あなた色に染まります
うーん、昭和の匂い……。
今日はどこでお弁当を食べよう?
4時限目が終わってさくらは悩んだ。いつもなら迷わず屋上に行き、優作と一緒に会話を楽しみながら食べるのだが、さすがに今日はそんな気分になれない。
仕方ない、今日は一人で教室にいよう。そう、さくらが決心した時、
「おい、行くぞ」頭上で優作の声がした。
「えっ?」
「昼飯、食べないつもりか?」
言うが早いか、優作はさくらの手と弁当袋を掴んでさっさと歩きだす。
「ちょ、ちょっと待って……私、今日は……」
きっと逆らっても無駄だ。さくらはおとなしく、後をついていくことにした。
それに考えてみれば、今朝のお礼もまだ伝えていない。屋上に着き、いつものように並んで腰を下ろす。弁当を広げる前にさくらは言った。
「あの、有村君……今朝は、ありがとう」
「別に礼を言われるようなことじゃない。俺は、ああいうくだらないことをする人間が許せないだけだ」
「……そう言うんだろうなって、思った」
ふふっ、とさくらの唇から自然に笑みがこぼれる。案外、この友人は素直じゃないのかもしれない。
「でも今朝の有村君、すごくカッコ良かったよ。ドラマの主人公みたいだった」
優作の頬に、さっと朱がさす。
「だからなんだよね、きっと。有村君がすごく女の子達に人気なのは」
「……俺が、じゃない。俺のバックについてる父親の金と、母親の遺したブランドが人気なんだろ」
いつか美樹子が言っていた話は本当だったのだ。
「……どうした?」
「ううん、私……その話は冗談だと思ってたの。有村君のお家がすごいお金持ちで、お母さんが社長さんだったとか」
優作の眼が点になる。
「だって、いつも『つるや』で買い物する時なんて、私と同じように特売品を狙ってるでしょ? だからてっきり、うちと同じような普通の庶民だと思って……」
声を出さずに、肩を震わせて優作は笑いだした。
何がおかしいのか理解できないさくらは紙パックのジュースを一口飲んだ。
「……それでいいんだ。俺は、普通の庶民だよ」
そう言えば、優作の笑った顔を見たのは初めてかもしれない。
いつも気難しそうな、不機嫌そうな表情をしているか、まったく無表情でいるかのどちらかしかない彼の笑顔が、さくらの胸に、それまで経験したことのない鼓動を鳴らした。
そろそろ昼休憩の終わる時間になり、二人が教室へ戻ると、さくらの席の前で千鶴と美樹子が暗い顔をして待ち構えていた。
何て声をかけたらいいのかさくらが思い悩み、ふと優作の方を見た時。
「私……知ってるんだからね」突然、千鶴が低く小さな声で言い出した。
何のことだろう? さくらが怪訝に思っていると、
「さくらちゃんのお母さんのこと……私、お父さんから聞いて知ってるんだから」
ズキン、と心臓が跳ねた。
詳しいことは何も知らされていないが、母の奈津子が高校に入学する少し前に起こした事件のことはさくらも知っている。県警内で不祥事を起こした男を庇って逃走を助けようとしたこと。
父の聡介はその件については家の中でも一切口を噤んでいた。
その件に関して大々的に報道されることはなかったものの、警察関係者で知らないものはいないだろう。千鶴の父親はさくらの父親の同業者だ。
ついさっきまで軽く救われていた気分が、再び奈落の底に落ちるのをさくらは感じた。
「俺も知ってるぞ、お前自身のこと」
さくらをかばうように、優作は彼女と千鶴の間に立った。
「今ここで公表されたくなかったら、お前も黙るんだな」
「……」
「本人じゃない、家族の事をネタに脅迫するような真似しやがって。最低だな」
千鶴は泣き出しそうな顔を見せ、それから自分の席に戻り、カバンを持って走って教室を出て行ってしまった。
過去に何があったのだろう? そういえば千鶴は優作と同じ中学校の出身だった。
「気にするな」
短い優作の言葉の中に、複数の意味が隠されているのだとさくらは悟った。
母親のことであれこれ言われることも、千鶴が帰ってしまったことも、彼女の公表されたくない過去の出来事についても。
「うん……ありがとう」
気の弱い美樹子は「私、何も知らない、聞いてないから」とやはり泣きそうな顔で自分の席に戻った。
どういう訳か、その日以降さくらへの嫌がらせや悪戯はピタリとなりをひそめた。
千鶴はそれでも翌日登校してきたが、さくらとは眼を合わそうともせず、一言も口をきかなかった。美樹子は千鶴に追随し、やはり何も言ってこない。
これで同じクラスに女の子の友達はいなくなってしまったな、と思っていたのだが、驚いたことにその日の昼休憩、今まで話したこともない同じクラスの女の子がさくらに「一緒にお弁当食べようよ」と声をかけてきた。
さくらが優作の方を見ると、彼は黙って一人で教室を出て行ってしまった。
中山園子というその女子生徒と他数名の女子グループは、人の好い、朗らかな子達ばかりで居心地が良かった。
やはりクラスの中に一人でいるよりは、男の子の友達とだけいつも一緒にいるよりは幾分気が楽だ。
それなのでさくらは段々優作と話す機会が少なくなった。
おまけに席替えがあり、遠く離れてしまったので気軽に話しかけることも難しい。
実のところさくらはまだ、優作のことで他の女子生徒に嫉妬されるのではたまらないという恐怖心も働いていた。
学校帰りの『つるや』で会えることも期待したが、クラス委員長を任命されている優作は最近放課後もいろいろと忙しくしていて、それもかなわない。
なんとなく寂しさを感じるのは自分だけだろうか?
