5:「依頼主」
薄暗い部屋。
飾り気の無い広い部屋。
東京の下層域。私が住処とする場所の一つ。
冷たい空気。冷たい床。冷たい壁。
TVからニュースキャスターの声が流れる。
『…被害者はグリフ・ヘルツ、二十六歳。ニ週間前から会社を欠勤し始め、親しい友人とも連絡を絶っていたそうです』
身体を動かす。
身体の隅々まで可能な限り。
器具は使わない。柔軟さが失われる。己の身体のみ。
筋肉の酷使。己を研ぎ澄ましている感覚。
『一昨日の午後八時頃、自宅で亡くなっている所を発見されました』
激しい運動。汗が滴り落ちる。
ステップを踏み、拳を繰り出す。
ジャブ。ストレート。
昨日の電話。「確認した。報酬は送っておいた」
架空の標的を拳で叩く。
右ストレート。左フック。右アッパー。
張り詰める意識。呼吸。拳は骨をも砕く。
顔もわからぬ仲介人。「次の仕事だ。依頼主が直接会って依頼したいそうだ。可能かね?」
右フック。左ストレート。右ストレート。左フック。
素早いステップ。何発もの拳の打撃。
ステップを緩めていく。
足を踏ん張り、架空の標的を拳で打ち抜く。
呼吸を整える。
拳銃を手に取り、部屋のあちこちに設置された的を撃ち抜いていく。
次々と。正確に。的を粉砕する。
シャワーを浴びる。
依頼主が直接会いたいと言う。
次の仕事に興味を引かれていた私はそれを承諾した。
待ち合わせの場所。
下層域。アメリカ風の酒場「ブラッドサッカー」。
店内は広く、席も多い。
やかましい音楽。カウンターで酒を呑む男と女。やかましい話し声。
店の奥には簡素な衝立に囲まれた席がいくつもある。
私は仲介人から指示された席へと向かって歩いていく。
薄暗い店内。鈍く光る赤い照明。
幾つものテーブルから煙草の煙が立ち上っている。
衝立に囲まれた席。
この騒々しさの中では隣に会話を聞かれる事もない。
相手は先に席についていた。
向かい合わせに配された毛皮のソファー。
壁側の席についているコートを着た男。目深に帽子を被っている。
こちらに気付いたコートの男が声を発した。「君がそうかね?」
綺麗な日本語。整った発音。重い声。
「ええ。リンクスと申します」
私は軽くお辞儀をした。
相手は軽く驚いた表情を浮かべながら私を見つめる。
私も相手の顔を見つめた。
「長久保義弘だ。よろしく頼む」
大物の依頼主。純粋な日本人。