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始業式の前の日

 長いようで短い夏休みは終わり、新学期が始まった。

 久しぶりに会うクラスメート達は日焼けしていたり、髪型を変えたりといろいろな変化があった。

「さくらちゃん、久しぶりね!」自分の席に向かう途中で、さくらは中山園子に呼び止められた。

 彼女は長かったストレートの髪をボブカットに変えていた。

「髪、切ったんだね。可愛い」

「ありがとう、ねぇねぇところで……夏の間に、例の彼とどこまでいったの?」

 このこの、と肘でさくらの脇をつつきながら園子は問う。

「鞆の浦に連れて行ってもらったよ?」

「いや、そういう意味じゃなくてね……鞆の浦って、また随分渋いわねぇ」

「歴史が好きなんだって」

 さくらとしては別に和泉と『付き合っている』という自覚はない。しかし、園子が言う彼とは、和泉のことに他ならないだろうと思って答えているだけだ。

「ちなみに、秋のお勧めデートコースは福山のバラ園よ! 大輪の薔薇の前で、夕日をバックに……キャー、ロマンチック!!」

 福山にバラ園があることすら、さくらは知らなかった。

 バラの花は好きだから行ってみたいとは思う。和泉に言えば、多少無理をしてでも連れて行ってくれるだろう。

「座りたいんだが、どいてくれないか」

 低い声が聞こえて、さくらと園子は慌ててその場から離れた。優作だった。

 園子の席は優作のすぐ隣だ。

「ごめんなさい、それとおはよう」さくらが声をかけると、あぁ、とだけ答えて着席する。

 すると園子はさくらの腕を掴んでひっぱり、教室の隅へ連れて行くと

「……彼女ができて、少しご機嫌かと思ったら相変わらずねぇ、あの人」ひそひそと耳打ちする。

「え……園子ちゃん、どうして知ってるの?」

「見たのよ、私。有村君ってさくらちゃんの妹さんと付き合ってるんでしょ? 二人で福山へ行ってたの見かけたんだ」

「……そうみたいね」

「ねぇ、どっちから告白したの? ……っていうよりも、本当に付き合ってるの?」

「どうして?」

「なんか、二人の様子を見てたら彼氏と彼女っていうより、上司と部下っていうか、織田信長と豊臣秀吉みたいで」

 どういう例えだろう? と思ったが何となく理解できた。

「有村君、一人でさっさと歩いてるし、妹さんの方が後を必死でついて行ってる感じだったなぁ。ジャイアンとスネ夫と言った方がわかりやすいかしら」

 思わずさくらは吹き出してしまった。

 その光景がありありと思い浮かぶ。

 梨恵には悪いと思いながら、彼女は自分の中ですーっと溜飲が下がるのを感じた。

 自分の思うようにならない状況に、あの梨恵が甘んじているということはよほど優作のことが好きなのか。

 その時、教室に担任教師が入ってきてさくらの思考は中断された。



 しばらく会わない、という連絡が優作から梨恵に入ったのは、9月1日の夜だった。

 家に電話がかかってきて『勉強に集中したいから』と言う理由で、会うのはもちろん電話もしてくるなと一方的に通告された。

「どうして、嫌だよそんなの!」

『だから、俺は忙しいんだ』

「わかってるよ、でも……電話ぐらいいいじゃない」

『とにかく切るぞ』

「待って! ……ねぇ、優ちゃん。一つ聞いてもいい?」

 了承の意味の沈黙。

