猫を被った刑事
実は一部ノンフィクションです。脚色してありますが、ほぼ実際にあったことです。
優作の様子がおかしい。
子供の頃から彼をよく知っている慧はめずらしく夕方以降に店を、しかも一人で訪ねてきた親友が、挨拶もそこそこに勝手に3階の住居スペースに上がって行くのを見送った。
「おいおい、いつからここはお前ん家の別荘になったんだ?」
もちろん冗談のつもりで、慧は優作に冷たい麦茶とお菓子を持って行ってやった。
が、優作は返事もせずに虚ろな目で、窓の外を眺めている。
今日は月曜日だ。月曜日はまったくお客が入らない訳ではないが、他の曜日に比べたらだいぶ暇になる。
既に準備は整ってあとはお客を迎えるだけ、という状況で優作はやってきたのだった。
何か普段と違うことがあったのは間違いない。
「……まったく、梨恵にしろ優作にしろ、あいつらここを寺か教会だと勘違いしてるんじゃねぇのか?」
「まぁ、随分ガラの悪い住職さんか牧師さんね」
母親の秀美が茶々を入れる。慧は母親をじろりと一瞥すると、
「とにかく、親父さんに電話しとくから」
受話器を上げ、有村家の番号をプッシュする。
優作の父、光太郎は恐縮しながら何度も礼を言った。
開店時間になったが暖簾をくぐるお客はまだいない。
「優作君、失恋でもしたのかしらねぇ?」暇なのでつい、秀美は呟いた。
「……は? 何言ってんの。優作が女をふることはあっても、逆はないだろ」
「そんなの、わかんないじゃない」と、唇を尖らせる。
年齢の割に若く見える彼女は、いちいち仕草が少女のようだ。無口な継父はきっとそんなところに魅かれたに違いない。
「あ、それとも……ついに梨恵ちゃん、優作君にプロポーズしたのかしら?!」
「あのな……16かそこいらのガキが、結婚だのなんだのありえないだろ」
母の言うことは時々突拍子もない。
「そんなこといって、私は慧が女の子を連れてきたら、将来のお嫁さんだと思って見ますからね? ねぇ、修さん」
継父は黙って頷き、グラスを磨いている。
「でもねぇ、私の正直な気持ちとしては、梨恵ちゃんには慧のお嫁さんになって欲しかったわ。それで、二人でこのお店を継いでくれたら最高なんだけど」
慧は思わず、手にしていた出刃包丁を落としそうになった。
「うわっ、危ねぇ!! ……秀美さん、おかしなこと言うのやめてくれる?」
時々慧は母親のことを『秀美さん』と呼ぶ。引きつった笑顔で、危ないので包丁はもとある場所に戻すことにした。
「何がおかしいのよ、あんた梨恵ちゃんのこと気に入ってたでしょ?」
確かに否定はできない。
「慧って、子供の頃から好きな女の子にはとことん厳しかったわよねぇ。おかげでお母さん、いろんな女の子のお母さんを敵に回したわよ」
「……人を、無類の女好きみたいに言うんじゃねぇよ」
「でも、慧の言うことは正しいから。謝ったことはないわね」
秀美がそう言った時、その夜最初のお客が入って来た。
和泉から電話がかかってきたのは、登校日から3日後の昼前だった。
これから少し会えないか、と言う。
もう自分達とは関わり合いにならないだろうと思っていたが、彼の口調は今までとまったく変わりなく屈託がない。
駅の南口で待ち合わせと言われ、さくらは先日買った青いワンピースを着て出かけた。
指定された時間より少し前に到着すると、間を置かず和泉が自動車で駅前ロータリーにやってきた。
「ごめんね、待たせたかな?」
レンタカーなのか、ナンバープレートは「わ」と書いてある。
車を降り、彼は後部座席のドアを開けてくれる。車の中は涼しく快適だ。
「少し、ドライブしたいんだけど……付き合ってくれる?」
今日は非番だったのか、和泉はスーツではなくラフな格好をしている。
そして、気のせいだろうか? 少し無理をして明るく振舞っているように思える。
さくらが同意すると、車は福山方面へ国道2号線を走りだした。
