当時県警最強スナイパー
家に帰ったら誰もいなかった。
こんなことは初めてだ。
今までなら、玄関を開けたらたいてい夕飯の匂いがしていて、靴が必ず揃っていた。
それなのに。
梨恵はいつにない事態に不安を覚えていた。
慧とはつい先ほど、そこで別れた。まだ間に合うかもしれない。
梨恵は慌てて走りだし、彼の姿を探した。
「慧ちゃん!!」
幸い、彼はすぐに見つかった。
「……どうしたんだ?」
「家に誰もいないの! こんなこと、今までなかったんだよ?!」
「……お父さんとお姉さんの予定は?」
そう訊ねられて梨恵は記憶を辿った。
「お父さんは、確か仕事……さくらは、今日は体育祭だって言ってたから、学校に行ったのよ」
「この時間なら、とっくに帰ってるはずだよな……」
「どうしよう、慧ちゃん!! まさか、さくらに何か……!!」
嫌な予感が溢れだしてくる。
「落ち着け。取り合えず……お前は家で待ってろ。何か連絡があるかもしれない。下手に動くよりはそうした方がいい」
「でも……!!」
「俺は店に帰る。何か変わったことがあったら、すぐに連絡するから。だから、お前はここを動くな。いいな?!」
梨恵は黙って頷いた。
嵐が過ぎ去るのを待つように、さくらはきつく目を閉じて、なるべく目の前で繰り広げられる暴力行為を見ないようにしていた。
ヤンキーの集団と警察。どちらに軍配があがるのかなんて、どっちだっていい。
一刻も早くこの場を離れたい。
「この隙に逃げるぞ」
耳元で優作の声がする。さくらはむごんで頷き、歩きだそうとした。
「待ちな!!」
さっきの少女だ。
物凄い形相でさくらと優作の前に立ちはだかる。
「きっちり金払うまでは、帰さないからね!!」
もう、とっとと持っているお金をすべて払ってしまえばいい。さくらはそう考えてカバンに手を伸ばしかけた。
「ガメつい女だな。育ちが知れるというものだ。ケンカの腕は梨恵よりもずっと上みたいだが、女としては数段劣るな」
「……何? あんた」
「俺か? 俺は……梨恵のことをよく知っている。それだけだ」
「あ、ひょっとしてあんた? あのバカ女の彼氏って!!」
「……そうだと言ったら?」
え……?
さくらは困惑してしまった。
別れた筈じゃなかったのか、と。
「じゃあ、連帯責任だよ。あんたも金払いな!!」
「……ふん、ずいぶんと難しい言葉を知ってるんだな」
だから、どうしてそういうわざわざ相手を怒らせるようなことを言うの?!
それに、梨恵とのことは……?
今はそんなことを言っている場合ではないとわかっている。
だけど、さくらは頭が段々混乱してくるのを感じた。
「金は払わない。金は、自分で働いて稼ぐもんだ。梨恵は現にそうしている」
少女が般若のような形相を見せた。
ゴルフクラブのようなものが振り上げられるのが、暗がりの中でも認識できた。
恐怖で足が竦む。
もうダメだ。
そう思った時、突然頭上で『パン!!』と何かの割れる音が聞こえた。
「……?」
おそるおそるさくらが目を開けると、目の前に立ちはだかっていた少女が困惑した表情で折れたゴルフクラブを見つめている。
その隙を狙ったかのようにぐいっ、と手を引っ張られる。
「逃げるぞ!!」
それから、どれぐらい走っただろうか。
もう無理だ。そう思った時には商店街の中にいた。
ほとんどの店がシャッターを下ろしているとはいえ、通りはまだ明るい。
人通りもそこそこある。
荒い息をつきながら、さくらは一時的かもしれないとはいえ、危機を脱したという安心感に包まれていた。
それからふと我に帰った時、自分がしっかりと優作の腕を掴んでいたことに気づいて慌ててしまう。ぱっ、と急いで彼から離れる。
「……」
「とりあえず、駅まで出る」
優作はさくらの手を取りズンズンと歩きだす。
ねぇ、と言いかけてさくらは言葉を飲み込んだ。さっきのはなんだったの? 梨恵とは別れたんじゃないの?
それに、さっきは和泉のことが一番好きだって言っていた。
この人が何を考えているのか全然わからない……。
ヤンキー達はもう、追ってこなかった。