たのしいお勉強会:3
初めて見る同級生の女の子の部屋。優作は眼だけを動かして全体を見回した。
あまり飾り気はないが、整頓されていて清潔感がある。
「綺麗にしてるんだな」
「でしょー?」
「ここ、お前のじゃなくてさくらの部屋だろう?」
「えっ、ち、違うよ……」
「あの壁に貼ってある時間割表、俺のクラスの時間割とまったく同じなんだが」
梨恵は何も言えなくなって黙る。
そして不意に優作は立ち上がり、部屋を出ていく。
「優ちゃん、どこ行くの?」
それには答えず、居間を通って台所へ。
逆さまになっていることに気づいてない新聞を読んでいるのか、ただ見つめているだけなのか、ダイニングの椅子に腰掛けている聡介に会釈し、優作はさくらに声をかけた。
「何か手伝う」
さくらはヤカンを火にかけ、お湯が沸くのを待っているところだった。
「あ、ありがとう。じゃあ、食器棚からカップを取ってもらえる?」
「これでいいのか?」
何を考えているのか知らないが、さくらは先ほどから顔が青くなったり赤くなったりと、ものすごく忙しい。
「……顔色」
「え?」
「さっきから赤くなったり青くなったり、まるで信号機みたいだな」
「……黄色くはなってないでしょ?」さくらは真面目な顔でそう答える。
優作は一瞬なんと返事をしていいのか悩んだ。
が、急におかしさがこみあげてきて、笑いを堪えるのに必死だった。
「何かおかしかったの?」
お湯が沸く。紅茶を淹れて、さくらは自分の部屋に二人分を届け、居間のダイニングテーブルに二人分のカップを並べる。
芳香が台所に広がる。
「じゃ、ごゆっくり」
さくらはなぜか父親の向かいに腰かけようとする。
「一緒に勉強するんじゃないのか?」
「え、あ……それは」
「さくら、彼の言う通りだよ」と彼女の父親が口を挟んだ。
残念ながら、彼はまだ新聞が逆さまなことに気づいてない。
優作はさくらの分のカップを持って、梨恵のいる部屋へ戻った。
さくらも部屋に入ってくると、なんで? という顔で梨恵が睨んでいるが、元々ここは彼女の部屋だ。
勉強するからしばらく話しかけないでくれ、と優作が言い、本当に参考書を広げたら黙らざるを得なくなったようだ。
大人しく梨恵は自分の部屋からマンガを持って来て広げた。
さくら達のクラスを受け持つ数学教師は、夏休みが明けてから病気で入院している。
なので、最近は他の教師が入れ替わり立ち替わりで授業を行っている。
中にはロクな説明もしないでいきなり黒板に問題を書き、解いてみろと生徒を指名する教師がいて、今日は何日だから出席番号何番、という調子だ。
明日その流れで行くと、自分が当たりそうな予感がする。
そこでさくらは授業で使う数学の問題集を開いた。元々理数系の苦手な彼女は、最初の例題からつまずいた。
しばらくあぁでもない、こうでもないとぶつぶつ呟いていたら、聞こえていたらしい。
「どれがわからないんだ、見せてみろ」と優作が言う。
これ、ここと問題のページを見せると、なんだ、こんなのがわからないのか、と言う顔をされたのが癪にさわったが、実際そう口に出してはいないので文句も言えない。
ちなみに和泉の場合なら、問題の読み方から解き方、解答にいたるまで丁寧に教えてくれたのだが、優作の場合は解き方まで説明して、後は自分でやってみろと放り出されてしまった。
一生懸命考えて、なんとか解答してみる。
「……これでいいのかな?」
のぞきこまれると、さっきよりもっと顔が近づく。
睫毛長いんだなー、とか余計なことを考えたりしてドキドキしてしまう。
「ま、いいんじゃないか?」
「なんでそんなに偉そうなの?」
「俺は頭がいいからな」
普通の感覚で聞いたら腹立つことこの上ない台詞だが、優作なりの冗談らしい。口元が笑っている。
さくらも声を出さずに笑って、次の問題に取りかかる。
なぜか梨恵の方が部屋から出てきた。
「……どうしたんだ?」
ふくれっ面の娘に聡介は声を掛けた。
梨恵は冷蔵庫からジュースを取りだしてコップに注ぐと、
「信じられない、二人で本当に勉強してるのよ」
「そりゃ……いいことじゃないか。というか、お前も勉強したらどうだ」
「嫌よ」即答だった。
「だったら我慢することだな。しかし……二人きりにするのは……」
狭い家だし、妙なことがあれば気付かない訳はないのだが、何しろドアが閉まっているので不安は拭えない。
「真面目に勉強してるから心配いらないんじゃない?」と梨恵は言うが聡介は、何の『勉強』を始めるかわからないじゃないか、と言いかけてやめた。
職場でならまだしも、娘の前で口にするにはあまりにも品位に欠けた冗談だ。
そしてふと思った。
実はあの少年、さくらの方が目当てなのでは……?
不意にドアが開いて、優作が紅茶のカップを手に部屋から出てきた。
居間に背中を向け、一生懸命ノートに何かを書き込んでいるさくらの姿が見える。
「お茶、ご馳走さまでした」
「ああ、はい……おかわりは?」
「いただきます。おいしい紅茶ですね」
「わかるかい? 紅茶にはこだわっているんだよ」
気分を良くした聡介は、自ら立ち上がり優作の持っているカップに紅茶を注いだ。
それから優作はまた部屋に戻り、ドアを全開にしてストッパーをかけた。それからにっこり笑うと、
「ドア、開けておきますね。見られて困るようなことは何一つありませんから」
さっきの梨恵との会話を聞かれていたようだ。
気まずい……。
一刻も早く和泉が来てくれることを聡介は祈った。
その後、
「こんにちは~」
と、約束通り和泉がやってきたのは午後5時半過ぎであった。
「遅かったじゃないか!!」
聡介は、思わず和泉に抱きつきたい気持ちを堪えた。
「……定時ですぐに出て来ましたけど?」
はいこれ、と彼は菓子折りを差し出す。
「で、例の彼氏はどこです?」
聡介は顎で娘の部屋を指し示した。
すると開けっ広げな部屋の中に見つけた少年の顔を一目見るなり、和泉は
「あっ?!」と、【この顔見たら110番】のような声を出した。
「ど、どうしたんだ?」
「君、もしかして、優君? 有村優作君じゃないか?!」
いきなり名前を呼ばれて驚いた優作だったが、和泉の顔を見ると、
「……アキ先生?……」
「やっぱりそうだ、優君! すっかり大きくなったね!!」
和泉は優作に近づくと、懐かしそうに肩に触れた。
「先生……久しぶり。全然変わってないね」
「梨恵ちゃんの彼って、君のことだったのか」
どうやら知り合い同士の様子だ。
娘達もいきなりの展開に戸惑った表情をしている。しかし二人ともそんなことはおかまいなしに、久しぶりの再会を喜んでいた。