自分の中に芽生えた感情が何なのか、さくらにはまだその時、認識できないでいた。
入学式前に起きた父親との冷戦はしばらく続いていたが、いつしか暗黙の内に停戦条約が結ばれ、その日も今までのように土曜日の授業が午前中で終わった後は、優作は父、光太郎と一緒に『小松屋』で昼食を摂っていた。
二人はいつもランチタイム営業が終わる頃を狙って行く。
店の手伝いをしている慧が休憩を取れる時間になり、一緒に食事をするためだ。
有村家と今岡家は昔から家族ぐるみでの付き合いがあり、今でも継続している。
「なぁ……慧。父さんにも、聞きたいんだけど」
厨房から出てきて帽子を取り、白衣姿のまま向かいに腰掛けた慧に向かって、労いの言葉もなく、いきなり優作は言った。
「女ってどうして、ああいつも集団で行動したがるんだ?」
最近、少しも高岡さくらと話せていない。
そのことが優作には不満だった。
彼女に新しい友達ができてからというもの、話しかけたくても必ず誰か他の女子生徒が近くにいる。
女の子達は皆一様にそうだが、どこに行くにも何をするにも必ずと言っていいほど集団で行動する。
「……なんて?」
「だから、教室移動の時も昼の休憩時間も、なんで一人で行動できないのか?」
慧と光太郎は顔を見合わせた。予想のはるか上を行く思いがけない質問に、二人とも絶句してしまった。
まさか親友の口から、息子の口からそんな問いかけが出てこようとは。
「さぁ……なんでだろうな」
「お父さんも、女の子の気持ちはわからないよ」
あてにならないな、とつまらなそうな顔で優作は一口お茶を飲んだ。
母親のことがなくても恐らく、堅物を絵に描いたような少年になったであろうと思われる優作の口から、女の子の話が出てきた。明日は早めの台風が来るのではないだろうか。
その時「今岡君、ごちそうさま。おいしかったよ」「また来るね」と、二人組の女性客が慧に声を掛けて店を出て行った。
「知り合いか?」
「ああ、同じクラスの人達だよ」
と慧は答えたが、優作はすぐに信じることができなかった。
何しろ二人とも自分達より随分年上に見えたからだ。あとで父親に聞いたところ、定時制高校である備後南高にはあらゆる年代の生徒がいるとのことだ。
人懐っこく、明るい慧は新しい学校でもすぐにいろんな生徒と仲良くなれるだろう。
そういう意味で優作とは対をなす。だからこそ長く友情が続いているのかもしれない。
やがて慧の両親も仕事の手を休めて、息子達から少し離れた一番隅の客席に腰を下ろした。
光太郎は席を立つとそちらに移動し、保護者は保護者同士だけで話し始めた。
「そういえば……あいつ、学校来てるのか?」
父親が席を立って少し経過してから、優作は言った。
「あいつって?」
「梨恵だよ、高岡梨恵」
「あぁ……まあ、一応来ているな」
さくらのことを考えていて、それから慧の学校の同級生を見て、ふと優作は梨恵のことを思い出した。
あくまで噂に聞いた話だが、定時制高校に通う生徒の中には素行の悪い、いわゆるヤンキーと称される人種が幅を利かせている。
梨恵には何度か会っただけが、そういう環境の中に置かれたら、彼女の場合は真っ先に良くない方へ影響されるのではないかと思う。
家では一言もしゃべらない、と一度さくらが妹のことを心配して言っていたが、実際のところどうなのだろう?
「ちゃんと真面目にやってるのか?」
「……お前の『真面目』の基準で言ったら、とてもじゃないが肯定できないな」
苦笑しながら、慧は答えた。そして、
「それにしてもさぁ、梨恵のやつたまに出会うと大変なんだぜ? 優ちゃんに会いたい、会わせろってさ。お前、すっかり一目惚れされたな」
「……知るか、そんなこと……慧、まさかお前、教えたりしてないよな?」
「何を?」
「俺が毎週土曜日、ここに来てること」
「言う訳ないだろ、そんなこと」
少しばかり親友の表情が機嫌悪そうになったので、優作は忸怩たる思いだった。
梨恵も最初から慧のことを好きになってくれていれば良かったのだ。そうすれば何も面倒なことはない。
慧が梨恵のことを、初めて会った時から気に入っていたのは知っている。どこがいいのか理解できないとしても、それは当人の自由だ。
しばらくここには来ない方がいいかもしれない……慧に会いたい時は外で会おう。
父親には全部事情を話そう。優作はそう考えた。