母親失格:2
尾道から広島までは山陽本線の普通電車なら約1時間半で行ける。
JRの駅改札を出て、駅前から路面電車に乗り込む。
父親には内緒で母方の親戚から聞いた住所は、平和記念公園から大通りを挟んだ向かいのビルが立ち並ぶエリアの一画であった。
最後に母親に会ったのはいつだっただろう?ちゃんと冷静に話せるのだろうか。不安を抱えながら優作はドアホンを鳴らした。
しばらく待ってみたが、応答はない。実は、今日訪ねることを予め伝えていなかった。
もしも留守だったら諦めよう。
そう思ってもう一度ドアホンを鳴らす。
すると、寝起きのような声で母親の返事が聞こえた。
「母さん? 優作だけど……」
はっ、と息を呑むような音が聞こえた。優作はドアノブに手をかけてみた。鍵はかかっていない。
ドアを開けると靴脱ぎに、明らかに父親のものではない男物の靴が置いてあった。
パタパタとスリッパを鳴らしながら玄関に出てきた母親は、髪は乱れ、恐らく素肌の上に直接バスローブを羽織っただけのだらしない姿だった。
「どうして……」
「どうして? 息子が母親に会いに来ちゃいけないのか?」
「そんなこと、ないけど……来るなら来るって、前もって言っておいてくれないと」
それは不可能だった。優作は母親の新しい電話番号すら知らなかったのだ。
そう言おうとした瞬間、奥の方から男の声が響いてきた。
「どうしたんだ美津枝、誰か来たのか?」
それが幼い頃、親戚達が言っていた『飯田』という男の声なのかどうかはわからない。
ただ、優作はそれが父親の声じゃないことだけは痛いほどよく理解できた。
「ちょっとだけ待ってて、外で話しましょう」
美津枝は目の前にいる息子と、奥にいる愛人両方にあれこれと気を遣っている。
「話すことなんかない、俺は帰る」
「優……」
「あんた、最低だな」
この場に父親、光太郎がいたら、母親に向かって何て言う口のきき方をするんだと怒られたことだろう。しかし溢れる怒りと悲しみが、優作に抑えを効かなくした。
「父さんと別れてくれ。俺には母親はいない、もう死んだんだって思うことにする」
東京での事業に失敗した美津枝が借金を抱えて広島へ戻ってきたのは、なんとなくだが親戚から聞いていた。借金は母親の実家が肩代わりしてくれたそうだが、この贅沢なマンションの家賃はどこから出ているのだろう?気になったが、聞くのもバカバカしいと思えた。
「待って、優作! 私は……」
優作は振り返らなかった。涙が溢れて止まらなかった。
父さんがかわいそうだ。
だから自分はできる限りずっと父親のそばにいる。高校も、尾道市内でいい。
美津枝からの離婚届はしかし、なかなか届かなかった。
優作が母親の元を訪ねてから約半年以上が経ち、春休みを迎えたある日。その日広島県内は例年に比べて気温が低く、朝から大雨が降っていた。
居間で父子が二人、食卓を囲んでいる時だった。
電話のベルがけたたましく鳴り響く。何故だか嫌な予感がした。
光太郎が立ちあがり、受話器を取る。
「はい……ええ、そうですが……え……?」
良い知らせではなさそうだ、と優作は直感で思った。
「わかりました、すぐに向かいます」
「……どこから?」受話器を置いてもしばらく電話の前で立ちすくんでいる父親に、優作は声をかけた。
「警察が……」
「警察?」
「……美津枝が、車の事故にあって……遺体の確認に……」
顔に被せられた白い布をめくると、そこには血の色をなくした母親の顔があった。
「妻に……間違いありません」振り絞るような声で光太郎は言った。
警察の話によると、美津枝は広島から車で尾道へ向かっていたらしい。雨のために視界が悪いのに、ずいぶんスピードを出していたという。見通しの悪いカーブで対向車とぶつかりそうになり、避けようとして電信柱に突っ込んだのだ。
車から発見されたのは美津枝一人ではなかった。
「こちらの男性に見覚えは?」
美津枝の遺体の隣に並んで、もう一人男性が白い布をかけられていた。光太郎はしばらく男の顔を見ていたが、黙って首を横に振った。