「そのワンピース、可愛いね。よく似合うよ」
バックミラー越しに、大人の男性ならではの褒め言葉をかけてくれる。
さくらは微笑んだ。それから、思い切って尋ねてみる。
「……和泉さん、どうして?」
「え? ……どうしてって、何が?」
「だって、あんなみっともないところ見られたし……それに、和泉さんだってうちのお母さんのこと知ってるでしょ? もう、家とは関わり合いになりたくないと思ったんじゃないかなって」
すると和泉はあぁ、と苦笑してから
「僕は警察の人間だし、お母さんのこともいろいろと聞いてるよ。と、いうよりも聞いてもいないのに、余計なことを吹き込んでくる人がいるっていうのが正解かな。あ、でも梨恵ちゃんのことは全然知らなかったな。聡さん、娘は一人だけだって言ってたからびっくりしたけど……」
やっぱり、とさくらは思った。
最近でこそ少しずつ和解の努力をしてはいるが、和泉と知り合ったばかりの頃は、まるで赤の他人同士だった。
「僕には兄弟がいないからわからないけど、兄弟ゲンカなんて、あんなものじゃないのかな? って思ったよ」
兄弟ゲンカなどと言うレベルなのだろうか? と思ったが黙っていた。
「それに、何よりもね。さくらちゃんが僕に会いたいって言ってくれて、すごく嬉しかったんだ」
車はバイパスに乗り、尾道に隣接する福山市の福山駅を南下した。
ひたすら南へ向かうと鞆の浦と呼ばれる港に着く。そこは古代から瀬戸内海航路の要所として発展し、幕末~昭和初期の街並みが、広範囲にわたってそのまま残っている。
「鞆の浦は、来たことある?」
「ううん、初めて……」
「僕は学生時代から日本史が好きでね、ここはけっこう教科書にも出る有名な場所なんだよ。足利尊氏とか、後醍醐天皇とか坂本龍馬とかね」
後醍醐天皇は尾道を経由して島根県の隠岐の島へと流刑にされた、山陰、山陽地方に志津子がある名前なのでさくらも知っている。郷土愛のある担任教師は日本史の授業で室町時代を扱う時は、他に比べて随分時間を割いていたように思う。
写真を撮ろう、と和泉は使い捨てカメラを取り出した。
近くを通りかかる人に声を掛けて海をバックに二人並んで立つ。
それにしても彼が歴史好きだとは新しく知った事実だった。優作はどうだっただろう?
さくらはそう考えて首を横に振った。
今は優作のことを考えている場合じゃない。
それから二人は喫茶店に入り、冷たい飲み物を頼んだ。
「福山なんてすぐ近くなのに、こんなところがあるの知らなかったわ。連れて来てくれてありがとう、和泉さん」
およそレジャーや旅行に縁遠い家庭に育ったさくらには、目新しい発見だった。
「いや、僕の趣味に付き合わせてしまって悪かったかなって思ってたけど……」
「そんなことない、すごく嬉しい」
それなら良かった、と和泉はアイスコーヒーを一口飲んだ。
「ねぇ、和泉さん……何かあったの?」
「え?」
「なんか、元気ないかな? って思って」
すると彼はストローでコーヒーをかきまわし、窓の外を眺めた。
「……あまり感情を外に出すなって言われるんだけど、難しいね」
「やだ、和泉さん、それうちのお父さんに言われたの? だとしたら、反論していいよ! お父さんほど分かりやすい人いないんだから」
さくらは声を立てて笑った。かくいう自分の方がよほど無理をしているのだが。
和泉は微かに苦笑すると、さくらの髪をそっと撫でた。
びっくりして笑いを引っ込める。
「さくらちゃんがいてくれて……よかった」
帰りの車中で、和泉はつい先日扱った事件のことを話してくれた。
それは既に新聞にも載っていた事件だったのだが、警察しか知らない詳細がある。
久山田の山林の中で首つり死体となって発見された中学3年生の女子生徒がいた、というニュースはつい昨夜流れていた。
その子はその前日、同じクラスの仲間に書店で万引きをするよう強要された上に、現場を発見され逮捕されたのだった。
