アクエリアスの乙女たち
翌日の昼休憩の時間、約束通りさくらは千鶴と美樹子と3人でお弁当を広げた。
「ねぇねぇ、さくらちゃん。昨日『つるや』に行った?」
しばらくあたりさわりのない話をした後、急に何の脈絡もなく美樹子がそう言い出した。
「うん、行ったよ」
「……有村君と一緒だった?」
「え? 別に、一緒じゃないよ。たまたま入口の自転車置き場のところで出会っただけ」
「そうなんだ~。実は私達、昨日さくらちゃんが『つるや』で有村君と話ししてるとこ見ちゃったんだよね」
何故だか急に、千鶴が黙り込んで俯いた。
なんだかこっそり悪いことをしているところを見られたような言い方で、さくらはあまり良い気分がしなかった。
しかしその後すぐ、別の話題に移ってその話はそこで終わった。
昼の休憩時間が終わり午後の授業が始まる時間。視聴覚教室に移動するようにと指示があったので、さくらは千鶴と美樹子と廊下を3人で歩いていた。
やがて千鶴と美樹子が、中学生の頃の話を始めた。
さくらにはついていけない話題だったので、二人から少し離れて一人で歩いていた。
すると、
「なあ。今日も『つるや』に買い物行くのか?」
いつの間に近くにいたのか突然、優作に話しかけられてさくらは驚いた。
「……ううん、行くのはだいたい週に3回ぐらい」
「俺の家の新聞には、あそこのスーパーのチラシが入らないんだ。いろいろ詳しい情報を教えてくれよ」
「そうなの? うん、いいよ。あのスーパーは、月曜日がお魚の日で、火曜日がお肉とパンの日で……」
「ふぅん……ついでに、買った材料をどういう料理にしてるかも教えてくれないか。料理はもっぱら父親の役目なんだけど、うちの親父はレパートリーが少ないから」
「うん、いいよ」
遠くから見ている分には、有村優作というクラスメートはどちらかというととっつきにくく、近寄りがたい人物だった。
休憩時間と言えば一人で難しい顔をして本を読んでいるし、他の男子生徒みたいに大勢でワイワイと騒ぐことはしない。
だけど、こうして二人で会話をしている時はそこそこ表情も柔らかい。
それでいて他の男の子達にはない大人びた雰囲気があり、さくらは少なからずこの同級生に好感を覚えていた。
席が隣同士ということもあり、さくらと優作は授業の合間の休憩時間によく話をするようになった。
今日の『つるや』情報だとか、旬の食材を使った料理だとか、少し遠くにあるスーパーでもお得な情報は共有するという、まるで主婦同士の会話だった。
そんなある日、入学して3週間ぐらいが経過した頃のことだ。
その日、千鶴は風邪を引いて学校を休んでいた。
それなので昼休憩の時間、さくらは美樹子と二人で昼食を摂った。
「ねぇ、さくらちゃんてさ……有村君と付き合ってるの?」
急に美樹子がそんなことを言いだしたので、さくらは飲んでいたお茶を吹き出しそうになってしまった。
「なんでそうなるの?」
「だって……いつも仲良さそうに話ししてるじゃん」
「別に、そんなんじゃないよ」
有村君とはただ、買い物情報を共有してるだけと言いたかった。
けど、何故かそれを明かす気にもなれなかった。
「……実はさ、ちぃちゃんて中学の頃からずっと、有村君のことが好きなんだよね」
初耳だった。千鶴が優作と同じ中学だったという情報も知らなかった。
でも、言われてみればさくらが優作と話していると、千鶴が何かしら話しかけてきて会話が中断することもしばしばあったような気がする。
「さくらちゃんだって、知ってるでしょ? 有村君の家って、市内でも有名な旧家……素封家っていうんだっけ? とにかく格式高いお家で、すごいお金持ちらしいよ」
「え~……嘘でしょ?」
豆腐1丁58円に歓喜している彼を知っているさくらには、そんな話をにわかに信じることができなかった。
「お父さんは有名な画家さんで、それに、もう亡くなってるらしいけど、有村君のお母さんはあの『MITSUe』ブランドの社長さんだったんだって!」
『MITSUe』は今でも県内では有名なブランドで根強い人気がある。
知ってるでしょと言われたが、さくらは何一つそんなことは知らない。
「そういう羨ましいバックグラウンドに加えて、有村君ってすごく顔もカッコいいじゃない? 頭もいいしさ~。中学の卒業式の日なんて、ほんと大変だったんだから。第2ボタンを狙った女子達の争いがすさまじくてね……」
なんだか分かるような気がする。
ふと、優作の姿を探して教室の中を見回してみた。教室の中にはいない。
そういえば、いつも彼はどこで誰とお昼を食べているのだろう?