優作も男の顔をよく見た。知らない男だ。夏休みに母親のマンションへ行った時に、奥の部屋にいたのと同一人物なのだろうか。優作もわからない、と答えた。
後で警察から聞いた話だが、美津枝のバッグから離婚届が出てきたという。それで身元が割れて光太郎に連絡が入ったのだ。
最悪だ。
どこまでも、最期まで大好きな父親に恥をかかせて、他の男と死ぬなんて。
母親の葬儀に出席することすら拒絶した優作だったが、親族に宥められてなんとかその場に身を置くことだけはした。
ちなみに一緒に亡くなった男性は、かつて一緒に会社を立ち上げた『飯田』ではなく別の男だった。美津枝は光太郎と別れて、この男と再婚するつもりだったらしい。
一緒に亡くなった男性が誰だろうと、そんなこと優作にはどうでもよかった。そんなことよりも彼は父、光太郎の態度が気に食わなかった。
もっと腹を立てても、死んだ人間のことを悪く言ってもいいじゃないか。
親戚はみんな口を揃えて悪縁だったと言っている。それなのに光太郎は元妻のことを、少しも悪く言ったりはしなかった。
逆に優作が母親の悪口を言うと、怒ることすらあったのだ。
結局、美津枝の話はいつしか父子の間で禁句となった。ただ、どうしてもその禁句を話題にしなければならないことがある。
墓参りに行くか行かないか。
美津枝が亡くなって一年後、中学2年生の優作は初めて父親に反抗した。絶対に墓参りなどには行かないと。
話は平行線をたどり、彼は家を飛び出した。そうして気が付いたら、幼馴染みで同級生の今岡慧の家に転がり込んでいた。
無口な職人の父親と、気立ての良い母親である慧の両親は、尾道の駅前商店街の一画で『小松屋』という小料理屋を営んでいる。昼間も食堂を経営していて、土曜日の昼学校が終わると、優作は父と二人で必ずこの友人の店に食事に来るのだった。
慧は昔から、多分父親よりも優作の事を理解してくれている。何があったのかなどとは聞かない。
同じ年齢のクラスメート達は、まるで中身は幼稚園児のまま身体が大きくなっただけのように思えるのだが、慧は違う。
彼もまた少し複雑な家庭に育ったためか、ずいぶんと大人びた雰囲気を持っている。
そしてその晩親友は、彼を家からほど近い波止場へと連れ出した。
何を語るでもなく、ただじっと二人で瀬戸内海を見つめている。
そうして、だいぶ身体が冷えてきた頃。
「……落ち着いたか?」
「うん……ごめん」
優作は基本的に自分を冷静な人間だと自負している。しかし、こと母親の話になると感情的になって、父親と口論になるのだ。
慧は優作の頭をくしゃっ、と撫でると「帰ろうか」と、言った。
「どこに?」
「……どこに帰りたい?」
「……」
その夜、優作は慧の家に泊めてもらった。
一晩経過すると、不思議に気持ちが落ち着いた。生きていれば痛烈な批判も、恨みごとのいくつかも届いたかもしれないが、死んでしまった相手には何も伝わらない。
そう考え直し、優作はその年は墓参りに行くことにした。
父親へ謝るのはだいぶ先延ばしにしたが。
それが中学2年生の頃の話だったのだが、中学の卒業式を終えて春からは高校生だというその年も、やはり優作は父親と母親のことで喧嘩になった。
きっかけは高校の入学式の話からだ。
その日光太郎にはどうしてもキャンセルできない予定があったので、息子の入学式に付き添うことができないと言った。
普通の家庭では、母親が入学式に付き添うものだ。
でも自分は小学生の時も、中学生の時も母親に来てもらったことがない。高校生ぐらいになれば一人で行ける。
第一あんなのが母親だなんて、恥ずかしくて誰にも言えない……。
結局、今年もこうなるのか。
黙って隣に座る親友の横顔を見ながら、優作は高校を卒業する時はどうなるんだろうとぼんやり考えていた。
何も言わないけど、慧も心の中ではあきれているか笑っているかのどっちかなんだろう。
そろそろ帰ろう、と優作が言いかけた時だ。
「おい、優作! あれ……!」
慧がいきなり、ただごとではない声で叫んだ。
