【第3部番外】妻を迎えに
「長い間、妻のことを本当にありがとう」
僕がそう言うと、メイサが笑う。
「大事な家族だもの。お礼を言われることじゃないわ」
その言葉に、スピカが泣きそうな顔でメイサに抱きついた。耳元でスピカが何か訴えると、メイサが目を丸くして、苦笑いをしながら答えている。その会話は風の音に吹き消され、僕まで届かない。
やがてスピカはメイサから離れ、僕の隣に立った。二人でもう一度感謝をシトゥラ家に向けて発すると、メイサを始め、使用人全てが、深く頭を下げた。
南を見ると抜けるような青空と褐色の大地。青と黄色にまっぷたつに塗り分けられていた。そして東を見ると黒々とした険しい山脈がその青空を刺し、頂上には薄い雲がかかっている。その見慣れない大地を瞼に焼き付けるようにすると、目を閉じて、大きく息を吸う。
秋風が羽織った風よけの外套の裾を大きくはためかせた。巻き上がる砂埃に思わず目を瞑るが、一瞬遅かった。咳き込み、涙目になる僕をスピカが心配そうに覗き来んだ。
「大丈夫?」
頷いて彼女を僕よりも風下に庇う。外套のフードを被ると彼女は素直に僕の陰に身を潜め、お腹を庇うように小さくなった。
馬車に乗り込むとようやく一息つく。扉を閉めると風と共に轟々という音も遮られる。暖かく静かな空間に二人。僕は今朝ここに着いてから――いや、この間彼女を置いてここを発った時からずっと堪えていたものの限界が近いのを感じる。それは彼女も同じようだった。
馬車の椅子に腰掛け、見送りの者たちにもう一度手を振る。馬車は静かに動きだし、舗装された国境までの道を緩やかに走り始めた。そして彼らの顔が見えなくなったところで、隣に座った互いの顔を見る。どちらからともなく唇を寄せる。少しだけのつもりだったのに、あまりにその唇が甘くて、あっという間に離れ難くなる。続きを求めて彼女を引き寄せると、「だめ」と彼女がお腹を庇うように腰を引く。
その声は聞こえてはいるし、分かってはいたけれど、歯止めがかからない。自分がどれだけ飢えていたかを思い知る。戦いて逃げ出そうとする小さな手を掴むと、指に指を絡ませた。
急に馬車が歩みを緩め、やがて止まる。直後、扉が確認もなしに無遠慮に開けられて、風と砂埃と轟音――それから僕の側近兼主治医の声が馬車に流れ込んだ。
「――皇子、国境です」
その声にスピカが我に返り、小さく叫び声を上げた。
「シリウス、は、離して!」
彼女はもがいて僕から離れようとするけれど、僕は彼女を離さずに、彼女の肩越しに『邪魔をするな』とイェッドを睨む。けれど、彼は全く僕の気持ちを全く汲むこともなく、ずいと書簡を差し出した。
彼は僕の膝の上に居るスピカ、それから僕の手のある場所を冷たく一瞥すると、
「揺れもありますから、膝の上は許可します。でも、そこまでにしておいて下さい。それ以上は禁止です。何かあればジョイアに辿り着きませんよ? ルキアさまのときの二の舞ですよ?」そう嫌な思い出を持ち出して脅す。言われなくても、分かってる。分かっていた。自分の中では線引きは出来ていた――つもりだった。
視線を下ろすと、優しい形に膨らんだお腹が見えた。妊娠している女性を見ることがほとんど無い僕にとっては、それは今にも産まれるんじゃないかってくらいに大きく見えた。ルキアの時にも見たはずなんだけど、それよりも大きいような気がする。今朝彼女を見て、思わず何ヶ月かと聞いてしまうくらいに(そして、その後、メイサに父親失格だと呆れられた)。この子の警告に、何度も我に返った。そうでなければ、例え馬車の中だとしても、我慢出来ないに決まっていた。
「メイサ様にもきつく言われてますので。『あの二人の〈子守り〉は大変だろうけれど、お願いしますね』と」
本当に姉のようだと思いながら、複雑な気分であちらこちらに目を泳がせる僕にイェッドは再度書簡を突きつけ、ついでのように宣言した。
「様子を見させて頂いたのですが、どうも駄目のようですので、ジョイアに入りましたら馬車に同乗させて頂きます」
「――ええ!?」