「……私、有村君のこと全然知らないよ。それに、別に心配しなくても付き合ってるとかそういうんじゃないから」
しかし、異変が起きたのはその翌日からだ。
翌朝、いつものようにさくらが登校すると、既に来ていた数人のクラスメートがひそひそと話していた。
何だろう? と思いながらさくらがふと、黒板に目をやると、
『高岡さくらは有村優作とラブラブです』とか、相合傘のマークの下に「ゆうさく」「さくら」とチョークで落書きされていた。
「……」
一瞬にして、胸が冷たくなるのをさくらは感じた。
誰がこんなことを。
考えるより先に身体が動いて、さくらは黒板消しで下品な落書きを消し始めた。くだらないことをする人間はいるものだ。
千鶴や美樹子がこんなことをしたのだろうか?
だが、千鶴は昨日休んでいたし、二人ともまだ今日は登校していない。
それに、友達を疑うなんて。
落書きはすぐに消えた。それでも、さくらの気持は晴れなかった。
優作が登校して来たのはその直後だった。
結局誰の仕業なのかは分からないまま、半日が過ぎた。
今日は千鶴が登校したので、昼の休憩時間、さくらはいつものように弁当を持って彼女に近づいた。
「千鶴ちゃん、お昼食べよう」
「……」千鶴は美樹子と顔を見合わせると「ごめんね、さくらちゃん。私達、今日は学食に行くから」
そう言って、二人でさっさと教室を出て行ってしまった。
一人取り残されてしまったさくらは、どうしようかと悩んだ。
教室の中で一人弁当を食べるのはいかにも目立ってしまう。だけど、他の女の子達のグループの中に入れてもらう度胸もない。
少し悩んだ末に校舎の屋上へ上がってみることにした。
(なんでこんなことになっちゃったのかな……)
幸い、屋上には誰もいなかった。
ちょうど腰掛けるのに都合のいい場所があって、さくらは一人そこで弁当を広げた。いい天気だった。
青い空を見つめながら、一人きりで、昨日安く買えたブロッコリーを頬張っていると、つい涙がこぼれそうだった。
その時、屋上の出入り口のドアが開いた。
誰だろう? とさくらは身を固くした。
現れたのは有村優作だった。
「あ、ここもしかして、有村君の指定席だった? ごめんね」
笑顔を作って腰を浮かせる。すると優作は首を横に振り、黙ってさくらの隣に腰を下ろす。
それから弁当袋を開けて、黙々と食べ始めた。
しばらく気まずい沈黙の時間が流れた。
「高岡ってさ……」
彼はさくらのことを名字で呼ぶ。
そして箸を止め、じっと彼女の眼を見つめると「作り笑いが板についてるっていうか、すっかり慣れてる感じだな」
どくん、と心臓が跳ねた。
どうしてわかるのだろう? 心から笑っている訳ではないことが。
物心ついた時からそうだった。さくらはとりあえず自分が笑顔を見せていれば、重苦しい空気の家の中も、その内穏やかになることを知っていた。
本当は自分も梨恵のように、感情のまま泣きたい時もあった。
それでも笑顔でまぁまぁ、といがみ合う両親の間に立つことで丸く収まることがあったから、だからすべての感情を押し殺し、表には出さないで笑顔だけを作ってきた。
過去に一度だけ、父の聡介が泣きながら言ったことがある。
『お前がこんな笑い方しかできないようにしてしまったのは、俺達のせいだ』と。
だけど、他人からそのことを指摘されたのは、本心からの笑顔ではないと見抜かれたのは初めてだ。
「……有村君、いつもここでお昼食べてるの?」
動揺を隠しきれず、さくらは震える声でとにかく話題を変えた。
「ああ。ここは静かでいい」
「一人で?」
「……悪いか?」
「悪くなんかないけど、ただ……私がここにいたら、邪魔かなって」
優作はふっと息をつくと、
「別に、ここは俺の私有地じゃない」と、再び箸を動かし始めた。
さくらもすっかり中断していたが、今は食べることに集中することにした。
二人とも何も話さずに黙々と食べた。しかし、その後は不思議なことに気まずさを感じることはなかった。やがて、二人とも弁当箱が空になった頃。
「教室で一人で食べるのが嫌なら、明日からもここに来ればいい」優作が言った。
「うん、そうするね。ありがとう」
今はきっと、心から笑えているはずだ。
それからさくらは立ち上がり、残りの休憩時間は図書室で過ごすことにした。
結局、翌日もその次の日も翌週も、さくらは屋上に上がって優作と一緒に昼休憩を過ごすことになった。千鶴と美樹子は一切、さくらに声をかけてくることもなくなった。
しかし、それはそれでかまわなかった。
意外なことだったが、優作がいろいろと話をしてくれたからだ。
今まで通りのお買い得情報に加えて、時事問題、時にはテレビで見たくだらない内容など、とにかく話題に尽きることがなかった。
食事を終えたら図書室に行こうと思っていたさくらだったが、優作との会話が楽しくて、いつしか昼の休憩時間はずっと彼と一緒に過ごすようになっていた。
もはや、千鶴達でなくてもこのクラスメートがいればいい。
他に友達なんていらない……とさえ思えた。