高校は義務教育ではないのだ
ある朝、登校してきたさくらの机の上に、一通の白い封筒が置いてあった。
何だろう? と思って封を開けると、白い紙にただ『死ね』とだけ書いてあった。
紙は一枚だけではなく、他にも『男好き』だの『バカ』だの、罵詈雑言が書かれた紙が何枚も同封されていた。
さくらは以前、美樹子が言っていたことを思い出した。
優作の家はすごいお金持ちで、頭も顔もいいからとにかく女の子に大人気なのだと。そんな彼と親しくしている自分が他の女子生徒達の嫉妬を一身に買っているのだと、その時初めて気付いた。
手紙を握りつぶしてしまおうかと思ったがやめておいた。
まさか指紋を調べて犯人を捜し出すような真似はしないとしても、証拠品にはなる。
手紙を封筒に入れ直し、さくらはそれをカバンにしまいこんだ。
ちなみに嫌がらせはそれだけでは終わらなかった。
体育の時間は体育館専用のシューズが必要で、さくらが体育の時間に靴を履きかえようとした時、指に鋭い痛みを感じた。
靴の内側にセロハンテープで、いくつもの画鋲がくっつけられていたのだ。おまけに体操着のジャージには、カミソリで切りつけられたような裂け目と、コーヒーをぶちまけたようなシミがついていた。
さくらは体育教師に「体調が悪い」とだけ伝えて、見学することにした。
負けるものか。
こんなの、大したことじゃない。
授業が終わって帰ろうと自転車置き場で自分の自転車を見つけた時、さくらはタイヤに画鋲が刺し込まれているのに気付いた。
パンクさせられていた自転車を引きずりながら、さくらは歩いて家に帰った。
おかげでいつもの倍以上、帰るのに時間がかかってしまった。
しかし体操着のことは父親に言わなければ。新しいのを用意しなければ、今後ずっと体育の授業を見学する訳にもいかないだろう。
家に帰ると、既に聡介が夕飯の支度をしてくれていた。
今日は非番だったのもあるが、刑事課に勤務していた頃の父は、休みの日でさえ仕事だと家を明けることがあった。
交番勤務に変わった今、以前よりは家にいることが増えて、積極的に家事を手伝ってくれるが、正直なところ母親がいた頃からそうしてくれていれば……と思わなくもない。
「お帰り、さくら。今日は遅かったじゃないか」
「うん……いろいろあってね。梨恵は? もう帰ってるの?」
「さぁな。俺は会ってない」
相変わらずだ、この親子は。
梨恵は梨恵で、母親がいなくなってからも父親への態度は変わらず悪いままだし、聡介も少しも歩み寄ろうとしない。
玄関に梨恵の靴があったから、家には帰っているのだろう。さくらは気付かれないようにそっと溜息をついて、部屋に入って着替えを始めた。
母の奈津子が姿を消して、さくらには自分の部屋があてがわれるようになった。
今までは梨恵と二人で一つの部屋を共有していたから、それなりにコミュニケーションを取ることもできた。
しかし、それぞれ独立した部屋をもつようになってからは殆ど、まったく一言も口を聞かない日も珍しくない。
今日優作に『梨恵は元気か』と聞かれたが、多分としか答えられなかった。
「梨恵、もうすぐご飯できるよ」
さくらは妹に呼びかけたが返事はない。
仕上げは娘にバトンタッチして、聡介は居間で新聞を広げた。
「……あのね、お父さん」
味噌汁を椀によそいながら、さくらは切り出した。「実はね、体操着をダメにしちゃったの……新しいの、買ってもいいかな?」
「体操着? ダメにしたって……破れたのか?」
「うん、体育の授業の時に張り切って走ったら、転んじゃったの。そしたら裾の方が破れてしまって」
今、自分は優作にも指摘された「作り笑い」をしている。どうか本当のことに気付かれませんように。
「そうか、わかった。いくらぐらい要るんだ?」
聡介が財布から現金を取り出している時、急に梨恵の部屋のドアが開いた。
「あ、梨恵。一緒にご飯食べようよ」
しかし梨恵は無言で台所に行き、盆の上に自分の分のご飯とみそ汁とおかずを盛ると、やはり一言もしゃべらないまま部屋に戻った。
そういう訳でさくらは父親と二人でテーブルを囲んだ。
「さくら……新しい学校はどうだ?」
炭酸水をコップに注ぎながら、とかく何気なさを装って聡介は尋ねた。きっと胸の内は心配でたまらないのだろう。
「楽しくやってるよ。友達もできたし……千鶴ちゃんて覚えてる? 沢村千鶴ちゃん。うちが昔官舎に住んでた頃、下の階に住んでたでしょ?彼女と同じクラスなんだよ」
「……ああ、沢村の娘か」
「他にもね、新しい友達ができたし。何も心配いらないよ」
嘘ではない。少なくとも優作に関しては、彼は素晴らしい友達だ。
それならいいんだが、と父はそれ以上学校のことは尋ねてこなかった。
翌朝。自転車が使えないので、さくらはいつもより早めに家を出て歩いて登校したのだが、それでもやはり遅くなってしまった。
教室に入ると、自分の席で優作が何故か机の上を雑巾で擦っている。
「おはよう。有村君、何してるの?」
つん、と鼻をつく刺激臭がした。そして気付いた。
さくらの席の机上、椅子の背もたれから腰を掛ける部分、あらゆるところに油性マジックで落書きがしてあるのだ。
書いてあることは以前とほぼ同じ。『死ね』『バカ』『売女』。いったい誰がこんなことをしたのだろう?