警察にも連絡が入り、その事件を担当したのが和泉である。
事件のあった書店の事務室で少女と向かい、事情聴取を始めたが、彼女は貝のように固く口を閉ざし、何も話そうとしない。
保護者に連絡を取ろうにも名前すらわからない。
和泉は刑事課に移る前の交番勤務の時に、広島市内の繁華街を含む地域を担当していたため、よく少年少女の補導に当たっていた。
なので、この年代の子供の扱いには慣れているつもりだった。
しかしその少女に関して言えばまったく歯が立たない。ちなみに初犯であること、反省の色が見られることからその日の晩は解放された。
また同じ間違いをしたら今度こそ親を呼び出そう。
そう思っていた矢先、少女は山の中で首を吊って自殺した。
遺体のそばには遺書が置かれていた。
その中には少女の語られなかった胸の内が記載されていた。
自分は万引きなどしたくなかったが、仲間に強要されて逆らえなかった。
自分がこんなに苦しんでいるのに親は何もわかってくれない。
その上、警察からの厳しい取調に耐えることができなかったと。
「何だか、僕もこの女の子の死に原因があるように思えてね」
さくらは一つ息をつくと、和泉の瞳をじっと見つめた。
「……さくらちゃん?」
「和泉さんは自分の仕事をしただけよ、何にも後悔することなんてない。たとえどんなことがあっても、自分で命を絶つことだけは許されないと私は思う」
言いながらさくらは、自分の母親のことを思い出していた。
今のところは『失踪』扱いになっているが、実際はきっともう生きていないだろう。
だからこそ、許せないと思う。
生きて父に謝罪の言葉の一つもあって然るべきではないのか。
大人しくて自分の意見など言わない子だと、さくらのことを思っていたのだろう。和泉は驚いて眼を見張った。
「和泉さんは、優しすぎるのね。うちのお父さんも、娘の私が言うのもおかしいけど……ほんとに優しい人だから、事件が起きるたびいろんな人に感情移入しちゃって、それでいて守秘義務ってやつで、家の中では事件のことほとんど何もしゃべれないでしょ? 疲れた顔してるなー、ストレス溜まってるなって思う時があるの」
刑事には向いていないんじゃないのかな? と思ったことは口にしなかった。
「それでも、家に帰ればさくらちゃんが待っててくれる。それが聡さん……お父さんにとっての救いなんじゃないかな?」
微笑みながら和泉が言う。「僕は幼い頃に父親を病気で亡くして、母が女手一つで育ててくれたんだけど……聡さんはそんな僕を本当の息子みたいに可愛がってくれてね、僕も本当の父みたいに思ってる。そんなお父さんがいつも自慢する可愛い娘は、どんな子だろう? と思ってた。初めて家に連れて行ってもらった時、君たち親子が本当に温かくて強い絆で結ばれている関係なんだってことがよくわかったよ。お母さんのこともあって、いろいろ大変だったことも。でも、君は難しい家庭環境の中でも本当に立派な女性に育ったね」
惜しみない称賛を送ってくれる和泉に、さくらはどう返答していいのかわからなかった。
「でもね、さくらちゃん」
今度はさくらの方が、じっと見つめられる番だった。
「無理しなくても、たまには甘えていいんだよ? 僕じゃ、あまり頼りにならないかもしれないけどね」
彼がここまで自分のことを理解してくれているとは正直、思っていなかった。
なぜいきなり和泉に会いたいとさくらが言ったかと言えば、万が一優作が梨恵に対して了承の返事をした時に受ける衝撃を和らげるための、保険のようなもの。この人は頼れるかも、と思ったから。
こんなに優しい人を利用しているみたいで苦しいと思う反面、この人と上手く行けば父が喜ぶ。
梨恵も落ち着く。
そうして皆が幸せになって何もかもが丸く収まるのだ。
でも。
「ありがとう、和泉さん……」
優作より先に出会っていたらきっと、間違いなく自分はこの人を愛しただろう。