道徳の時間:1
商店街を抜けて駅前まで戻ると、聞き慣れた声がした。
「さくら!!」
「……お父さん!!」
どうしてここに?
そんなことはどうでもいい。
さくらは思わず、夢中で父親に抱きついた。
父の体温を感じると自然に涙が零れてくる。
「怖かった……もう、どうしていいのか……」
「もう大丈夫だからな」
優しく抱き返してくれる父の手の温かさに、さくらはしばらく涙が止まらなかった。
「……怪我はないか? 2人とも」
大丈夫、と言ったつもりが声にならなかったようだ。
ひたすら首を横に振り、溢れる涙を抑えることができないでいた。
「家に帰ろう、な?」
帰宅すると、内側からドアが開いた。
「さくら、お父さん!!」
梨恵が足音を聞きつけて玄関に走ってきたらしい。
「良かった……帰ったら誰もいないし、何かあったんじゃないかって……ほんとに心配したんだからね!?」
顔を赤くし、泣き出しそうな顔で妹が叫ぶ。
こんなことは今までなかった。
「すまんな、心配かけた」
靴を脱いで玄関に上がると、帰ってきたのだという実感が沸く。
さくらはひどい脱力感を覚えた。
ああ、でも。晩ご飯の支度をしなければ……。
その時、思いがけない台詞が妹の口から出た。
「そうだ! 今日はね、梨恵が晩ご飯作ったんだよ? 2人ともなかなか帰って来ないから、待ってるだけなのもなんだなぁって思って……」
「お前が、か?」
「この頃、慧ちゃん家で少しずつ料理習ってるんだからね。あ、そうだ。お風呂もわかしておいたよ。どっち先にする?」
これは本当に、あの妹だろうか?
「お前……本当に梨恵か?」
「何よそれ」
「いや、だって……なぁ?」
父は困惑げな表情で長女を見つめる。
さくらは何も言うことができなかった。
どうせ砂糖と塩を間違えたとか、火加減を間違えて黒こげになった料理だとか、台所はぐちゃぐちゃに汚れていて、後片付けに追われるのは自分なのだ……。
そう考えながら服を着替えつつ、さくらはリビングに向かった。
しかし。案に相違して、台所はきちんと片づけられており、料理の見た目もまともだった。
おそるおそる一口食べてみると、調味料も間違っていなかった。
「どう? 美味しい?」
「……うん……」
「良かった! ねぇ、お父さんは?!」
「お前、いったいどうしたんだ……?」
すると梨恵は嬉しそうに、
「慧ちゃんがね、いろいろ料理を教えてくれたんだよ。たまには家族に何か作ってやれって」
梨恵はよくも悪くも単純極まりない。すぐに人の影響を受ける。
今は良い影響力のようだが……。
「今日はそういえば、彼と一緒に出かけたんだったな」
ああ、そう言えばそんな話を聞いたような気がする。
聡介は味噌汁を一口飲んでから、ちらりと梨恵を見つめて訊ねた。
「何もなかっただろうな?」
「何もって、何?」
父の訊きたいことはなんとなくわかる。
梨恵だって今どき女子高生の一人には違いないのだ。男の子と二人で出かけたなんて聞けば、親は心配する。
そんなことよりも。
さくらにはもっと気になって仕方ないことがあった。
優作は梨恵に別れを告げたはずではなかったか……。
頭の中はだいぶ混乱していた。ヤンキーに絡まれて恐喝されるなんて、経験したことのない事態に、今さら恐怖感がこみあげてくる。
それもこれも全部、梨恵のせいじゃないの。
それでもさくらは温かい緑茶と共に、吐き出してしまいたい文句を飲み込んだ。
台所が片付いているので、食器を洗う以外にはたいしてすることがない。
すぐに終わった水仕事の後、さくらは乾いた洗濯物をたたむことに取り掛かる。
テレビをつけてリビングのソファに座り、とにかく何も考えたくなくて、ぼんやりと画面に映るタレントたちを眺めていた。
そこへ梨恵がやってきた。
「ねぇねぇ、さくら。聞いてよ……今日、慧ちゃんとね……」
梨恵は楽しそうに、今日の出来事を話し始めた。
母親が失踪したばかりの頃は、黙りこんで、一言も口をきかない日が続いた。
優作と付き合うようになってからは、聞きたくもない話ばかりをさんざん聞かせてきて、今度は他の男の子との話なの?
