行き詰まった末のこれ:2
それでも続きを投稿するのです。
聡介の職場に学校から電話がかかってきたのは初めてだ。
今日は当番なのでデスクで書類仕事をこなしていた聡介は、まさかさくらに何かあったのかと一瞬ヒヤリとしたが、備後南高と聞こえた途端、なんだ梨恵の方か、と安堵してしまった。
が、それも束の間のこと。娘さんが他の女子生徒との間で暴力を伴う喧嘩騒ぎを起こして怪我をした、と言われ、聡介は目の前が真っ暗になった。
どちらが被害者でどちらが加害者なのか。
ふらふらと立ち上がり、訝る同僚達からの問いかけに生返事をして彼は署を出た。
職員室では梨恵と、もう一人見知らぬ少女が並んで座っている。
特に梨恵の方はすっかり顔が腫れ上がって、最初は誰かわからなかった。
それから担任教師と、なぜか慧もその場に立っていた。
梨恵は黙っていたが、もう一人の子は泣きじゃくっている。
「お仕事中にお呼び立てしてすみません」と、担任教師。
「とんでもない、こちらこそ大変なご迷惑をかけて申し訳ありません」
聡介は深く頭を下げ、しばらく顔を上げることができなかった。
やっとのことで勧められた椅子に腰掛けると、
「俺にも原因があるんです、本当に申し訳ありません」と今度は慧が頭を下げた。
ちょっと苦手なこの少年に謝られ、何と返事したものか戸惑ってしまう。
そして、慧がすべての事情を話してくれた。ちなみに喧嘩の相手の保護者とは連絡がつかないため、ここには来ていないという。
「俺があの時、彼女と話を続けていればこんなことにはならなかったんです」
梨恵の人間性をよく知っていた上での判断ミスだ、と言いたいようだ。
「君が謝ることは何もない。むしろ迷惑をかけてすまなかった」
いえ、と短く答えて慧は唇を噛む。
「怖かった、殺されるかと思った……」とケンカ相手の少女は言った。
梨恵が何か言いかけたが、痛みで声にならなかったようだ。
「本当に申し訳なかったね」
二人とも肩や服の裾に靴跡がくっきりと残っている。手の甲や腕は引っかき傷だらけで、髪もひどく乱れていた。
ひょろりとした比較的まだ若い担任の男性教師は聡介に、
「とにかく、まずは病院へ連れて行った方がいいかと……」
「はい、そうします。その前に……梨恵。彼女に謝りなさい」
梨恵はしかし顔をそむけた。
聡介は娘の頭を無理やり抑えつけると、もう一度謝罪した。
「北川さんも、病院へ行った方がいい」
「はい……」担任に頷き、立ち上がろうとしてよろめいた明奈は慧にすがりつく。
「大丈夫?」
「……足が、痛くて……」
「先生、俺が病院まで彼女に付き添います」
「そうか、頼んだよ。今岡君」
なぜか娘が苦々しい顔をしているが、聡介には理由がわからなかった。
「梨恵、歩けるか?」
何か言ったようだが、まったく聞き取れなかった。
ほら、つかまりなさいと聡介は梨恵の肩に手を回した。
するとなぜか娘はそっぽを向いた。うっすらとだが、目に涙が浮かんでいるようにも見えた。
それから救急病院へ連れて行き、レントゲンを撮ってもらったところ、骨や内臓に異常はないとのことだ。
顔の腫れも時間が経てば引いて行くし、跡に残るようなことはないだろうと言われて一安心することができた。
診察室から出てきた梨恵は顔中に傷テープを張られ、腕も足も包帯が巻かれていた。
二人で会計を待っている間、聡介はため息交じりに言った。
「まったく……刑事の娘が傷害で逮捕なんて、笑い話にもならないぞ」
しかし所詮子供同士の喧嘩だし、まさか刑事事件にまでは発展しないだろうという楽観的な思いがあった。だいいち、明らかに梨恵の方が被害は大きい。
その現場を見ていた訳ではないが、ケンカの腕という意味では向こうの女の子の方が数段上手だったようだ。
外見だけなら、大人しそうな子に見えたのだが……。
「……悪いのは向こうよ」
やっとしゃべれるようになったようだが、かなり痛そうだ。
「何が殺されるかと思った、よ。首を絞められたのはこっちだわ」
確かに梨恵の首には指の跡がまだ残っていた。
「向こうの具合はどうなんだろうな? 骨が折れたりしてなきゃいいが」
相手の子は保護者に連絡がつかないと言っていた。普通の親なら、学校で子供に緊急事態が起きた時のための連絡先を教えておくものだろう。
あの女の子も複雑な家庭に暮らしているのかもしれない。
「しかし、お前は本当に奈津子そっくりだな」
ふと、今どこにいるのか、生きているかどうかすらわからない妻のことを聡介は思い出していた。
