44:「灰色の真実」
目を開いた時には、其処は白の世界。
白い壁。白い天井。白い床。
白い蛍光灯の光が全ての白をよりはっきりと浮かび上がらせる。
白衣の男。「驚いたな。あなたが戻ってくるとは思いませんでしたよ、リンクス」
フラーゲンの僅かな驚き。しかし、その表情はすぐに不可思議な喜びへと変わっていった。フラーゲンの傍には手術台のようなものがあり、その台の上には私が見知った男の身体が横たえられていた。その身体はチェーネレという名の男の亡骸。陽気なイタリア人。その死顔は苦痛に歪んだまま固まっている。
フラーゲンの言葉。「とても興味深いデータです。この男の身体がウロボロスから受けた影響はモニターの中の出来事と高い頻度でリンクしているのですよ」
チェーネレがウロボロスから受けた影響。ウロボロスが見せる映像は現実ではない。
私の問い。「ウロボロスは幻を見せるのか。チェーネレは幻によって死んだのか?」
フラーゲンはチェーネレに手を翳す。「チェーネレとは灰の意味。この男の名も存在も灰の意味しか持っていませんよ。しかし、この男の身体に起こった結果は興味深い。ウロボロスという機械が与えた情報によって真実さえ変わってしまう。いや、何が真実かどうかなど我々にはわからないのです。今、ここにいる事が真実か、そうではないのか。人間とは曖昧な存在ですね」
「私は自分が自分である事を信じている」
フラーゲンは苦笑する。「この男も自分はチェーネレである事を信じていましたよ。私が説明した事を全て真実だと信じていました。死ぬまでね。この男にとってはそれが真実、それが全て。知っている事だけがその者にとっては真実なのです」
白の世界。白の扉が開き、白髪の男が部屋の中に入って来た。
ゾガール所長の驚き。「フラーゲン。何故、リンクスが動いているのだ?」
フラーゲンの応え。「ゾガール所長。リンクスは特別なのです」
私は動いている。私は生きて、ここにいる。自分の身体を確認すると、フィノとの戦いで受けた傷が残っていた。これは真実の傷か。それともウロボロスの作り出した幻か。
私は問う。「フィノ・コールヴォもお前達のモルモットの一人か?」
フラーゲンは言う。「フィノ・コールヴォという男を私は知りません。あなたの記憶にそれは存在しますが、それが真実かどうかはわかりません。記憶が真実を語るとは限りませんからね。チェーネレには多世界での分裂したリンクスの内の一人だと説明しましたが、これもまた真実かどうかはわかりません。私が考えた可能性の一つです」
分裂した私の内の一人?フィノは私だということか?
考える。過去の中で分裂した数多くの自分。生き残ったヤツの行方。
くだらない。フィノ=リンクス。くだらぬ考え。
ゾガール所長の苛立ちの声。「こいつが特別だろうがなんだろうが関係ない!こいつを今すぐ処分するか、ウロボロスの中へ閉じ込めるんだ!」
私は笑う。私の中の私達も笑う。ワタシを閉じ込めるだと?
フラーゲン医療主任の笑い声。「以ての外ですよ!処分するなどね。ゾガール所長はリンクスがどれほどの可能性を秘めているか御存知ないようだ」
ゾガール所長の眉間が怒りに歪む。「可能性だと?そんな可能性など知らぬ。我々は命令に従い動くのみだ」
私は二人のやりとりを眺めている。私を含めた三人を客観的に眺めている。チェーネレを含めた四人を客観的に眺めている。部屋に響く彼らの声。声が伝わる白い壁。彼らを照らす白色の光。彼らの中に流れる真っ赤な血。全ての音、全ての色、全ての心、全ての記憶、全ての情報を眺めている。
ゾガールの直情的な怒りの感情。それを見下ろすフラーゲンの優越的な喜びの感情。
フラーゲン。「私はどれだけの可能性がこの世で実現出来るか知りたいのですよ。ウロボロスもリンクスも存在しなければ、知り得なかった事実もある。辿り着かなかった思いもある。そういったモノはこれからも無尽蔵に存在するのですよ」
ゾガールは踵を返し、白い扉のスイッチに手を伸ばした。
所長は振り返らずに言う。「ならば、私の権限で処分するしかないな」
フラーゲンの手がそれを追うかのように伸びていく。ゾガールの後頭部にその手が翳される。異様な空気が流れる。フラーゲンの顔は見えない。しかし、その表情は不気味な笑いを浮かべ歪んでいる。私はそれをはっきりと感じた。
ゾガール所長の動きが止まる。滑稽なほど突然の停止。電源を切られた機械のように。ゾガールの両眼は虚ろ。ゾガールの細胞の全てがゆっくりと止まっていく。
控え目な笑い声。フラーゲン医療主任の笑い声。その笑い声は大きさを増していく。
ゾガールの身体が白い床に大きな音を立てて倒れ込む。
フラーゲン。「組織のトップというものは代わりが利く存在が一番都合が良い」
私は知っている。フラーゲンが何をしたのかを。
フラーゲンは自らの手を愛でる。「これが私の『特別』。メフィスト・フェレスが与え給うた素晴らしき救いの手」
私の眼、私の心、私の記憶に流れ込む。フラーゲンの手の記憶。
医師として患者の診察をする手。患者の手術を行う手。患者である子供の頭を優しく撫でる手。手を翳すだけで悪性腫瘍の細胞増殖を停止させる『特別』な手。あらゆる病原菌を死滅させる事が出来る『特別』な手。あらゆる細胞の働きを停止させる事が出来る『特別』な手。あらゆる命を奪う事が出来る『特別』な手。
私の声。「くだらない」
フラーゲンの微笑み。「聞かなかった事にしてあげますよ。あなたは私の大切なモルモットだ。私の喜びと可能性の為にあなたの存在を差し出してもらいましょう」
私の中に怒りの感情が巻き起こる。私はゆっくりとフラーゲンに向かっていく。
フラーゲンの笑みが消える。「あなたの意志のみを消す事など簡単な事だ」
熱く焼ける心。怒りが吹き荒れる。
炎が燃える。冷たく燃える。熱く燃える。
感じる。帰って来た。自分らしい自分。全ての自分。
私らしく生まれ変わった俺を受け入れる。
俺はフラーゲンを睨み付ける。「ふざけた野郎だ。さっさと殺すべきだ」
私は言う。「そう。それが私らしく俺らしい」




