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時給750円ぐらい

私の時代の話ですが、広島県の学校で扱う古典の教科書はとにかく『平家物語』に力を入れていたような気がします。ま、地元ですもんね。

 梨恵が今日から『小松屋』で働かせてもらうことになったと、聡介は本人からではなく今岡慧から電話で聞いた。

 帰りが遅くなるから、責任を持って送り届けます。

 聡介が自分で迎えに行くと言うと、そこまで含めた待遇ですからと言われてしまった。

 今は特に大きな事件もないから早めに家に帰った。

 あの日、優作が別れを告げに梨恵に会いに来て以来、さくらはといえば普段と変わりない様子で過ごしている。

 あの子は自分の胸の内を決して表に出さない。

 本当は何を考え、どう思っているのかはわからない。学校ではどう過ごしているのだろうか? 優作とは毎日顔を合わせているだろうが、どんな様子だろう。

 こんな時、母親がいたらどんなに良かっただろう。

 自分では女の子の気持ちを理解することができない。

 さくらは既に眠りについている。

 居間で梨恵の帰宅を待ちながら、聡介は一人であれこれと考えていた。

 ピンポン、と玄関のチャイムが鳴る。

「こんばんは、遅くなってすみません」

 出迎えたのが聡介一人だったのが、慧には意外だったようだ。

 眠り込んだ梨恵を背中におんぶしている彼は、さくらはどうしたのかと視線を巡らしている。

「申し訳ない、重いでしょう」

 聡介は慧から娘を引き取ると、靴を脱がせて部屋に連れて行き、服のまま寝かせた。

「やはり、自分が迎えに行きます。毎晩こんなにしてもらっては……」

 どうもやっぱりこの少年に対しては敬語で話してしまう。

「いえ、高岡さんも夜勤の日があるでしょう? それに、お嬢さんはよく働いてくれますからね、これぐらいは」

「梨恵が……何かお役に立ってるんですか?」

 慧は苦笑すると「一度、ご自分の眼で確かめてみるといいですよ」と言い、それじゃ失礼します、と一礼して背中を向ける。

 しかし一歩踏み出して立ち止まり、急に振り返る。

「将棋がお好きだって聞きましたけど、本当ですか? 俺も、和泉彰彦先生に習った生徒の一人なんです」

「ああ、本当だよ」聡介は相好を崩す。

「じゃあ、ぜひ今度一局相手してくださいね」

 今まで慧の怒っている顔しか見たことがない聡介は、笑うと案外幼い顔になるんだなと初めて思った。



「……さん、中山さん」

 半分眠ったような目をしている隣席の女子生徒は、優作が先ほどから何度呼びかけても返事をしてくれない。何時まで夜更かしをしていたのだろうか。

「中山園子さん」

「は、はいっ!」フルネームで呼びかけると、ようやく反応してくれた。

「中山さん、今、話してもいいか?」

「……わ、私?」

 そう、と優作は頷き、そして

「さくらに伝えてくれないか? 今日の昼休憩、いつもの場所にいるから来て欲しいって」

 さくらの一番親しい友人は一瞬不思議そうな顔をしたが、何かおもしろそうだと思ったのだろう。ニヤリ、と頬を緩める。

「……合言葉は?」

「あ、合言葉? いや、特には……」

「任務了解! ミッション開始します」

 彼女の趣味が垣間見えた気がした。

 早速、少し離れた席にいるさくらのところへ向かってくれる。

 これで少し安心できる。

 梨恵とのことは精算できたが、優作はあの日以来さくらが一言も口をきいてくれないのをひどく気にしていた。

 言ってみればあの時、彼女を偽善者呼ばわりしてしまったのだから無理もない。

 ここ数日は挨拶さえしてくれなくなった。

 このままではいけない。

 いろいろと考えた末に優作は行動へ出た。

 直接話しかけても、相手にしてもらえないかもしれない。将を射んとすればまず馬を射よ、だ。

 昼の休憩時間、優作はいつものように屋上へ上がった。

 さくらはちゃんと来てくれるだろうか?

 今まで自分に告白してきた女の子達の気持ちが、今なら少し理解できる気がする。

 屋上のドアが開く音がした。

「祇園精舎の鐘の声」

 いきなりさくらの声で『平家物語』の冒頭が聞こえてきた。

「しょ、諸行無常の響きあり?」

「合言葉、これで良かったかしら」

「……ああ、まぁ」少しびっくりした。

「よく覚えてるのね、平家物語」

「アキ先生が、うちの親父もだけど歴史とか古典が大好きだったからな。将棋の他にもそんなことをたくさん教えてくれた」

 そう、とさくらは優作の隣に腰掛けた。

「ところで、私に何か用?」

 しょうもないノリに付き合っているぐらいだから機嫌は直ったのかと思っていたが、そう尋ねる口調には多少ならず棘がある。

 いつもの癖で組んでいた足をほどき、背筋をしゃんとのばし、優作はきちんと両手と両膝を揃えた。

「……こないだのこと、謝ろうと思って」

 一度そこで言葉を切る。反応はない。

「ごめん、何も知らないくせに偉そうなこと言って」

「偉そうなのはいつもじゃない」

「そう、いつも偉そう……って、それ本人の前で言うか?」

「そういうのノリツッコミっていうらしいよ。有村君、お笑い芸人になれるかもね」

 呼び方が以前のものに戻っている。そのことに気付いて切なくなってしまう。

 ちらっ、とさくらの横顔を伺う。

 まだ怒っているのか、それとも。

 彼女は今、何を考えているのだろう?

「俺が悪かった、許してくれ」

「許さない」

「さくら……」

「なーんてね、言ってみただけ」

「……」

「優作君のそういう顔、初めて見た。なんか得した気分だな」

 さくらは笑っている。

「俺のこと、もう怒ってないのか?」

 くすくすと声を立てて笑いながら、さくらは立ち上がる。フェンスの方へと歩いていきながら振り返り、

「いいわ、許してあげる。その代わり、お父さんが喜ぶからこれからも将棋の相手をしにきてよね。それから」

 ふと、頭上が暗くなる。優作が顔を上げると、さくらがすぐ眼の前にいる。

「これからも仲良しでいてね」

 差し出された右手を握り返しながら、優作はこのまま力を入れて引き寄せて、抱きしめたい衝動に駆られた。

 働き者の手だ。そう思った。


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