妻の裏切り:2
家の方で何かあったな。
聡介は直感でそう思った。
さくらが職場に電話をしてくることなど滅多にない。それも緊急を要する用件でもないのに。
あの子は昔から人一倍、他人のことばかり気にかけている。きっといろいろ話したいことがあるだろうに、父親が疲れているだろうからと話すのを躊躇ったのだ。
かけ直してみようか、聡介が受話器を持ち上げた時だ。
緊急の召集がかかる。
連続婦女暴行殺人事件のホンボシである容疑者が動きを見せたということだ。今度こそ間違いない。
刑事達は全員立ち上がる。
今度こそ、これで終わりだ。
そうして容疑者は無事に逮捕、検挙に至った。
解放感に浸りつつ、聡介は残務処理を後回しにして、その日の夜は早めに家に戻った。
そしてその夜、家に帰るといつもと様子が違っていた。
聡介の顔を見るといつも眉間に皺を寄せる妻の奈津子が、何があったのか、笑顔で出迎えてくれた。ひどく機嫌がいい。
いったい何があったというのだろう?
さくら、と聡介は娘に声をかけた。
「お母さん、何があったんだ?」
しかし娘は困惑顔で首を傾げるだけだ。
「そういえば昼間、捜査本部に電話してくれただろう? あの時、本当はもっと他に話したいことがあったんじゃないのか」
さくらは黙っている。が、やがてにっこりと笑顔を浮かべると
「なんでもないの、忘れて」
そう言われて聡介はそれ以上追及しなかった。
それが間違いだったと、後になって彼は知ることになる。
その後、聡介は事件の残務処理に追われ、帰宅できない日もままあった。
だから彼は自分の家の中で何が起きているかなんて、少しも把握できていなかった。
ある夜のこと。
なかなか終わりの見えない書類仕事に一旦区切りをつけ、聡介が刑事部屋の外に出た時だ。
「……もう終わりだな、この県警も」
「ほんとうだな」
「大々的な人事異動になるだろうよ。どこかの県警でそんなことがあっただろ? 刑事が警務に異動になったり、捜査4課から2課に異動になったり、ベテランが専門分野から外されて内部の不満は勃発、検挙率がガクンと落ちたって話だぜ」
同じフロアに勤務する刑事課盗犯係の二人が、廊下でそんな話をしていた。
「何の話なんだ?」聡介は思わず二人に声をかけた。
「……知らないのか? あの話」
「あの話?」
「酒井だよ、警務の」
『あの話』とは県警内で起きている不祥事のことだった。
警務部に酒井という聡介と奈津子の同期生がいる。
その男は以前から金と女性関係にだらしなく、つい先日など美人局にひっかかり、暴力団関係者から脅迫されるというあまりにも情けない事態を招いてしまった。
彼の父親は警察庁のトップにおり、それまで息子の不始末は金で解決してきた。
しかしついに親も彼を見放したらしい。マスコミにこの件が漏れるのも時間の問題だ。
これがきっかけで同僚達が言うように大々的な人事異動が行われるとすれば、聡介も刑事でいられなくなるかもしれない。
彼にとって刑事の仕事は誇りだ。高い競争率を、狭き門をくぐってようやくたどり着いたのだから。
冗談じゃない。
酒井の連絡先は知っている。一度、会って話してみようか。
それで解決に至るとも思えないが……。
明日はいよいよ安芸高田から尾道へ引っ越す日だ。
父親は今日も遅くなるのだろうか。異動となると引継や何かで忙しいころだろう。
毎晩家に帰っては来るものの、疲れ切った顔をしている聡介に、さくらは自分の心配ごとを話すことができないでいた。
あの妙な男から電話がかかってきた日以来、明らかに母は変化した。
それはさくらが女の子だから気付く変化なのかもしれない。
まず、髪型が変わった。そして化粧の仕方も。
それまでも彼女は外見を繕うことに熱心だったが、今までとは少し様子が違う。
もしも梨恵の言うように、他に新しい恋人ができたのだとしたら?
父と別れてその男とやり直すつもりだろうか。
夕食の後片付けをしながらさくらがあれこれ考えていると、リビングの方から母の話し声が聞こえてきた。
「そう、明日からまた尾道なの……今のところと変わらない、何もないところよ。あぁ、私も広島に帰りたいわ……ふふっ、そうね……」
そんな母の声音は今までに聞いたことがなかった。
媚を売る様な艶っぽい声。甘えるような物の言い方。
これではまるで水商売の女性ではないか。
「え……? ……ちょっと待って……」
母の奈津子が台所にいるさくらの様子を確認しに来た。
「あとは私がやっておくから、向こうに行っててくれない?」
「でも……」
母に片付けを任せるとロクなことにならない。
「いいから早くしなさい!!」
金切り声を上げられてさくらは仕方なく自分の部屋に戻った。
お父さん、早く帰ってきて。
泣きたい気分だった。
再度移り住んだ尾道の家は、海がすぐ傍にあって眺望は素晴らしかった。
新しく通うことになる高校は平地にあるが、買い物などは少し面倒な気がする。
母の奈津子は車の運転ができる。家事一切はロクにできなくても、せめて買い物ぐらいは手伝って欲しい。
引っ越しの後片付けをすべて娘に任せて、自分はとっとと出かけてしまった母親に、どう言ったらうんと言わせられるかをさくらはあれこれ考えていた。
それにしても、少し驚くことがあった。奈津子は出かける時は必ずと言っていいほど梨恵を一緒に連れて行った。
それなのに今日は「お姉ちゃんのお手伝いをしてあげて」と言い残し、1人で出掛けて行った。
いつにないことに母親から取り残された妹はすっかり不貞腐れて、後片付けを手伝うどころか、散歩してくると勝手に出かけて行ってしまった。
「あいつらに、この家に住む権利はないな」
皿を包んでいる新聞紙を解きながら、聡介は呟いた。
さすがに引越し当日ぐらいは休みをもらって片付けを手伝ってくれている。
「そんなこと言わないで、お父さん」
父は気まずそうな顔をして食器を棚に入れた。
それから、
「なぁ、さくら……」
なに? と娘は振り返る。
「お前、何か気になっていることがあるんじゃないのか? それか、心配ごとでも」
ドキン、と心臓が跳ねた。
「……話してみてくれないか? それとも、お父さんじゃ頼りにならないか」
さくらは激しく首を横に振る。
どうしよう。話すべきか、たぶん間違いなく話すべきだろう。
「あのね、お母さんのことなんだけど……」
思い切ってさくらは、引っ越す何日か前に知らない男から母親宛てに電話がかかってきたこと、それ以来様子が変わったこと。
ものすごく驚くかと思っていたが、聡介の反応は意外なほどに冷静だった。
「そうか……」
父は大きな手でさくらの頭を撫で、そうして肩を抱き寄せてくれる。
「お前には本当に、苦労ばかりかけるな」
そんなことを言って欲しいのではない。今、この事態をなんとかすることを考えて欲しいのだ。
それともまさか父は母と別れるつもりなのだろうか?
