私も人、だから……
翌朝、さくらはいつものように起き上がると父親の弁当を用意して送り出してから、洗濯機を回す。
雑巾がけをして掃除機をかけて、朝食の支度をする。
おはよー、と興奮して眠れなかったのだろう、あくびをしながら梨恵が起きてきた。
「おはよう、何時に約束してるの? 遅れたりしない?」
一晩眠ると夕べのことは忘れ、いつも通りに振る舞えた。
自分でも驚いている。
「ねぇ、やっぱりあれこれ悩んだけどワンピースよねー、さくら、なんか可愛いの貸してくれない?」
梨恵は普段からほとんどスカートははかない。いつもジーパンやハーフパンツで、さくらの好きなレースやリボンには縁遠い。
それでもこんな時にはやはり、女性ならではの格好がしたいようだ。
適当に洋服ダンスを見てみたら? と、答えるとそこで梨恵が目を付けたのは先日買ってもらった青いワンピースだった。
「これがいい、これ貸して!」
それは先日和泉と一緒に出かけた時に着ていったものだ。
気に入っていたので少し躊躇したが、
「……いいけど、汚さないでよ?」
約束は午前10時に駅前だと言っていた。
「ねぇ、私、変じゃない? ちゃんとしてる?」
何度も鏡を見なおしては、梨恵はさくらに問いかける。
「大丈夫、可愛いわよ。それよりも、早くしないと遅れるんじゃないの?」
「ほんとだ!じゃ、行ってくる! ……今夜は帰ってこないかもしれない、なんてね」
そして元気に梨恵は出かけていった。
帰ってきたらどんな話を聞かされるのだろう?
さくらは憂鬱な気持ちでその日を過ごした。
しかし、思っていた以上に早く帰宅した梨恵の顔色は冴えない。
ただいま……と、同時にはぁ~と深いため息をつく。
「早かったのね」
正直、ほっとしていた。夜になっても帰らないなんていうことがあったらと、いろいろな意味で心配していたからだ。
「だって、優ちゃんたら、どこに連れて行ってくれたと思う?! 図書館よ、図書館! 無言でずーっと本読んでるの」
図書館でおしゃべりをする人間はいないだろうな、と思いながらさくらは聞いていた。
「あたしも最初は雑誌やなんか読んでたけど、その内耐えられなくなって……外に出ようよって言ったんだけど、そしたらすごい怖い顔されたし」
それは梨恵にとっては確かに苦痛の時間だっただろう。
幼い頃から彼女は本を読むことが好きではなかった。それにしても、いかにも優作らしい。
「今度はあたしがデートプラン考えないとね。見たい映画があるんだー」
懲りてないというのか、優作のことを全然わかっていないのだ。
基本的に梨恵は常に自分が中心で、自分がしたいこと、楽しいこと、嬉しいことしか考えられない。そこまで徹底できると逆に賞賛に値するぐらいだが、優作はそんなわがままな女の子に惹かれるのだろうか。
自分も、どこまでも身勝手に振る舞えたら、彼に愛されるのだろうか? できるわけがないと、自分の中で結論してさくらは苦笑した。
「あ、そういえばこのワンピース評判悪かったわ。もう着ない」
そう言うと梨恵はさっさとワンピースを脱いで、洗濯物を入れるカゴに放りこんだ。
ありがとうの一言もないのか、と腹立たしいのと同時に不思議だった。
優作は青色が嫌いなのだろうか?
