ティッシュならあるけど。
俺の人生とはなんだろうか。ただ流されるように大学へ行き、流されるままに就活をし、そして就職して2年が過ぎた。
特別な理由はない。ただ周りの友達も上司も親もみんなそうしているからという何の当たり障りもないクソみたいな理由だ。
しかし日々のむせ返りそうな閉塞感とストレスは確実に俺の精神を削っていった。
朝5時。目覚まし時計の鳴る音がする。
今日も急いで支度をして5時30分には家を出ないといけない。
起きたくない。心の底から寝ていたい。
しかし起きなければならないという本能に相反する義務感が心臓の脈拍数を速める。
この葛藤を2年間も続けている。そろそろおかしくなりそうだ。むしろ何故俺はおかしくならないのだろう。
いっそ気でも狂った方が楽なんじゃないかとさえ思う。
気が狂ったうえで上司の目の前で卵かけご飯を一気にかっ込んでみたい。
「おはよう」
聞きなれない声がした。
声?一人暮らしなのに?
驚いて起き上がった俺の視界に飛び込んで来たものは、ベッドのそばで蠢く黒い塊だった。
よくよく見ると、それはモコモコした黒いウサギである事に気付く。
あれ?もしかしてまだ夢の中なのだろうか?
「やっと起きたね沖田くん」
「俺の名前は釜田だけども」
「やっとかまたね釜田くん」
「そんな動詞無いよね」
「まあそんな事はどうでも良いんだ」
ウサギはピョコピョコ近づいて来てベッドの上に飛び乗った。
そして後ろ足で立ち上がり俺の顔を見上げる。
寝起きで寝ぼけていた俺だが、ここに来て事のおかしさにようやく気付いた。
「う、ウサギが喋ってる!」
「リアクションが遅くないかい?」
ウサギはモソモソ 口を動かして喋る。
試しに自分のほっぺたをつねってみる。痛い。
時計を見てみる。5時5分を指している。
鏡を見てみる。俺は相変わらず冴えない顔をしているし、足元には黒ウサギが鎮まっている。
「まあそう驚かないでくれ。僕は君と契約をしに来ただけなんだ」
「け、契約……?」
「そう。僕は君が今一番必要としているものをあげる。その代わり君に1ヶ月間守ってもらう」
うわ、怪しい。
聞きたい事はたくさんある。たくさんあり過ぎて何から聞いていいのか分らない。
「さあ願いを言うんだ」
黒ウサギは黙っている俺の脛に前足を立てかけ まくし立ててきた。
「えっと、守って欲しいって事は誰かから追われてるって事だよな」
「そうさ。闇の組織『イタチ』の連中から追われているんだ。さあ早く。奴らはすぐそこまで迫っている」
黒いお前が言ってもあまり説得力がない。そもそも一見魅力的に見える契約を持ちかけてくる奴は大抵ロクなものじゃないと俺は知っている。
しかし俺は迷っていた。
それも6:4で契約「する」側に傾いていた。
何故だろうか。多分、ただ単純に今日会社に行きたくないからだ。
そのほかに理由はない。
そんな風に人生って単純に重要な決定をしてしまっても良いんじゃないだろうか。
そして俺は口走る。
「分かった。契約する」
どうやら俺はまだ寝ぼけていたらしい。そういうことにしておこう。
「契約成立だ」
表情のないはずのウサギの顔が、心なしか笑みを浮かべているように見えた。
「さあ、釜田くん。君の願いを言うんだ」
「俺は……」
いざ願いと言われても困ってしまう。
そうだ、俺は平穏な生活が欲しい。
別に高級住宅街に住みたいとは言わない。別に高級車に乗りたいとは言わない。別に美人の奥さんが欲しいとは言わない。
でも朝8時にゆっくり起きて、9時過ぎの電車に乗って、会社には「死んでも契約取ってこい」とか「サービス残業しろ」とか「俺に性的サービスしろ」とかまくし立ててくる上司もいなくて、夜7時には退社できて、ビールを飲みながらゆっくりテレビを見る毎日が送りたい。
「願いは決まった」
心穏やかに過ごせる生活が俺の願いだ。
俺は意を決して黒ウサギの目を見つめる。その時、俺の鼻から一筋の水が垂れた。
今朝は寒かったから鼻水が出たのだ。
「やべ、ティッシュどこだっけ」
「その願い叶えよう」
え?
黒ウサギの目がペカリと赤く光った。
いやまさか。
まさかそんなはずはないだろう。
さすがにこのウサギも俺の本当に必要としているものがティッシュだとは思わないだろう。
ふとベッドの上にティッシュの箱が落ちている事に気付く。
あれ?俺こんなところにティッシュ置いたっけ……?
するとその横にまたティッシュの箱が現れる。現れる、というよりベッドの上に落ちてきているようだ。
俺は恐る恐る天井を見上げる。
あゝ無情。
なんと天井からボコボコ箱ティッシュが降ってきている!
降水確率ならぬ降ティッシュ確率なんと100%!箱の角にお気を付けください!
「うわわわわ!」
俺は両手で頭を守る。
「喜んでもらえたかな?」
黒ウサギは器用に落ちてくるティッシュをかわしながら喋る。
「喜ぶかこんな物!」
「どうしてだい?これは君が望んだものじゃないか」
「待て!望んだかもしれないけどこれじゃない!俺が本当に欲しいものはこれじゃない!」
「悪いけど一度契約したものは取り消せないんだ」
マジかよ!じゃあ俺はティッシュと引き換えによく分らない闇の組織からこのウサギを守らないといけないのか!