「一卵性双生児なのは、さくらとじゃなくて、奈津子とお前なんじゃないのか」
一時『一卵性親子』なる単語が流行っていた。仲の良すぎる母と娘がべったりくっついている様子を上手く表現している。
「あいつも気に入らないことがあるとよく物を投げつけてきたし、お父さんもよくひっぱたかれたもんだ」
今ではもう、奈津子のことは懐かしい思い出になりつつある。
「……それでも、好きだからお母さんと結婚したんでしょう?」
梨恵の問いかけに、そうだ、と即答できない自分がいた。
まさか、お前達ができたから仕方なかったんだとは言えない。
「そりゃ……もちろんだ」
「でもお母さんは、お父さんがお母さんと結婚したのは、お祖父ちゃんの力を借りて警察組織の中で出世したかったからだって言ってた……」
「……」
本音を言えばそれは事実だ。
それでもそれが事実だったとしても、それなりに妻への愛はあったはずだと思う。
ただ野心のためだけに、好きでもない女を抱けるほど聡介は冷徹な人間ではない。
「ねぇ……」梨恵はぽつりと言った。
「男の人って皆そうなの? 何が得することがないと、好きになってくれないの?」
「そんなこと……」
「優ちゃんは、梨恵をどうして彼女にしてくれたの? あたしと付き合って、何か得することがあったの?」
正直、聡介にはそれが一番理解に苦しむところだった。
「俺にはわからん……ごめんな、頼りにならない父親で」
ほんとだわ、と返事があった。今にも泣きだすのではないかと思っていたが、案外元気そうだ。
停学一週間。
学校が梨恵とケンカ相手の北川明奈に通告した処分はそれだった。
結局、向こうの保護者は何も言ってこなかった。
ひとまず担任教師と慧を仲介に、表面上は示談ということで片はついたそうだ。
当たり前だが学校にもアルバイトにも行けず、梨恵は家でずっと過ごす羽目になる。
朝から晩までテレビをつけっぱなしにして、何度も読み返したマンガを読んだり、気が向いたらゲームをプレイしたりして、まさにゴロゴロと日々を過ごしていた。
しかしそんな生活が楽しいのは最初の一日だけで、二日目からは既にストレスがたまり始めていた。さくらが何か話しかけても返事もせず、聡介が様子を見に来るとクッションを投げつける有様だ。
三日目には顔の腫れも引いてだいぶ元通りになってきた。
が、梨恵の苛立ちは日ごと募るばかりである。
怪我のことは絶対に優作に言うな、と言われている。
家に来るのも絶対に禁止。
さくらとしても言えるはずがなかった。
妹がクラスメートの女の子と殴り合いのケンカの末に、停学処分になったなどと。
学校を休んで四日目になると、ついに梨恵の不満が爆発した。
食事がおいしくない、洗濯物が畳まれていない、部屋が片付いていないと大騒ぎし、手当たり次第に物を投げつけだす始末である。聡介が叱ろうとすると、部屋に閉じこもって出て来ない。
学校では少し気が抜けるが、家の中は毎日が針のムシロのようだ。
妹のイライラに比例して、さくらもだんだんと憔悴していった。
「さくら」
授業が終わって、帰り支度を急いでいたさくらに優作が声を掛けた。
「ごめんね、急いでるの」
早く戻って食事の用意をし、部屋の掃除をして、風呂を沸かさなければ。そうしなければ家の中が滅茶苦茶になってしまう。
今日は父が非番で家にいるが、さくらがそれをやらなければ梨恵の気に入らないのだ。
「俺も一緒にお前の家に行く」
何も知らない彼は、今日お父さんが休みなら将棋をしに行こうとでも思っているのだろうか。
「悪いけど、ほんとにそれどころじゃないの」
「将棋じゃないんだ、梨恵に話がある」
「え……?」
「自転車の鍵を貸してくれ」と、優作は手を差し出す。
「ど、どうするの……?」
「俺が漕ぐから、お前は後ろに乗れ」
自転車の二人乗りは禁止されている。それでも、どこか思いつめたような真剣な顔をしている優作を見ていると、ダメとは言えなくなる。
「捕まりたくないから飛ばすぞ、つかまってろよ」
言うが早いか優作は、発電でもできそうな勢いで自転車を漕ぎ始めた。
始めサドルの端にちょこんと掴まっていたさくらは、そのスピードに驚いて、思わず優作の腰に手を回してしがみついた。
思っていたよりも広くて温かい背中に頬を寄せていると、胸の内のいろいろな不安や悲しい気持ちも少しだけ薄れて行く。
案外優作の顔をみたら、梨恵の機嫌も直るかもしれない。
しかしそれは、これから彼が梨恵に言おうとしていることを知らないさくらの、あまりにも楽観的すぎる淡い期待にすぎなかった。