夏休みはまだもう少し残っている。
でも学校が始まれば、思うように優作と会えない。梨恵も必死だ。今日は隣の福山市まで足を伸ばして映画を見に行く。
その日梨恵は優作の反応が見てみたくて、午前10時に尾道駅で待ち合わせの約束だったのだが、わざと5分ほど遅れて到着した。
こんな時テレビドラマや少女漫画のパターンなら、少し遅れたヒロインに対して相手の男性は、今来たばかりだよとにっこり笑ってくれるはずなのだが、優作の反応は予想とは大きく異なっていた。
「優ちゃん、お待たせ!」
「……」基本的にいつも不機嫌そうな顔をしている彼だが、その時はまるで仇敵にでも出会ったかのような怖い顔で睨まれた。
「……何よ、ちょっと遅れただけじゃない」
思わず梨恵はひるんで後ずさった。
「時間が守れないなら、約束なんかするな」
「そんなに怒らなくたって……」
「他に言うべきことがあるんじゃないのか?」
「……遅れて、ごめんなさい……」
すると優作はぷい、と背中を向けさっさと券売機に向かって歩き出す。
待ってよ、と慌てて梨恵も後をついて行く。
東京の電車と違って山陽本線は一時間に三本ぐらいのダイヤしかない。
二人が岡山方面行きのホームに到着した時、ちょうど電車が発車してしまったという、最悪のタイミングだった。
気まずい空気が流れる。
しかし根が楽天的な梨恵は、次の電車が到着して乗り込むと、さっきのことはすっかり忘れてしゃべりだした。
聞いているのか聞いていないのか、優作はずっと車窓から外を眺めている。
福山駅を降りて少し歩くと、デパートやショッピングセンターが並んでおり、その周りを商店街が囲んでいる。映画館は商店街の一画にある。
梨恵が見たかった映画は既に上演中で、次の回までだいぶ時間がある。
チケットだけ先に購入し、しばらく街中を歩くことにした。
夏休み中だからか、自分達と同じぐらいの年齢の少年少女がたくさん歩いている。中には母親と二人で歩いている少女もいた。
かつて、夏休みと言えば梨恵も母親と二人で一緒によく福山へ来た。おしゃべりをしながらいろんな店を見て回って、楽しかった思い出がよみがえり、思わず涙ぐんだ。
ふと、梨恵は数メートル先に『MITSUe』の店を見つけて立ち止まった。
「あ、ねぇ優ちゃん。ちょっと待って」
面倒くさそうに立ち止まった優作は、所在なさげにポケットに手を突っ込んでなんとなく周りを見回す。
「あのお店、見てもいい? うちのお母さん、大好きなんだよね。うちのテーブルクロスとかクッションのカバーとか、全部あのお店ので揃えたぐらいなんだ」
「……どの店だ?」
「あそこ、『MITSUe』ってあるでしょ?」
その途端、優作の顔色が変わった。
「ダメだ」
「え~、どうして? いいじゃない」
「ダメなものはダメだ」取り付く島もない言い方だった。
訳がわからない。梨恵は頬を膨らませて、
「どうしてダメなの?! 理由を言ってよ」
「……お前には関係ない」
「何それ、意味わかんないよ」
「俺の言うことが聞けないんだったら、もういい。俺は帰る」
言い残し、すたすたと歩き出す。
いや! と、叫んで梨恵は優作の腕にすがりつく。
「別に、あのお店行かなくていいから……」
今、優作にへそを曲げられて一人で置いて行かれるのと、店の商品を見て回りたいという欲求を天秤にかけたら、やはり前者の方が勝った。
それにしても、何が彼をそうさせるのだろう?
考えても分からないことはさっさと考えるのをやめて、気持ちを切り替えるのが高岡梨恵の長所といえば長所だった。
しかし……と思う。これがもし慧だったら?
待ち合わせに遅れて行ったら怒るだろうし、厳しいこともいろいろ言うだろう。が、一度謝ってしまえば、すぐに許して笑ってくれるだろう。自分の興味がない店を梨恵が見て回りたいと言っても、仕方ないとかなんとか言って了承してくれるだろう。
(優ちゃんて……あんまり優しくないかも)
今日が二度目のデートのはずだが、帰って来た梨恵は一度目の時よりももっと疲れた顔をしていた。
やけ気味にポシェットを床に投げ落すと、ドカっと居間のソファーに腰掛ける。
「……どうしたの?」
楽しくなかったのだろうか? さくらは妹の顔を覗き込んだ。
「優ちゃんてさ……案外冷たいよね」
あの後、映画を見て食事して帰ってきたのだが、優作といえば映画の間はほとんど眠っていたし、何を話しかけてもあぁ、とかうん、しか言わないし、まるで会話にならない。
さすがの梨恵も段々と苛立ってきて最終的には二人とも黙り込んだ。
「どうして?」
しかし梨恵は、なんとなく答える気がしなかった。
「ゆ……有村君は、優しい人よ」優作君、と言いかけて言い直す。
じろり、と姉を睨むと、
「今度は、どこ行こうかな」
梨恵は立ち上がり、自分の部屋に引っ込んだ。