あっさりと二人っきりの甘い旅に終わりを告げられ、呆然と腕の中を見下ろすと、スピカは残念そうな、でもちょっとほっとしたような表情を浮かべていた。
「これは?」
渋々スピカから離れて書簡を受け取ると、イェッドが言う。「ジョイアからの知らせです。ここ数日、宮で動きがあったようです」
イェッドはそう言うと、出国と入国の手続きをするために馬車を離れる。その際、「すぐ戻りますから。とりあえず宮に着くまでは厳禁ですよ」と僕にしっかり釘を刺すことを忘れなかった。
仕方なく書簡を膝の上で大きく広げると、スピカと一緒に覗き込む。
「あ……これ、ヴェガ様の字かしら?」
スピカが問い、僕は頷く。大きく大胆な字は確かに叔母のもの。内容をちらりと読んで一瞬気にかかることがある。けれどその後の文を読んで、その疑問はすぐにどこかに吹き飛んだ。
「――見つかったのか」
そこには、例の〈墓荒らし〉の首謀者が見つかった知らせが綴ってあった。
+++
シリウスへ
そっちはどう? スピカは元気かしら? こっちは心配ないわ、ルキアは元気よ。
戻ってからでもいいかと思っていたけれど、陛下が知らせて良いとおっしゃるので、一応手紙にしておくわね。
まず、姉様の墓荒らしなのだけれど、犯人が口を割ったそうなの。それで、出てきた人物はね、ケーンのパイオン卿。覚えてるわよね? 娘――シェリアと言ったかしら――が妃候補だった。
あの親子は結構あなたに執着していたから驚いたのだけれど。分かってみるとケーンはオリオーヌの隣だし、地理的には怪しいのよね。でも、まさか、本当にそんなことをするとは思わなかったわ。可愛さ余って――憎かったのかしら? まあ、それは本人に聞いてみないと分からないんだろうけれど。
+++
「そっか」
小さな呟きに手紙を読む目を休めて、顔を上げると、スピカが複雑そうな顔をしていた。「シェリアは……本当に妃になりたかったんだと思うの」
「うん……」
僕は頷く。それは知っていた。
「だけど、彼女は……相手が〈僕〉じゃなくても良かったんだ」
〈皇子〉であれば、きっとだれでも良かったのだろう。彼女が熱く見つめるものはいつでも僕の被った皇子という殻だった。僕は、その殻の下に隠れた僕を愛してくれたスピカを選んだ。ただそれだけのこと。
「そう……なのかしら」
多分。そう頷きつつも、手紙の中の叔母の言葉に同意する。――それは本人に聞かないと分からないことではある。
スピカが目線を手紙に戻すのを見て、僕も次の頁をめくり、さらに先を読み進めた。
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それでね、もう一つ追加の情報が出てきちゃって。――あんまりいい知らせじゃないわ。
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「え? メサルチムが?」
スピカが先を読んで声を上げる。ふと見ると、彼女は手紙の端をそっと触っていた。だからきっと叔母が語りかけているように感じるのだろう。僕より読み進めるのが早いと思ってたら、そういう訳か。
追いつこうと目を走らせて僕も驚いた。
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メサルチムが、……シャヒーニ元后妃の日記をね、偽造したのですって。あの、姉様が裏切りを働いたのじゃないか、っていうところ。筆跡やらインクやら、詳しい鑑定が入ったら、ばれたのですって。――あなたに娘を嫁がせようとして失敗したり、ルキアの後見の話は駄目になったりして、どうしてもあなたが靡かないから……やっぱりミルザ姫を担ごうって考えたみたい。必死よね。――よっぽど昔の権力が懐かしかったのでしょうね。
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「メサルチムにパイオン卿、どっちもだとは思わなかったな……」
「うん……」スピカは眉を寄せる。そして困ったように手紙の次の頁を指でつまむ。「ええと、それで……じゃあ……ミルザさまは」
