たわしコロッケに通じるものが……?
まぁ、あれです。時代設定的にね……。
いつもならすぐ満席になる金曜日の夜なのに、どういう理由か今日は空席が目立つ。
そこで梨恵は、壁に貼り付ける秋の新作メニューを模造紙に書き込んでいた。
「お前、意外と字が上手いんだな」その様子を見ていた慧が言った。
「でしょ~? あたし小さい頃、書道習ってたんだよ」
「人間、何か一つぐらいは取り柄があるもんだ」
「なんですって?」梨恵が気色ばんだ時、新しい客が入り口のドアを開けた。
いらっしゃいませ、と言いかけて思わず息を呑む。
あの北川明奈と木内静子が二人でやってきたのだ。怪我はすっかり治ったはずなのだが、あの少女を見ると思いだしたように痛む箇所がある。
「なんで、あんたがここにいるの?」
静子が訊ねる。
いつもの梨恵なら『あんた』呼ばわりされたことに食ってかかるのだが、この頃はだいぶ自制がきくようになってきた。
「私、この店で働かせてもらってるの」
にっこり。多少引きつっているかもしれないが、おそらく笑えていると思う。
梨恵は二人をテーブル席に案内し、お冷とおしぼりを運ぶ。
ご注文は、と言っている途中でいきなり明奈が立ち上がり、カウンターに近づく。
「今岡君、素敵なお店ね。私、前から一度来てみたいと思ってたの」
そうだった。この女は慧が目当てなのだ。
「そうなんだ、よく来てくれたね。ありがとう」
慧はお客にはもちろん、クラスメート達全員に愛想がいい。
彼女の姿は、ほんの何ヵ月か前の自分みたいだ。
好きな男へのアプローチがとてもわかりやすい。
しかし優作と慧の決定的な違いは、誰に対しても優しいかそうでないか。慧は少しもめんどくさそうな顔は見せず、笑顔で明奈の話を聞いている。
営業用なのかもしれないが、なんとなく梨恵は面白くなかった。
ふと静子を見ると、彼女もまたつまらなそうな顔で壁をにらんでいる。
もしかしてこの子も慧のことが好きなのだろうか?
梨恵は静子の傍に立ち、声をかけてみた。
「どこに住んでるの?」
声を掛けられたのがよほど意外だったのか、静子は眼を丸くしてしばらく見つめ返してきた。そうして彼女は市内でも最も山奥の不便な町の名を答えた。
「あんな山の中に住んでるの?」
「人を熊か猪みたいに言わないでよ」
梨恵がふっと笑うと、二人の間になぜか少し温かい空気が流れた。
その空気を切り裂くかのように、明奈が席に戻ってきて
「注文してもいいかしら? えっとー」と言いながらわざとだとしか思えない仕草で、水の入ったグラスをテーブルの上で横に倒してしまう。
冷たい水が梨恵の足元を濡らす。
「あ、ごめんなさい。大丈夫?」
「平気です、新しいのをお持ちしますね」
わざとだ、絶対。それでも梨恵はぐっ、と叫びたいのを堪えた。
新しいお冷やを持って行き、テーブルの上を拭いて注文を聞き取る。
カウンターにいる慧に伝えると「眉間にシワが寄ってる」と指摘される。
仕方ないのでなんとか作り笑いをする。すると、
「お前は、俺を笑いで窒息死させる気か?」と、慧は肩を震わせて笑いを堪えている。
人の気も知らないで! と梨恵は慧を睨みつけ、それから濡れた靴下を変えるため、奥に引っ込んで新しいのに履き替えた。
戻るとすぐに明奈から呼びつけられる。
「やっぱり注文変えていい?」
ふざけたことを言う。しかし、もちろんそんなことは口に出せない。
「聞いてきます」
案の定、もう作り始めていたのでそれは不可能だった。
「申し訳ありません、今からの変更は難しいです」
梨恵がそう答えると、
「つまんない店ねー」
(だったら他の店に行けばいいじゃない!!)
「そうしたら、もう一度ご来店になって、次回変更したかったメニューを召し上がるのはいかが?」と、秀美が助け船を出してくれた。
すると明奈は「そうします」とおとなしくなる。
少ないとはいえ他にもお客がいるので、同級生二人にばかり注目しているわけにはいかないが、見るとはなしに見ていると、二人は何か揉めている様子だった。
今まで見た感じでは静子の方が、姉御のように明奈の面倒を見ているようだったが、どうやらそうではなくて、明奈の方が身体の大きな静子を影から操っているようだ。そして逆らえない。
えてして身体の大きさに気の大きさも比例するものではない。
他のテーブルの食器を片付けていると、梨恵はまた明奈に呼びつけられた。
「お箸落としちゃった、拾ってもらえる? あと新しいもの持ってきて」
自分で拾えよ、と思いながら梨恵がしゃがんでテーブルの下の箸をつかんだ時。
頭に液体がこぼれてくる感触があった。
続いて黒いシミがぽつぽつと床に落ちていく。このにおいは、醤油だ。
テーブルの上の醤油さしを頭上にぶちまけられたのだ。
カーっ、と頭に血が昇る。手が震えた。
さすがの慧も秀美も、他の客達もしばらくは誰も声が出なかった。しかし梨恵は黙って立ち上がると、
「お洋服、汚れませんでしたか?」と笑顔を作った。
「……」
秀美が急いでタオルを持ってきて、梨恵の頭を拭いてくれた。
「ここはいいから、お風呂行ってらっしゃい」
その言葉に甘えて梨恵は裏口から階段を昇り、三階に上がった。
梨恵の姿が見えなくなったのを確認してから、慧はつかつかと明奈達のテーブルに歩み寄った。
そして明奈の腕を引っ張って立ち上がらせると一言、
「出ていけ」
「なんで? こっちはお客……」
「こっちにだって客を選ぶ権利があるんだ。もう二度と来るな」
突き飛ばすような勢いで明奈だけを追い出すと、慧はガラス扉を閉めた。残された静子はおろおろしている。
「わ、私は嫌だって言ったのに……逆らうと何されるかわからないから」
「あんたを責めるつもりはねぇよ。ただな、友達は選んだ方がいい。代金はいいから、今日は帰りな」
慧はため息をつきながら、そう言った。
静子は眼に涙を浮かべてごめんなさい、と走り去った。