「あたし達って、付き合ってるんだよね? 優ちゃん……梨恵のこと、好き?」

 本当は電話などではなく、会って話したかった。

 顔を見て、彼の気持ちを確かめたかったのに。

『……嫌いだったら、付き合ったりしない』

 それだけの返事があって電話は切れた。

 さすがの梨恵も、優作に嫌われるのは避けたかったので言う通りにした。

 アルバイトのシフトを今までよりも増やし、働くことに忙しくして気を紛らすことにする。

 ところでその翌日、学校で慧に会った梨恵は、どことなくいつもの明るい空気が彼にないのが気になった。

「どうしたの? 慧ちゃん。元気ないね」

「……あぁ、ちょっとな」

「何よ、お母さんに叱られた?」

「そんなんじゃねぇよ……優作のバカが……っ」口にしてから、しまったと慧は手で口を押さえた。

「優ちゃんがどうしたの? ねぇ、慧ちゃん!」

 慧ちゃんってば、と手を掴んで揺すっていた時、担任教師が慧を呼びに来た。

 中途半端なところで話が途切れてしまって、梨恵は消化不良気味な気分だ。

 その時、背後から「高岡さん」と声を掛けられた。

 振り返ると同じクラスの、少し年上と思われる女子生徒と、同い年と思われる女子生徒のコンビが梨恵の後ろに立っていた。

 今まで一度も話をしたことすらない彼女達が、いったい何の用だろう?

「ちょっと聞きたいんだけど……高岡さんて今岡君と付き合ってるの?」

 年上の方が挑戦的な目つきで聞いてきた。

「違うわ。私、他にちゃんと彼氏がいるもの」

 すると同い年の方が、ほっとした表情を見せた。

「良かったね、明奈。ほら、頑張れ!」

 あまり人の気持ちを斟酌するのが得意ではない梨恵でさえ、すぐにピンときた。

 友達に支えてもらわなければまともに人と口もきけず、いつもウジウジと悩んでいそうなこの大人しそうな少女は、慧に片想いしているに違いない。

 慧はいつも明るく気さくで、誰に対しても優しい。

 いろんな年代、いろんな事情のある生徒が集まるこの学校の、このクラスの中でも、気が付けばいつも中心にいて、皆から慕われている。

 こんな風に、慧の彼女になりたいと思う女の子がいるのは当然だろう。

 しかしそんなことは梨恵にとってどうでもいい。

 デートは無理だとしても、せめて週に1度でも優作に会うことはできないだろうか。

 こんな時、同じ学校だったら……と強く思う。

 もしお母さんがいてくれたら、こんな時なんてアドバイスしてくれただろう? そう考えたら涙が滲んだ。


 

 幼い頃からくだらないことがきっかけでケンカすることはたまにあったが、3日と置かずどちらからともなく折れていつもの二人に戻っている。

 それが優作と慧の関係だった。

 実際夏休み中、海釣りに出かけて口げんかした後の日も、2日後には何事もなかったかのような顔で優作は小松屋へやってきた。

 慧もわだかまりを捨て、普段通りに接することにした。あの報告を聞くまでは。

 まだ開店前の準備時間。慧は厨房で下ごしらえをしており、優作はカウンターの一番隅に腰掛け、親友の仕事ぶりを眺めている。

 ところがある瞬間、前触れもなくいきなり

「俺、梨恵と付き合うことにした」と優作が言い出した。

 また『バカか? お前は!』と口にしそうになって、慧は言葉を呑み込んだ。

 だから何だ? おめでとう、とでも言って欲しいのか?

 それとも、やめておけとでも?