クラスメート達の反応は様々だ。
ひそひそと教室の隅で話している一部の女子達、ニヤニヤとおもしろそうに眺めている一部の男子達。あとはただ、黙って成り行きを見守る生徒達。
「貸して、私がやるから」さくらの申し出はしかし、無言の内に却下された。
さくらがティッシュを取り出し、机の上に置かれたシンナー液を浸して椅子の方を擦り始めると、ひゅう~と男子生徒の一人が口笛を吹いた。
「二人の初めての共同作業です~」
ぎゃはは、と笑いが起こる。
その時、始業を知らせるチャイムが鳴った。
「全員、席につけ~」担任教師の杉原が教室に入ると、生徒達はそそくさと自分の席に着く。
しかし優作とさくらはまだ、机の上の落書きと格闘している。
「……じゃあ、出欠とるぞ。有村と高岡……はそれどころじゃないか。まあ、いるのは分かってるからな」
担任は既に事情を知っている様子だ。出席番号最後の渡辺、という生徒が返事をした頃にようやく、なんとか座れる状態にまで汚れは落ちた。
「……お前たち、見てわかると思うが、誰が高岡の机にこんな悪戯をしたんだ?」
朝のホームルーム。そう尋ねたところで誰が名乗り出るだろうか。
「先生、少しいいですか?」
手を挙げて発言の許可を求めたのは、優作だった。
担任が許可を出すと彼は立ち上がり、
「お前ら全員、何をしに学校へ来てるんだ?」と、クラス全員に向けて問いかけた。
もちろん、答える者はいない。
「俺は、勉強するために学校へ来てるんだ。親に授業料払わせておいて、こんなくだらないことをするために学校へ来てるっていうんだったら、今すぐに退学しろ」
教室中が水を打ったように静まり返る。
「……誰がこんなことしたのか、どうしてしたのかも俺は知っているんだ。昨日、高岡の自転車に画鋲を刺してパンクさせたのも、こんな落書きをした奴も」
ざわざわ、どよめきが起きた。
これにはさくらも驚いた。
「あと1分やる。自分から名乗り出れば、俺もこれ以上は何も言わない」
担任教師は眼を丸くしていた。これが本当に高校一年生男子の言うことだろうか?
そして、1分が経過。名乗りでる者はいない。
すると優作はつかつかと歩き出し、さくらの二つ後ろに座っている寺西という名前の女子生徒の手首をいきなり掴んで引っ張り上げた。
「……指にマジックのインクがついてる」
その女子生徒は、さくらが一度も話したことがない生徒だった。出身中学も違うし、接する機会もない。ボブカットのそばかすだらけの女の子だ。
「……」
「高岡に謝れ」
「あ……あたし……」
「いいから謝れ!」
一喝されて、その女の子は泣きながら小さく「ごめんなさい」と言った。
「先生、自転車をパンクさせた犯人は他にいます」
優作は席に戻り、机に腰を掛けて再びクラスメート全員を見回す。
「そうだよな、沢村。清河も」再びざわめき。
さくらが思わず千鶴を見ると、顔面蒼白で、全身が震えていた。
「見てたんだよ、俺は。お前らが二人で高岡の自転車に画鋲を刺してるところ」
どうして? なんて、聞くまでもなかった。ちぃちゃんはね、有村君のことが中学の頃から好きなんだよ……。
「ついでにお前らと、全員に言っておく。俺と高岡は友達同士だ。それ以上でもそれ以外でもない!!」
優作はそう叫ぶように言った。
その時、ホームルームの時間が終わったことを告げるチャイムが鳴った。
「あー、高岡。お前は2時限目が終わったら、寺西と沢村と清河は4時限目が終わったら職員室に来なさい」
担任は教室を出て行き、代わりに1時限目の生物の教師が入ってきた。
さくらの担任の杉原という教師は30代後半の若い男性教諭で、日本史、世界史、政治経済から倫理にいたるまで社会科全般を教えている。
その日2時限目は日本史の授業で、彼は早めに授業を終え、さくらを一緒に職員室へ連れて行くのだった。
並んで廊下を歩きながら担任教師は、
「たぶん、今日だけじゃないんだろう? 落書きとか悪戯とか、前にもあったんじゃないのか? 何にも言ってくれないから、先生は今朝、有村から聞いて初めて知ったんだぞ?」
「すみません……」
「別に、お前が謝ることじゃないだろう。それにしてもなぁ……」
がらっ、と職員室のドアを開け担任は、自分の席に座る。
さくらに隣の椅子を勧めてから「先生に話しても仕方ないって思ったのか?」
「そういう訳じゃありません。ただ……あまり、大ごとにしたくなかったんです」
その返答に、担任教師は頭を抱えるそぶりを見せた。
「お前も、有村も本当に高校一年生か? まだ誕生日も来てないだろう? 15の子供が、何一人前の大人みたいなこと言ってるんだ」
言われてさくらは初めて、世間的にはまだ自分は子供なのだと気付いた。
幼い頃から気苦労の絶えない家庭で育ったせいだろう。何か問題があっても、学校の先生に頼ったり、誰か大人に頼ることはあまり考えたことがない。
その時にふとさくらは、優作もひょっとして難しい家庭環境の中で育ったのだろうか? と考えた。
「とにかく。これからは何かあったらすぐ先生に言うんだぞ?」
その言葉は、あまり問題が大きくならないうちに相談しろ、と言われているようにも、今朝みたいな面倒なことを起こさないでくれとも、どちらとも取れるように、さくらには聞こえた。
結局黒板の落書きや、体操服や靴への悪戯が誰の仕業かはわからなかったが、いずれにしても同じクラスの誰かだろう。今後もやはり同じようなことがあって、この担任に相談して果たして解決するのだろうか?
この先生よりも優作の方がよほど頼りになるのではないか。