「え?」
促されて頁をめくると先を追う。そして目を見開いた。――あぁ……それは困る。
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で、そのミルザ姫なんだけど。陛下が心配してお話しになられたそうなの。そうしたら「外国にお嫁に行くわ」って……張り切っていらっしゃったそうで……。ええと、あなたなら分かるわね? 相手のことは。
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それはずいぶんと頭の痛い問題だった。確かに、この間話した時、彼女は随分〈乗り気〉に見えた。
「え、えと、ミルザさまには悪いけれど……勝ち目がないと思うの」
スピカがどこか遠くを見る目で呟き、僕はスピカの言いたいことを察して頷いた。さっきまで姉のように接してくれていたあの赤い髪の女性。――あのくらい彼のことを理解して、かつ、忍耐力としなやかさがなければ……きっとあの男の相手は務まらない。
その赤い髪の男を思い浮かべて、ため息をついた。
「どうするんだろう……あいつは」
アウストラリスでの王位継承には王妃が必要だった。ラサラス王の歳を考えるとそんなに急ぐことはないかもしれないけれど、なにしろ適齢期の、見目麗しい王子だ。その上にあの器ならば、国内のみならず――外国の王族貴族も放っておきはしないだろう。
ただ、その件に関して僕たちが心配する資格はない。だから曖昧に呟くと、スピカも困ったように俯いた。
「……結局、あれからすぐ王都に戻ったから、こっちにいる間、一言も話せなかったの」
「そうか」
スピカは『誰が』とも『誰と』とも言わない。彼の名をなかなか口に出来ないようだった。さすがにまだわだかまりが残っているのだろう。僕は彼女からはもう何も聞かないことにしていた。時がきっと解決してくれる。そう思っていたから。
「でも、強いひとだもの」
「うん」
「――それに、彼にはメイサが居るわ」
急に力強くスピカが言う。どうやら彼女は随分メイサに懐いてしまっていた。距離はあるけれど、こうして頼れる家族がいることは、スピカにとって心強いことだと思う。素直に嬉しい。ふと思い出して、
「そういえば……さっきなんて言ってたの?」
と気になっていたことを問うと、彼女は少し顔を赤らめる。
「本当のお姉さんになるといいって。でも『馬鹿ね』って笑われちゃった」
「そっか」
彼女らしい対応に苦笑いをしながら、僕もスピカと同じことを願った。
「殿下、妃殿下――準備が整いました」
イェッドが再び現れて僕たちを促す。馬車を降りると国境へと向かう。国境を超えたところで馬車を乗り替えることになっていたのだ。アウストラリスとジョイアでは走る道の造りが全く違うから。護衛が見守る中、もう一度この大地を見ておこうと西を振り返る。そして、目を見はった。
「――――」
「シリウス?」
足を止めた僕に、隣を歩くスピカも立ち止まる。そして僕と同じ方向を見て、やはり言葉を失った。
僕たちの目の前には、どこまでも続くかのような褐色の大地。夕焼けの空。その色が変わる線の上に、ぽつんと影があった。馬に乗ったまま、その背に夕日を背負って、こちらをじっと見つめている。夕日に照らされた赤い髪がまるで焔のようだった。
「「……ルティ」」
呟いたのは同時だった。
影は動かない。ただ静かに僕たちを見送っていた。
一呼吸後、彼は手綱を引き、馬の頭を西へ向ける。そして一瞬だけこちらを振り向くと、夕日に向かって一気に走り去った。
「笑ってたわ」
スピカがぽつりと言う。
「うん」
僕は頷くだけだった。胸を突かれて、それ以上、何も言えない気がしていた。だって、――あんな顔をするなんて。
この夕焼けのように暖かく、どこか寂しい。でも――確かにあれは笑顔だった。きっと彼女の兄としての。
『スピカを頼む』
紅い風が大地を舞う。その風に乗って彼の声が運ばれてきたような気がした。
〈妻を迎えに 了〉