あまりの失望感に俺はへたり込んだ。
「最悪だ。これじゃ今までの人生の方がマシだった」
「でもティッシュがあるよ。これからの人生」
黒ウサギはへたり込んだ俺の手の上に前足を乗せて言った。
何のアドバンテージにもなってねーよ。
その時、けたたましい音がして、俺のいる203号室のドアが叩かれ始めた。
「なんだ!どうした!」
「『イタチ』の連中だ!」
嘘だろ。もう来たのかよ!しかもドアの叩き方からして話の通じる人たちじゃあないっぽい。
明らかに固い物で力いっぱいドアを叩いている。
ご近所挨拶ならせめてもっと柔らかいものでノックしろよ。ティッシュとか。
俺は黒ウサギを両手で持ち上げた。
「どうするんだよ!あれやばい奴らだろ!」
「落ち着いて釜田くん。君は契約者。君にはティッシュがある」
いや何の武器にも精神安定剤にもなってねーよ!
俺は急いでリュックに黒ウサギを突っ込み、車のキーを掴んでドアと反対側の窓から飛び出した。
「ねえ釜田くん暗いよ」
俺はそれには答えず2階から飛び降り、まだ暗い住宅街を全力で駐車場まで走った。
命の危険を感じているせいか今まで感じたことのないスピードで足が動く。
止まったら、死ぬ。
素早くローンで買った軽自動車に乗り込んで助手席にリュックを放り投げてキーを差し込んで回してサイドブレーキを下げてギアを「D」に入れて蒸し気味に走り出した。
「釜田君そろそろ出して」
リュックサックが喋る。
「後にしろ!追いつかれたら終わりだろ!」
俺はまだ車のまばらな国道を制限速度+時速50kmで疾走する。
俺の足は震えている。額と脇からは冷たい汗が止まらない。今にもバックミラーに追っ手の車が映るのではないかと気が気ではない。
ジリジリとリュックのファスナーが空き、黒ウサギがヒョッコリ顔を出した。
「僕の名前は因幡だよ。よろしくね」
「なんで今それ言った!」
「釜田くん汗がすごいよ。ティッシュならあるけど」
「どうでもいいわ!これからどこに行けば良いんだ!?」
「うーん。奴らはどこにでも追ってくるからなあ。あ、でも東京には僕の同類が沢山いる『FFG』っていう組織があるみたいなんだ。東京に行ったらどうにかなるかもしれない」
東京……。広島からだと日本縦断する勢いで離れてるじゃねーか。
「おっと、奴らが来たみたいだ」
バックミラーを確認すると数台の車がハイビームのまま猛スピードで迫って来ているのがわかる。
直線では勝ち目はない。
「うーん、かまったね釜田くん。なんちゃって」
ウサギの肉っておいしいんだっけ。
「おい因幡!」
「ティッシュかい?」
「死ぬなよ!」
「え?」
俺はサイドブレーキを一気に引き上げて車の尻を振って国道に対して真横に向いた瞬間一気にアクセルを踏み込んで左手の狭い路地に入った。
宙を舞うリュックサック。
屑かごから飛び出す紙のゴミ。
どこから湧いて来たのか雪のように降り注ぐティッシュの山。
リュックから飛び出した因幡はチョコンと俺の膝の上に座った。
「殺す気かい?」
「多少な」
「随分扱いが荒いじゃないか。もうティッシュ出してあげないよ?」
「お構いなく!」
俺は再び力いっぱいハンドルを回す。
狭い路地を曲がって曲がって曲がって曲がって曲がって曲がって
執拗に曲がって
最初は後ろに見えていた追手が見えなくなるまで曲がりまくった。
しかしまだ安心出来ない。
俺はこの後の道順を考えていた。東京に行くなら高速道路に乗れば手っ取り早いんだろうが、高速の中で追いかけられたら今度こそ逃げ場がない。
となると下道だが……。
俺が路地を抜けた先に現れたのは、山へと繋がる狭い旧道だ。
「取り敢えず山に身を隠す。東京へ行くのはその後だ」
「それが良い。ティッシュもあるしね」
俺はアクセルを踏み込み早朝の山道へと入った。
朝霧に覆われた視界の悪い道を通っていると、ふと、大学生の頃の記憶が蘇る。
友達と車に乗り合わせ、深夜この山道を通った。
卒業してからまた一緒にドライブへ行こう。
笑いながらそう約束をした大学4年生の夏。
あれから2年。
結局みんなとは疎遠になってしまった。
この道を通るのさえ大学卒業以来だ。
恐らく因幡が俺のところに来なければこれからも通ることは無かっただろう。
俺は今追われている。
命を狙われている。
もう元の生活には戻れない。
それでも、これで良かったのかもしれない。
人生一回きりだ。
一回はカーチェイスしたり
ウサギと喋ったり
ティッシュと引き換えに命を賭ける羽目になったりするのも面白いかもしれない。
「因幡」
「ティッシュかい?」
「これからよろしくな」
「よろしくね。ティッシュが欲しくなったらいつでも言うんだよ」
やがて急な坂に差し掛かり、俺はまたアクセルを踏み込んだ。
俺の車は怒鳴り声のようなエンジン音を響かせながら、
朝霧を切り裂いてひたすらに走り続けていた。
終わり
お読みいただきありがとうございました!