「実を言うとな……」
聡介が言いかけた時に新しい家の電話が鳴りだした。
まさか、何か事件が起きて招集がかかったのか?
「……はい。えっ……?」
みるみる内に聡介の顔から血の気が引いていく。
「わかりました、すぐに行きます」
さくらは立ち上がって聡介の傍に駆け寄った。
「……お母さんが、事故を起こしたらしい……」
『県警の膿』と呼ばれていた酒井則弘警部補の最期はあまりにも惨めだった。
だが、彼の今までの所業を思えば、相応しい結末だったとも言えるかもしれない。
金と女性関係で問題を抱えていた彼が最後に助けを求めたのは、警察学校時代の同期生であった高岡奈津子だった。
奈津子は聡介と結婚する前、酒井と付き合っていた。
別れた原因はやはり酒井の女癖の悪さと、酒に酔うと暴力的になる点だった。
奈津子の同期生である聡介はそのことで何度となく奈津子から相談を受けていた。
今から約17年前のあの夜もそうだった。
基本的にほとんどアルコールの飲めない聡介だが、その夜はどうしてもと奈津子に請われて、甘いカクテルを口にした。
その後のことはほとんど覚えていない。
ただ、朝になって目が覚めた時、隣に奈津子が眠っていた。一夜限りだと約束して関係を持ったのだと言われた。
昨夜のことは忘れて欲しいと言われて、聡介もそのつもりだった。
ところが、聡介は奈津子から妊娠を告げられる。責任を取る形で彼らは結婚し、やがて双子の娘が産まれた。
結婚当初から、夫婦の関係があまりうまくいっていなかったのは事実だ。
しかし、別れるには惜しい相手だった。
実は奈津子の父親は広島県警の幹部で、うまくすれば将来的に自分が望む以上の地位に昇進できるかもしれないという下心があった。
やがて念願だった刑事課への異動が決まり、仕事も多忙になってきた聡介は、まったくと言っていいほど家庭を顧みなくなった。
いつでも自分を慕ってくれるさくらは別として、妻ともう一人の娘はほぼ、戸籍上の『家族』に過ぎなくなっていた。
だから聡介は、奈津子が未だに酒井との関係を続けていたことなど、まったく気付くこともなかった。
正確には関係を続けていた訳ではない。
切羽詰まった酒井が、古い馴染みの奈津子のことを思い出し、助けを求めて縋りついた。
そして彼女がそれに答えた、ということだ。
それは引っ越し当日のこと。
奈津子は酒井の為に金を用立て、彼に渡す為に車に乗って出かけた。
交通課の警官から聞いた話では奈津子は車を島根県方面に走らせていたらしい。カーブの多い山道を、ぐんぐんスピードを上げて走っていた。
そしてついに曲がり切れずにガードレールを突き抜け、崖下に転落。
不幸中の幸いと言うべきか、奈津子は奇跡的に軽傷で済んだ。
しかし、酒井は即死だった。車が薙ぎ倒した木が窓ガラスを突き破り、男の顔を刺し貫いていたのだ。
事故とは言え、刑事の妻が人を死なせた。
それも県警内で不祥事を起こした男の逃走を手助けしようとしてである。
医者や看護師が止めてくれたので未遂に終わったが、聡介は収容先の病院で怪我を負っている妻に殴りかかっていた。
「お前はどこまで俺の足を引っ張れば気が済むんだ!?」
離婚だ。それしかない。
さくらもこの春から高校生だ。
幼い子供ほど手がかかる訳でもないし、娘一人ぐらい養うなんて大したことじゃない。
この女のせいで昇進の道は完全に閉ざされてしまっただろうが、この組織で働ければ刑事じゃなくてもいい。
梨恵は黙っていても母親についていくだろう。
もっと早く別れていればよかった。
そうすればこんな女に、ここまでの迷惑をかけられることもなかったのに
。
ところでこの事故のことは詳しくは報じられなかった。
恐らく奈津子の父親が手を回したのだろう。
やがて聡介は、義父が幹部の地位を降りたことを知る。
自分もやはり何らかの処分の対象になるのだろうか?
刑事でなくてもいいと一度は考えたが、やはり辞めたくはない。
聡介に市内でもっとも人口の少ない町の駐在所での、交番勤務への異動命令が出たのは事故処理が終息した翌日のことだ。