母親失格:1
母親の話になると、有村優作はいつも父親と口論してしまう。
特に命日が迫った時は。
お互いに譲らないので、広い家に二人きりで気まずい空気のまま過ごすことになる。
だから優作はそんな時無言で家を出て、船着き場の石段に腰をかけてじっと夜の瀬戸内海を見つめるのだ。
母親が亡くなってから二年。普段の門限は午後7時だが、この時ばかりは夜の8時を過ぎても外にいる。
去年もそうだった。
そして今年も、黙って隣に座って一緒に海を見ているのは、幼馴染みで親友の今岡慧。
この親友は余計なことは何も言わないし、何も聞かない。
ただ黙ってそばにいてくれる。
友人と呼べる相手は彼ぐらいだが、彼がいてくれれば上辺だけの付き合いをするような他の遊び友達など要らないと思える。
有村家は尾道市内の一部地域では知らない人間はいないと言える、古くは平清盛の時代から続くと言われる旧家である。
山林を始めとし、市内の数多くの土地を所有する大地主で、現在の当主の有村光太郎は陶芸家であり、主夫でもある。
その一人息子の優作は、現在高校入学を間近に控えた15歳の少年だ。
優作は幼い頃から頭がよく勉強のできる子だった。
小学校を卒業する時、担任から広島市内にある大学の付属中学へ進学するよう勧められたが、彼はそれを断って学区内の公立中学に進んだ。
何故なら父親が、尾道を離れたがらないからだ。
大学付属の中学校は遠く離れた広島市内にあり、とてもじゃないが通える距離ではない。
それに優作としては、別にどこの学校だろうと勉強するかしないかは自分次第だと考えている。
だから高校も尾道市内の、一番偏差値の高い公立高校を受験して合格した。
高校受験の際も広島市内、もしくはもっと遠い関西方面の有名な進学校を勧められたのだが、やはり尾道を離れることなど考えられなかった。
父親の有村光太郎は、生まれ育った町をこよなく愛していた。それゆえに、優作の母親である美津枝とのすれ違いが生じたのだった。
父の光太郎と母の美津枝の結婚は双方の親同士が決めた、家と家の縁組であった。
嫁入り前広島市内で暮らしていた母親は、海と山と坂道と神社や寺しかないこの町にあまり馴染めなかったようだ。
広島市内は戦後の復興著しく、高度経済成長期の波に乗って大きく発展した街である。
背の高い立派なビルがいくつも立ち並び、人口も当然県内一だ。
その市内から東へ約85Km離れたこの小さな街は、因習が強く、他所から入ってきた人間に対する人々の視線は厳しい。
それでも光太郎は温和で優しい人柄で、妻を大事にした。
美津枝も良い妻であろうと努力した。
二人は熱烈な恋愛の末に結ばれた訳ではなかったが、息子の優作も産まれて仲良く平和にやっていた。
それがなのに。ある日突然この街にやってきた、とある男が夫婦の間にくさびを打ち込んだのだった。
その男は飯田と名乗った。初めて有村家にやってきたのは優作が2歳の頃、ミシンを売る訪問販売が目的だった。
ちょうどその頃、有村家のミシンは壊れかけていたので、美津枝は男の話によく耳を傾けた。
彼女は結婚前洋裁を習っており、夫の作務衣や息子の服はすべて自分で手作りしていた。
手先が器用な彼女は近所の主婦にも教えを請われるほどの腕を持っている。
飯田はミシンを売る傍ら、玄関周りや廊下に飾ってあるタペストリー、レースで編まれた敷物などがすべて美津枝の作品であることを知ると、しきりに感嘆した。
そして、男は言いだした。
自分の作品を売り出す商売をしないか、と。
初め美津枝は、まさかそんなこと、と本気にしなかった。
裁縫はあくまで趣味の一環であり、ブランドを立ち上げて世の中に広めようなどと考えもしなかったのだが……。
飯田は熱心に有村家へ通い詰めた。
具体的な経営プラン、経営戦略、そして宣伝の仕方など、元々セールスマンである彼の巧みな弁論を聞いていると、不可能ではないような気になってきた。
やがて美津枝は実験的に、実家のある広島市内のある百貨店の一角で、自分の作品を売り出してみることにした。
するとこれが思いがけず大反響を呼び、ついに『MITSUe』という名のブランドを確立することになった。