彼の視線の先を追うと、少し離れた場所にある防波堤の上に、一人の少女が暗い海を見つめてぼんやり立っている。
海はそれほど深くないが、その少女の様子がただごとではないのが見て取れた。
その場所から飛び下りて、打ちどころが悪ければ命に関わる。泳げなければ溺死する。
二人は無言のうちに走り出した。
こんな時、何て声をかければいいのだろう。
テレビなんかで見る時は、早まるな!! とか言うんだろうが……。
「バカな真似はやめろ!!」
慧がそう叫んで、少女の腕を掴んだ。優作も必死で暴れる少女の小さな肩を抑えつけた。
「離して、死なせて!!」
やはり自殺するつもりだったのだ。
慧と優作は二人がかりで少女を引っ張り、できるだけ海から離れさせた。
やがて少女はあきらめたように力を抜いた。
街路灯が照らし出した彼女の顔を見ると、おそらく中学生か高校生ぐらい。知らない顔だ。
「……」
しばらく沈黙が続いた。やがて、
「名前と住所は? 親は?」慧が尋ねた。すると少女は、
「……いない」
「え?」
「……お母さん、いなくなっちゃったの。私のこと置いてどっかに行っちゃった!!」
それから少女はわっ、と泣き出した。
警察に連絡しよう、と優作は考えた。
一旦慧の家に行って電話を借りよう。しかし、歩き出そうとした彼を慧は止めた。
少しだけ彼女の話を聞いてやろう、ということらしい。
それから3人は、さっき優作と慧が並んで座っていた場所へ移動した。
少女は高岡梨恵と名乗った。
泣きじゃくりながら、あまり論理的ではない話し方だったので理解するまでに多少時間がかかったが、要するに彼女の母親が、急に失踪してしまったということらしい。
その経緯までは詳しく話そうとしなかったが、母親に置いて行かれたことがあまりにショックで生きているのが辛くなったという。
この子は母親と仲が良かったんだな、と優作は思った。
ひとしきり涙を流し、少し落ち着くと、梨恵は自分のことを話し出した。
最近尾道市内に引っ越してきて、この春中学を卒業したこと、高校は備後南高校へ進学すること。
「そっか、俺達の同級生なんだな。備後南だったら、俺と同じじゃん。同じクラスになれるといいな」慧が言った。
備後南高校は定時制で、働きながら通う生徒達のための学校である。慧は中学を卒業したら家業を手伝うと決めていた。
梨恵はその言葉に少しだけ笑顔を見せた。それから優作の方に視線を向けると、
「……あなたは?」
「俺? 俺は……西高だけど」
「そう……」
そこへ心配した慧の両親がやってきた。
慧が事情を説明すると、彼の母親は警察に電話してくれた。
やがてパトカーがやってきた。
「ねえ、ここに来ればまた会える?」
梨恵の問いかけに、優作としては、もう会うこともないだろう思っていたから返事はしなかった。
ところが、
「来年のこの時期なら、ここでまた会えるかもな」と、慧が答える。
この親友は来年もまた、優作が父親とケンカするのだと思っているのか。
「来年……?」
「うそうそ、冗談だって。俺ん家、そこの商店街で『小松屋』っていう料理屋やってるんだ。今度食べに来いよ」
すると少女は微笑んで、またねと手を振った。
「……なあ、慧。まさかとは思うけど……」
その晩、一応実家には連絡をしてもらって優作は慧の家に泊めてもらうことになった。
布団を敷いてもらって、風呂にも入れさせてもらって、あとは寝るだけ。
しかし、優作には気になって仕方がないことがある。
「お前、あの子のこと気に入った?」
すると慧は白い歯を見せて、にかっと笑った。
「わかるか? 俺さぁ、さっきの子みたいなちょっと頭の悪そうな、我儘っぽいのって放っておけないんだよな~」
全然知らなかった。長い付き合いだが、今まで慧と女の子の話などしたことがない優作は、彼の趣味を今初めて聞いたのだが、どうにも理解に苦しむ。
そういうお前はどうなんだよ、とそこで聞かないのがこの親友の賢いところだ。
優作にとって一番身近な女性である母親は、もはや憎しみの的でしかない。
自分は一生女性を愛することなんてないだろう。
そう思っていた、彼女に出会うまでは。