当て馬はつらいよ
夏の暑い季節でも、梨恵の働くドーナツショップでは6月から9月いっぱいまで期間限定でかき氷を提供するため、客足は落ちない。
その日午後2時過ぎの一番暑い時間、レジに立っていた梨恵は店のガラスドア越しに思いがけない人物を見た。優作だった。
夏休み中だから当然、私服姿である。縞模様のポロシャツにベージュのチノパン。
まさか自分に会いにわざわざ来てくれたのか、などと考えてしまう。
しかし、彼一人ではない。隣を見たことのない女性が歩いている。
つばの広い帽子を被り、夏らしい白いワンピース姿の背の高い女性だ。顔は見えない。
思わず手を止めてしまい、リーダーに注意されてしまう。
さらに驚いたことに優作がその女性と一緒に店に入ってきた。
顔が見えた。十人並み普通の顔だったが、優作は親しげに笑顔で話している。
その時梨恵はレジに立っていたのだが、彼は何も言わず注文を女性に任せて2階に行ってしまう。
女性に注文いいですか? と言われて我に帰る。
アイスコーヒーを2つだけ注文して、彼女は二階に行った。
約30分ほどいただろうか。
優作とその女性二人は親しげに話しをしながら階段を降りてくる。
その人は誰なの? などとこの場で聞くほどの真似は、さすがの梨恵にもできなかった。
モヤモヤした気持ちを抱えたまま、梨恵はバイトを終えて家に帰った。
いつもそうだが、家に帰るとちゃんと夕飯が用意されている。
ドアを開けた瞬間カレーの匂いがして、自分が空腹だったことを思い出す。
「……ただいま」
「あ、お帰り……どうしたの? 疲れた顔してるわね」
さくらなら、何か知っているだろうか。
「あのね、ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「なぁに? めずらしいわね」
梨恵は居間のダイニングチェアに腰掛け、顎の下で手を組んだ。
「優ちゃんって……お姉さんいる?」
「え? いや、一人っ子だって言ってたわよ。どうして?」
「……」
梨恵は今日、優作が女性と二人でドーナツショップに入ってきたことを話した。
「彼女……なのかなぁ?」
カラン、とレードルの落ちる音が響く。
「さくら? どうしたの?」
「……なんでもない、なんでもないの……」
その場に自分がいたとしても、きっと同じように考えていただろう。さくらは梨恵の話を聞いていて、もしかしたらという嫌な予感が膨らむのを感じていた。
考えてみれば自分は優作のことを、学校でのこと以外ほとんど知らない。
学校の中に特別な存在の異性がいないとしてもその他のところにいるかもしれない。
梨恵が暗い顔をしている理由は同時に、自分にもそのまま当てはまるのだ。
「……さくら!」
妹に呼びかけられて、さくらはようやく我に返った。
「あ、ごめん。なんだったっけ?」
梨恵はいきなり立ち上がると、さくらの肩にすがりついた。
「あたし、優ちゃんに会いたい! 会わせて、お願い!!」目に涙をためて叫ぶ。「優ちゃんに会って、自分の気持ちを伝えるの」
ガン、と堅い物で頭を殴られた気分だ。
正直なところ、さくらは梨恵がそこまで本気で優作のことを想っているとは考えていなかった。
好きな気持ちは確かだろうが、母親に似てプライドの高い彼女は相手から好きだと言ってくれるのを待つタイプだろうと、想っていたところでどうせ彼が梨恵を相手にする訳がない、と心のどこかでたかをくくっていたのも事実だ。
「優ちゃんの彼女になりたい……あたし、本気で優ちゃんが好き……」
ぽろぽろと涙を流しながら抱きついてくる妹に、何と言っていいのかさくらは迷っていた。
そしてふとカレンダーを見た時、思いついたことがあった。
「来週の月曜日……登校日なのよ」
夏休み中、学校で優作に会える唯一のチャンスだ。
「午前中で終わるから、そのあとに……なんとかしてみる……」
「ほんと?!」ぱっ、と顔を上げる。
無理に微笑んでさくらは答えた。
「私、嘘はつかないから。うまくいくといいね……」
嘘ばっかり、と心の中でもう一人の自分が叫ぶ。
うまくいくことなんて少しも願ってなどいないくせに。
登校日が何のために存在するのかよくわからないが、久しぶりにクラスメート達に会えるのは少し嬉しい。
しかしさくらが教室に入ると、優作と他に4名ほどしか登校していなかった。
「おはよう」
さくらは自分の席に着く前に、優作の隣に立って声を掛けた。
「おはよう、久しぶりだな」
それからしゃがみこんで、小さな声で話しかける。「ねぇ、こないだ梨恵に聞いたんだけど。すっごい美人とデートしてたんだって?」
冗談めかして聞いてみる。
すると優作は意表をつかれた顔で、すぐには返事をしなかった。
ちなみに梨恵は『すごい美人』とは一言も言っていない。
「……何の話だ?」
「先週だったかな、優作君が女の人と一緒にドーナツ屋さんに入ってきたって」
ドキドキと、どんな回答がくるのかを待つ。
お願いだから、別に彼女でも何でもないと答えて。
「あぁ」ふっ、と優作は笑うと「あれは従姉だよ。東京で働いてて、こないだ久しぶりにこっちへ帰ってきたから一緒に出掛けただけだ。子供の頃からよく遊んでもらってて、今でも時々連絡取り合うんだ」
ふぅん、と口先ではそれほど関心がなさそうなフリをするが、心中は穏やかではない。
従姉でも結婚は可能だ。
「それより、こないだ私『小松屋』に行ったよ。優作君、いなかったじゃない」
「ああ、そうらしいな。ただ、俺はあそこには昼間しか行かないんだ」
なんだ、とさくらは胸の内でため息をついた。
他にも話したいことはたくさんあった。
けど、梨恵との約束は守らなければならない。
「あのね、今日……なんか急いでる?」
「いや、別に」
「じゃあ、少しだけ私に付き合ってくれない? お願いしたいことがあって」
「何をだ?」
「後で話すから」
「どうして今じゃ言えないんだ」
「……会って欲しい子が、いるの」
そう言うと優作は不機嫌そうな顔になったが、わかったと言ってくれた。
登校日と言っても授業がある訳ではなく、ホームルームの縮小版だった。クラスの半分ぐらいの生徒は出席していない。
担任教師が残りの休み期間も楽しく安全に、くれぐれも警察のお世話になるような真似はするなと釘を刺して、そうして帰れることになった。
朝はそこそこ機嫌良さそうだったのに、帰りの時点ではすっかり黙り込んで不機嫌そうな表情を隠そうともしない。
そんな優作と並んで自転車を押しながら歩くさくらの胸の内は重く、不安でいっぱいだった。
梨恵には商店街の、一番学校に近い場所にある喫茶店で待っているように言ってある。
「……やっぱり、帰る」目的地が近付いた途端、優作は踵を返しかけた。
「待って、どうして?!」
「お前……何を考えてる?」
突き刺さるような厳しい眼で見つめられて、さくらは身を竦めた。
「あ、朝はわかったって言ってくれたじゃない。嘘つくの?」
まともに眼を合わせられない。
「……どこに行けばいいんだ」
信号を渡った先にある喫茶店だと答え、さくらはそのまま自転車に乗って逃走するつもりだった。しかし、
「当然、お前も一緒に来るよな?」
思いがけず強い力で優作に手を掴まれ、もう逃げられないと思った。
この人は自分が思っている以上に勘が鋭く、今、自分がしようとしている偽善にもきっと気付いているに違いない。
嫌われるかもしれない。
さくらにはそれが何よりも恐ろしかった。