それまでごく普通の主婦に過ぎなかった美津枝には、経営のことなど何一つわからない。
それをサポートし、『MITSUe』の副社長の座に収まったのが飯田である。
妻の趣味にも仕事にも理解を示した光太郎だったが、急に忙しくなって家のことも子育てもおろそかにし始めた彼女のことを次第に苦々しく思い始めた。
それまで家事も育児も、普通のサラリーマンではない光太郎は美津枝ときっちり分担していた。
陶芸家の仕事の傍ら、畑仕事もしつつ、優作の世話を妻と二人で行ってきた。
それが急に、いつも母親不在の家庭になってしまったのだ。
いつも母親が家にいないことを、優作はいつしか普通のことのように感じ始めていた。
やがて、夫婦の間に埋めることのできない溝が生じることになる。
初め『MITSUe』の事務所は尾道駅前の小さな貸しビル、それは有村家が所有するもので、ほぼ賃料無料で使用されていた。
しかし、会社が大きくなるにつれて従業員の数も増え、事務所を広島市内に移すことが決定した。
美津枝は光太郎に、家族で広島市内へ引っ越すよう要請した。しかし光太郎は尾道を離れないと答えた。
土地を守ること、家を守ること。
先祖からずっと受け継いできたものを手放したくはない。
だが、美津枝に言わせれば優作のためでもあるということだ。
ごく幼い頃から理解力が高く、知能指数を調べたところ高い数値を出した息子に、広島市内に住むならもっと良い教育を受けさせてやれるという。
仕事にかまけて、息子の面倒もろくに見ないくせにこんな時だけ母親面をするのかと、光太郎は恐らく人生で初めて大きな声を出した。
やがて、夫婦の話し合いは決裂。
美津枝だけが単身広島へ引っ越すことになった。そのことが決定したその時でも、戸籍上二人は夫婦のままだった。
『MITSUe』はその後も大きく発展し、優作が小学校に上がる頃ついには東京へ進出することが決定した。
今でも優作は忘れられないのだが、ある年の正月のことだ。
初めの頃美津枝はさすがに、盆と正月は尾道の光太郎の家に戻ってきていた。
しかし年々仕事が忙しい、と家に帰ることすらなくなっていた。
正月は親族一同が光太郎のもとに集まり、年に一度の親族会議を行う。光太郎もやはり一人息子で兄弟はいない。
その年の議題は美津枝をいつまでも嫁としていてよいのか、ということだった。
さっさと別れさせて、別の女性を妻にするべきだという意見もあれば、それでも優作の母親なのだから、尾道の家は親族の誰かに任せて、一緒に広島市へ移ればいいという意見もある。
光太郎はどの意見に対しても、首を縦に振ることはなかった。
優作本人としては、正直どうでも良かった。
父親は優しく良い手本だ。母親などいなくても別に困らない。
ところがその日親族の一人が爆弾発言を落とした。
美津枝は副社長の飯田と不倫している、というのだ。それもあり得ない話ではない、と誰もが考えた。
家族よりも長い時間を共に過ごし、会社の経営という共通の目的を持っている二人の間に、恋愛感情が産まれるのはごく自然なことかもしれない。ただ、それは二人ともが独身の立場であれば何も問題はない。
美津枝も飯田も、それぞれに家庭を持っている。
幼い優作はその会議に参加できなかったが、こっそりと様子を窺っている時に漏れてきた『不倫』と言う言葉を聞き取った。
意味はわからなかったが、母親が大きな声で人に言えないようなことをしているらしい、ということだけは汲み取った。
ただその時点で決定的な証拠はなく、今の段階では家庭裁判所に持ち込んだところで、光太郎に有利な審判は降りないだろうという結論で、その年の会議は終わった。
やがて成長し中学生1年生になった優作は夏休み中のある日、母親が広島市内に帰っているという話を聞いた。東京に進出したものの思うようには上手く行かなかったらしい。
白黒はっきりつけたい性格の彼は、父親と別れるなら別れる、そうでないなら尾道に戻るかのどちらかを選ぶよう、母親に言うつもりで広島市へ出かけた。
この時は優作一人で、父親には何も言わなかった。