 口にしていいのかどうかを胸の内で懸命に選別しながら、やっと出てきた台詞は

「……そうか」

「それだけか?」

「他に何を言って欲しいんだ?」

「いや、別に……ただ、一応報告しておこうと思って」

「ああ、そうかい。別に俺にそんなこと知らせてくれなくたって、余計なご親切だっていうんだよ」

「何だよその言い方」

「俺は今、仕事中なんだ。どうでもいいことで手を止めさるんじゃねぇよ」

 先日よりも、もっと険悪なムードが流れた。

 慧の父親が手を挙げるより早く、秀美が盆で息子の頭を叩いた。

「二人とも、いい加減にしなさい! 慧、あんたはもう今日はお店に出なくていい!! 優作君も、もう帰りなさい」

 言われるまま優作は店を出て行き、慧は厨房を追い立てられ自分の部屋に戻った。

 仲直りしたくてやって来たのではなかったのか、とそのこともがっかりしたが、優作がそこまで子供じみた真似をするのが意外にも思えた。

 もちろん慧は優作の気持ちをすべて読める訳ではないが、ごく幼い頃からの長い付き合いで、とにかく負けず嫌いなこのお坊ちゃまが自暴自棄に陥っているのは確実だ。

 さくらに他の男がいるらしい、という不安に加えて、一番頼りにしていた慧があまり親身になって相談に乗ってくれなかったのがショックだったのだろう。

 だったら自分だって……と、いう思考の末に。

 夏休みの残りは結局一度も会わず、連絡も取らないまま8月最後の週を迎えた。

 このままでは気分が晴れない。8月31日、慧は意を決して優作の家を訪ねた。

 これが功を奏して、しばらくはいつもの仲良しな二人に戻れた。

 ところが翌日始業式の9月1日。

 学校は午前中で終わり、その帰り道に優作は小松屋へ寄った。

 その日は店ではなく、暗黙の内に自宅の方で二人は話をした。

 また以前のようにケンカになったら、今度は何で殴られるかわからない。

 しばらく梨恵には会わない、何を聞かれても黙っていてくれ、と優作は言いだした。

 なぜかと言うと、2回ほど一緒に出掛けてみたが、梨恵とはどうにも気が合わないことがよくわかったからだ、と。

 付き合う前からそんなことは分かっていたはずだ。

 それに、今は勉強することに集中したいから、恋愛は脇に置いておきたい。

 そして慧はとうとう、禁句にしていたことを口に出してしまった。

「お前、母親そっくりだな」

 すっ、と優作の顔から血の気が引く。

「お父さんから聞いたって言ってたよな、お母さんはお父さんにあまり愛されていないって気付いて寂しくて、事業にのめり込んで、お父さんの気を引きたくて、挙句の果てに他所に男を作ったんだって。今お前がやってることは、それとどう違うんだ?」

「……」

 優作が母親のことを悪く言うたび、父親があれほど怒るのには理由があった。

 その話を聞いたのは高校に入学したばかりの頃だ。

 家同士が決めた結婚に、父親は必ずしも納得して同意した訳ではなかった。心がそこになかったのである。

 敏感にそれを感じ取った母親は、優作という子宝に恵まれてもあまり気持ちは満たされなかった。

 母美津枝は少なくとも、父光太郎を心底愛していた。

 しかし光太郎は、美津枝ほどにはそこまで妻を愛することができなかった。

 彼女の心の隙間に入り込んだ『商売』と『他所の男』という誘惑は、すべて自分が招いたことだと父は言った。

 優作が美津枝を恨むのは当然だし、母親として失格だとも思う。

 だけど、そうやって息子が母親に対して不敬に振る舞うのを叱る自分は、そうすることで妻に対する罪の意識から逃れ、免罪符としているのだ。たぶん。

「お前と梨恵も、似た者同士だな」

 自分中心で、あまり他人の気持ちは考えないで、その時の自分にとって最善だと思う選択をする。

 有村優作とは、本来こんな人間だっただろうか? ふと慧は疑問に思った。

 それとも恋愛感情が彼の理性や、思考力を鈍らせるのかもしれない。

「今のお前に、あの出来た梨恵のお姉さんは……さくらさんは似合わない。他の男と付き合ってた方が、幸せなんじゃないのか」

 最後の一言は余計だったと反省したが、一度口に出してしまった言葉は元に戻せない。

「まぁ、梨恵には黙っておいてやるよ。俺も、もうお前のことなんか知らない。進学に向けてせいぜいお勉強頑張ってくれよ」

 優作が女の子だったら確実に泣いていただろう。

 実際、彼は今にも泣き出しそうな顔をして、ふらふらと帰って行った。

 キツいことを言い過ぎたかと思ったが、その場しのぎの生半可なことを言っても仕方がない。

 慧は深いため息をついてから、厨房に戻った。


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