア」
サディラの腕の中の幼子は、最後に見たときより随分大きくなっていた。シリウスが駆け寄ろうとするあたしの腕を引いて椅子に座らせると、あたしの替わりにルキアを受け取ってあたしの膝の上に乗せた。
ルキアはきょとん、としていたけれど、あたしの顔を見て、差し出したあたしの指をぎゅっと握って――直後、ぱっと顔を輝かせ、あたしの胸に顔を埋めた。深く息を吸う音。その背があたしの腕の中で大きく膨らむ。どこか安心したように、全身をあたしの体に預けて来た。そして匂いを嗅いで思い出したように、顔を上げると、その茶色の瞳をキラキラと輝かせて「まー」ととびきりの笑顔になる。
「――――」
「ほら。大丈夫だったろう? ちゃんと覚えてた」
シリウスが隣に座ると、言葉をなくしたあたしをルキアごと抱きしめる。そして一瞬でぼろぼろになったあたしの顔を見ると、どこからかハンカチを取り出してそっと頬を拭った。
あたしの涙が落ち着く頃、扉が音を立てて開いた。ふわりと美味しそうな匂いとともに顔をのぞかせたのは、サディラだった。気を利かせて席を外してくれていたらしい。
再会の感動が落ち着いたら、やっぱり気になるのは〈彼女〉のこと。
「サディラ、シュルマはどうしてる?」
「何か探し物があるとかで、ちょっと外宮へ戻っております」
「何を?」シリウスが横から口を挟む。
「ええと……分からなくて。お出迎えを優先させろと言ったのですけれど」サディラは言いにくそうに口ごもった。
あたしはひっそり呟く。
――……もしかして……怒ってるのかしら。
その可能性は十分にあった。あたしは彼女に随分ひどい仕打ちをしたのだから。彼女の気持ちを勘違いして、シリウスとルキアをお願いなんて……、もし彼女に別の想い人が居たとしたらと考えると、絶対に断れない縁談を押し付けるなんてあんまりだった。メイサにも言われたけれど、あたしがシリウスを見る目っていうのは皆と同じじゃないみたい。あたしにとってはシリウス以上に素敵な人は居ないんだけど、メイサはルティ以上にいい男は居ないって言い張るし。恋ってきっとそういうものだから、ちゃんと確認もせずにあんなことをしたあたしの行動は間違っていたと思う。だからちゃんと謝りたい。怒っているのなら、今すぐにでも。
「スピカ、今日はだめだよ」
あたしの考えていることを先回りしたのか、シリウスがじっと睨む。さすがに長い付き合いで行動パターンが読まれてるのかも。と思っていたら、彼はサディラに聞こえないくらいの声で囁く。「ただでさえルキアにとられそうなのに、この上シュルマに争奪戦に加わって欲しくはないよ」
ちょっとむっとした顔が笑いを誘う。こういうところだけは相変わらず子供みたいだった。
「分かってる」
そうなだめると、シリウスはぱっと笑顔になる。直後あたしのお腹に触れ、そしてその五ヶ月にしては大きすぎるお腹におっかなびっくりしたような顔になる。
彼の手がゆっくりと曲線を撫でる。すごく愛おしそうに。
「ルキアはお兄ちゃんになるんだよ。――ほら、妹かな? 弟かな?」
膝の上できょとんとしているルキアの手を取ると、あたしのお腹にそれをあてがった。ルキアは両の手でポンポンと軽くお腹を叩いた。まるで挨拶するような様子に思わず微笑む。小さな手と大きな手があたしのお腹を暖めた。
しばらくそうして幸せな家族団らんをじっくり味わった後、突然シリウスが呟いた。
「大丈夫かな……」
彼が何を心配しているのか判断できなくて「何が?」と尋ねると、シリウスはちょっと困ったように頭を掻いて、言葉を探した。
「……えっと、前は預けるの嫌ってたから」
「ああ、ルキアのこと?」
「うん。預けても大丈夫?」
瞳の中に散らつく熱を見つけて、ようやくそれが彼の誘いの言葉だと気が付いた。そういえば、シトゥラで『ルキアは預けて』ってはっきり宣言してたかも。ああ、心配してるのは――そういうこと。旅の間はイェッドにずっと監視されていたから――。お腹の張りは収まったけど、念のため後でお医者様に許可を貰わないと。
でもお医者様に聞くってことは――、その意味を考えて、ちょっと頭に血が上る。きっと色んな恥ずかしい注意事項を聞かなければならないのよね。シトゥラで診て貰っていたお医者様にも彼と会うと言ったら色々と注意されたことを思い出す。ああ、だめ。ほんと、やっぱり恥ずかし過ぎる。彼らにとっては仕事だし、冷静に聞けばいいのに、どうしても駄目だった。
顔が赤くなっている気がして、少し俯きながらも是の返事をしておく。
「……もう、大丈夫。あたし、あの頃神経質になってたの、多分」
もうだれもルキアを攫ったりしない。この宮で、ルキアに手を出せる人間は居ない。シリウスが決してそうさせない。彼を信じれば全然平気だった。
そう思いながら微笑みかけると、彼も輝くような笑顔を向け、待ちきれないようにあたしの手をぎゅっと握った。
そのとき、「えー、あー、ごほん」という声が部屋の隅で上がって、そっちを振り返る。
声の主、サディラは赤い顔で咳払いを繰り返して「ヴェガ様とレグルス様がいらしてます」とあたしたちに、待ちわびた来客を告げた。