たのしいお勉強会:1
いつになく優作の表情が暗い。
普段の彼なら眉間に皺を寄せ、近寄らば斬るぐらいの不機嫌オーラ全開なのだが、すっかり塞ぎこんで、朝からずっと俯いている。
「ねぇねぇ、さくらちゃん」
昼の休憩時間。いつもの顔ぶれの女子生徒達と弁当を広げていたさくらは、園子に腕をつつかれた。
「有村君、今日はどうしたのかしらね? なんかものすごく暗くない?」
実は、さくらも朝からずっと気になっていた。
「さぁ……」
「失恋でもしたのかしらね?」
「まさか!」と、思わずさくらは大きな声で言ってしまって口を押さえた。
梨恵の方がとにかく優作に好意を寄せているのだ。
しかし考えてみれば、梨恵も始業式の日の夜からずっと様子がおかしかった。
何かあったのか尋ねても「何でもない」との返事ばかり。
「ちょっと気になるよね。別に私、有村君のファンじゃないけど。あの傲岸不遜なお殿様男子が、いったい何に落ち込むっていうのかしら?」
お殿様男子、とは初めて聞く言葉だが、クラスの女子達は彼のことをそんな風に呼んでいるらしい。
「ねぇ、さくらちゃん聞いてみてよ。仲良しでしょ?」
「……私……?」
「このクラスで唯一、有村君としゃべれるのってさくらちゃんだけじゃない」
そうだっただろうか?
しかし、今この場で優作に声を掛けるのは躊躇われた。
それにあの登校日の一件以来、どんな顔をして彼と話せばいいのかわからなかった。
話をするチャンスがあればね、とさくらは適当にごまかした。ところが。
「高岡、何があったのかお前から有村に聞いてくれないか。授業中もぼんやりしてるし、こんなこと今までなかったからな」
担任教師による日本史の授業が終わった5時間目、さくらは教師に呼びつけられ、今日は一日有村の様子がおかしかったから、何があったのか聞いてくれないかと言われた。
嫌とは言えない。一応了承してさくらは放課後を待った。
優作は帰りのホームルームが終わると、さっさと教室を出て行く。
二学期からクラス委員長は他の生徒に変わったので、授業が終わると部活をしていない彼はすぐに教室から姿を消す。
「待って、優作君!」
さくらが呼び止めると、優作は意外そうな顔で振り返った。
「今日の『つるや』のお得情報、知りたくない?」
努めて明るく、冗談めかしてさくらは言った。
「……別に、いい」
そう答える声にも元気がない。それから再び歩き出す。
「お願い、待って」
さくらは思わず優作の制服の袖を掴んだ。
「何かあったの? 朝からずっと元気ないでしょ」
「……そう聞いてくれって、誰に頼まれたんだ?」
「私が、心配してるの!」
それは本気だった。
すると優作は片頬を歪めて、
「俺の心配なんかしなくていいだろ。大事な彼氏の心配でもしてたらどうだ」
「何言ってるの? そんな人いないわ」
「え……?」
「そんなことより、始業式の日からあなたも梨恵も何か様子が変よ。もしかして二人揃って、今岡君に何か叱られたんじゃないの?」
優作の表情を見ていて、どうやら図星のようだ、とさくらは思った。
「慧の言うことはいつも……間違っていない。だから俺は……」
「今岡君って、ほんとすごいよね。うちのお父さんも叱られたことあるもの」
「……ほんとか?」
「本当だって。あの人、私達より一つだけ年上なんて絶対嘘でしょ。大人すぎるわ」
「それ、絶対本人の前では言うなよ?」
「やっぱり、言わない方がいいわよね……」
そうして二人は顔を見合わせてふっ、と笑いだした。
話しているうちに不思議と、胸の内にあった様々な黒い雲のようなつかえが晴れてきた。
優作が笑ってくれた。さくらにはそれが嬉しかった。
結局詳しいことは教えてくれなかったが、少しは元気が出たようだ。
その日はお互い笑顔で別れた。
そして、その夜のこと。
「……最近、梨恵は例の彼と上手く行ってないのか?」
聡介と二人で夕飯を食べていたさくらは、急な父親の問いかけに箸を止めた。
今日も梨恵は遅くまでアルバイトの予定を入れていて、まだ帰宅していない。
「どうして、そんなこと聞くの?」
「だってな、冷蔵庫の梨恵の分のチーズケーキが手つかずで残ってる」
「……食べちゃだめよ、お父さん? 今より血糖値上げたいの?」
聡介と梨恵は食べ物の好みが似ている。なのでさくらは楽だ。
特に二人ともチーズケーキには目がなく、冷蔵庫に置いてあるとすぐになくなってしまう。
ちなみに去年の健康診断で糖尿病予備軍だと脅された聡介だが、甘い物だけはどうしてもやめられないようだ。
「あいつがチーズケーキに手をつけないなんて、きっと何かあったに違いない。そう言えば、最近あまり顔色も良くないな」
「何か知らないけど、今岡君に叱られるようなことしたみたいよ」
「今岡君? あぁ、小松屋の……」
聡介はとびっきり熱いお茶を一気に飲み下したような顔をした。
「あ、でもそう言えば……夏休み中に二回ほど会ってからあと、会ったっていう話を聞かないわね」
いつもの、というより梨恵の性格からして、それ以降も優作と会ったのなら自慢げに吹聴することだろう。
明日はデートだとか、電話でこんな話をした、とか聞いてもいない話をしてくるくせに。
もしかして夏休みが明けてから、一度も会っていないのではないだろうか?
「それでいいんじゃないのか?」と聡介。「学生の本分は勉強だからな。新学期も始まったことだし、色恋沙汰にかまけて成績が落ちたなんてことになれば、親はさぞかし嘆くだろう。その彼はなかなか、賢い子みたいだな」
親の立場であればそういう結論になるだろう。
しかし、梨恵の方は納得いかないはずだ。
今は大人しくしているようだが、そのうち不満が爆発した時何をしでかすかわからない。さくらがそう言うと、
「……そうだなぁ、確かにな……」
聡介は深くため息をついて天井を仰ぐと、
「さくら、お前確かその彼と同じクラスだったよな?」
「うん、そうよ」
「一緒に勉強しようよって、家に連れて来たらどうだ。ま、梨恵にしたら二人だけで会えないのは気に入らないかもしれんが、その方がお父さんも安心だしな」
思いがけない提案に、さくらは穴があくほど聡介の顔を見つめた。
「ま、その彼が来てくれるって言うんならな」そんなに見つめるな、と父は顔を赤らめて立ち上がり、流し台に食器を下ろした。
その後帰宅した梨恵に、さくらはそのことを話してみた。
すると、
「ほんとに?! 優ちゃん来てくれるの?」
ぱっ、と顔が明るくなった。
「まだ分からないわよ、有村君に聞いてみないと」
「……来てくれるといいな。だって、夏休み明けてからずっと会えてないんだよ? 電話もするなって……」
「そうだったの?」少しも知らなかった。
「さくら、絶対優ちゃんを連れて来てね! 絶対だよ!?」
そうならなければただじゃおかない、と言外に匂わせる言い方だった。
(なんで、私がこんな目に遭わないといけないのかしら……)
一番ため息をつきたいのは、さくらだった。