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大人になるっていうことは

 その週の土曜日と日曜日は朝から晩まで働きづめだった。

 特に野菜の皮むきは、梨恵にとってきつい仕事だった。一度も包丁を持ったことのない彼女は、何度も指を切りそうになりながら、ひたすら野菜の皮をむくことに集中する。

 それが朝一番の仕事である。

 もう怪我もすっかり回復してきたのだから、そろそろホールで働かせてくれたっていいのに。

 顔はすっかり元通りなのだから。

 しかしそれを言うと慧は、

「雇い主の指示に従えないなら辞めてくれていい」と、相手にしてくれない。

 雇い主は正確にいうと慧の父親なのだが。

 野菜の皮むきが終わったら、ホールや玄関などの掃除をしなければならない。

 特に窓の水拭きは、最近気温が下がってきたので水が冷たくて仕方ない。手荒れを気にしながら梨恵はそれでも言われる通りに働いた。

 しかし。

 ふと、彼女はさくらの手が寒い季節、毎年ひどく荒れていることを思い出した。

 水仕事を終えてはハンドクリームを塗り、寝る時は手袋をしていた。

 ホール掃除の後に命じられたのはトイレの掃除。

 家でも学校でも、トイレの掃除などしたことがない。

 嫌そうな顔をしたら睨まれた。

 わかったわよ、やればいいんでしょ。やれば。

 誰も掃除しないトイレほど汚いものはない。そして店舗のトイレのように不特定多数の人物が利用する場所もやはり、こまめに掃除しなければ使えない。

 ふと梨恵は考えた。

 家のトイレが汚かったことが、今まで一度でもあっただろうか?

「そこ終わったら、家の風呂も掃除しといてくれないか?」

 通りがかりに慧が言う。

「家の風呂って……3階の?」

「他にねぇだろうが」

「なんで、そこまでしなきゃいけないの?! 慧ちゃんのお家のお風呂でしょ?」

「時給下げられたいか?」

 こういうの、なんて言うんだったかしら? たしか公私混同……。

 それでも梨恵は3階に上がり、今岡家の風呂場へ向かった。シャンプーのボトルに漂白剤でも詰めてやろうかと思った。

 やり直しさせられるぐらいなら、と梨恵は気合いを入れて風呂場全体を綺麗に洗った。


 それから一階に降りると、もう十一時でランチタイムが始まっていた。

 休日のランチタイムは戦場である。回転が速いので、次々とお客がやってくる。

 ちなみに毎週土日の昼間だけは、近所から手伝いの女性が来てくれる。注文を取って料理や飲み物を運ぶ。

 あたしだって、ああいうのがやりたい。

 次々と下げられてくる食器を洗いながら、梨恵は慧が何を考えているのか、何を教えようとしているのかを考えていた。

 なお今日の夜は、二階の広間でクラス会をやる団体での予約が入っている。

 宴会の予約が入るとさすがに家族三人だけではカバーしきれないので、この時だけ配膳と調理師の派遣スタッフとを呼ぶことにしている。

 ランチタイムが終われば今度は、広間のセッティングをしなければならない。

 まずは掃除機を掛け、それから膳と座布団を人数分並べる。

 板前達と派遣の調理師達は厨房で既に準備にかかっている。席を用意したら今度は、グラスと皿を用意して……いくらでも仕事はある。

 しかも、それをほとんど梨恵一人でしなければならない。

 誰かが見ている訳ではないので、いい加減に済ませることもできる。

 だが梨恵は後で文句を言われてやり直しをさせられるぐらいなら、と一生懸命取り組んだ。


 夕方七時になると、二階の広間で宴会が始まった。

 どこかの中学校の同窓会で、父親と同じぐらいの年代と思われる男女のグループが続々と小松屋に集まって来た。

 二階で宴会があっても一階も普通に営業している。

 その日ばかりは梨恵も、ホールに出ることを許された。

 ただし、と慧は何度もくどくど念を押して言った。

 嫌な客が来ても顔に出すな、笑顔を忘れるな。腹が立ったからといって、客に手を挙げたりしたら即刻クビ。

 何度も繰り返し言われて、梨恵はいっそ慧のことを殴りつけてやりたかった。

 が、かろうじて呑み込むと笑顔ではい、と答える。

「やればできるじゃねぇか」

 それにもイラついたが、あかんべーと慧の背中に向けて舌を出した。

「そういうことは人から見えないところでやれ」

 この人、後ろにも眼がついてるのかしら?

 それにしても……。

 ふと梨恵は慧を見ていて気がついた。

 彼は仕事をしている間、ずっと笑顔だということに。

 営業用もあるのだろうが、たぶん彼は、この仕事が好きなのだろう。

 そうでなければ働きながら学校へ行こうなんて考えないかもしれない。

 そう結論したらふと、疑問が沸いた。

 私、今まで何やってたんだろう?


 ドーナツショップの客は8割が女性で、変な客はまずいなかった。

 しかしこの店は老若男女様々な人間が訪れる。夜はアルコールも提供する。

 午後八時頃にもなると、酔客も出始める。

「お姉ちゃん、熱燗まだー?」

「はーい、ただいま」と答えて梨恵が熱燗を運んで行くと、明らかに酔っている赤い顔のサラリーマンらしき若い男がいきなり手を握ってきた。

「可愛いね、いくつ?」

「二十歳です」と嘘をつく。

「今日、仕事何時に終わるの? このあと二人だけでさぁ、別の場所で飲み直さない?」

 気がつくと男の手が腰に回され、隣に座らされていた。

「あの、困ります。仕事中なので」

「いいじゃん、相手してよ」肩を撫でられて全身に鳥肌が立つ。

 思わず手が出そうになったが、ぐっと我慢する。すると。

「お客さん、飲み過ぎですよ。うちはキャバクラじゃないのでね、女の子と飲みたかったら、この先にいい店がありますよ」

 カウンターから出てきた慧は男の手首をつかみ、梨恵を立ち上がらせた。

「ちなみにこの子十六なんで、下手したら買春容疑で捕まりますよ?」

「え、さっき二十歳って……」

 気まずそうに男は一万円札をテーブルに残してそそくさと店を出て行った。

「ありがとう、慧ちゃん」

「下手な嘘つくんじゃねぇよ、バカ」

 どうせあたしはバカですよ! と叫びたかったが、別のお客に呼ばれて呑み込んだ。

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