段々とさくらは苛立ちを覚え始めていた。
この頃少し、自分でもおかしいと思う。
以前なら我慢できたことが、我慢できなくなってきたような気がする。
「それでね……」
ねぇ、とさくらは妹の話を遮った。
その声が思いの外低く、冷たかったことに自分でも驚いてしまう。
「梨恵って、今岡君と付き合ってるの?」
「そ、そういうんじゃないけど……」
梨恵は頬を赤く染め、少し恥ずかしそうに言い淀む。それが余計に神経を逆撫でした。
「優作君とは?」
すると梨恵は困惑した顔になる。
「え? 何言ってんのよ、そんなの遠い昔に……さくら?」
さくらは手に持っていた父親の靴下をきつく握りしめた。
「……梨恵って、母親そっくりよね。お父さんがいるのに、他の男の人と浮気して……裏切って……優作君は、今でもあなたのこと……!」
「ちょ、ちょっと待ってよ、どうしたの?! 変なこと言わないでよ!! 本気で怒るよ?!」
その時、風呂から上がってきた聡介が驚いて口を挟んだ。
「お前達、何をもめてるんだ?」
「お父さん、なんかさくらがおかしいのよ!!」
その通りだ。
今の自分が普通じゃないことぐらい、よくわかっている。
でも、突然にいろいろなものがこみ上げて来て、止まらなくなってきた。
「もう寝る、お休みなさい」
まだたたんでいない洗濯物があるが、そんなことはかまわない。
さくらは自分の分の洗濯物だけを抱えて立ち上がり、部屋に戻ろうとした。
「待ちなさい、少し話がある」
父に手を掴まれ、さくらは足を止めた。
「今日、体育祭が終わったら、彰彦と一緒に帰ってこいって言ったはずだな? どうしてお父さんの言うことを聞かなかったんだ」
口調は穏やかだった。でも、確実に機嫌は損ねているとわかる。
さくらは黙っていた。
「友達と寄り道して帰るな、なんて言うつもりはない。けどな……」
言われるであろうことは予測がつく。
未成年があんな場所に出入りした上、ヤンキーに囲まれるような事態に陥って、大怪我でもさせられたらどうするつもりだったんだ。
だから彰彦と一緒に帰って来いって言ったのに。
「……私は……自分が普通の女の子だってことを証明したかったの!!」
気がついたらさくらは、そう口走っていた。
「さくら……?」
さくらは困惑している父親の顔を真っ直ぐに見つめ、叫んだ。
「普通の十六歳は家事に追われたり、父親に彼氏をあてがわれたりしない!! 私だってクラスの子達と同じことしてみたかったの!! だいたいね、ヤンキーに囲まれたのだって元はと言えば梨恵のせいなのよ?!」
「え……それって、まさか……?」
梨恵にはすぐに思い当たる人物がいたらしい。
「名前なんか知らない。でも、怪我をさせられたのに、謝罪の一言もなかったってすごく怒ってた」
沈黙が降りる。
やがて、梨恵が口を開いた。
「……ごめん……」
「……謝る相手が違うわ」
そうじゃないの、と妹はゆっくり近づいてくる。そして、
「ううん。あたしのせいで、怖い思いをさせてごめん」
今度はさくらの方が驚く番だった。
まさか妹からそんな台詞を聞くとは、考えてもみなかったからだ。
「明日、学校言ったらちゃんと謝っておく……もう二度と、さくらに怖い思いをさせないでって言っておくから」
これはどういうことだろう?
さくらはすっかり頭が混乱してしまった。
「……何なのよ、もう!!」
「さくら……?」
「今さらいい子ぶったりして、訳がわかんない!!」
さくらは今度こそ温かい父親の手を振り払って、自分の部屋に閉じこもった。