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謙遜とは

 期末試験が終わったあの日の夜、梨恵が再び迷惑を掛けたことをまだ謝罪していなかったことを思い出したさくらは、電車を降りて父親に提案した。

「お父さん、梨恵の分はもう用意してあるから、晩ご飯は外で済ませていい?」

「めずらしいな。いいよ、どこに行こうか?」

 もしかしたら優作に会えるかもしれないという期待もある。

 日の長いこの季節、駅に降り立つと尾道水道に沈む夕日が、エメラルドグリーンの海面を朱に染めて行く。

「……あのお店がいいわ」

 さくらの指差した先にあったのが駅前の『小松屋』だったので、聡介は躊躇した。

「他じゃ、ダメなのか?」

「こないだ、また梨恵が迷惑をかけたみたいなの。黙っている訳にもいかないでしょ? それに……ほんとにおいしいお店らしいのよ」

 父は強く拒む理由を見つけることもできなかったようで、結局二人は『小松屋』の暖簾をくぐった。

 いらっしゃい、と威勢の良い声で出迎えてくれたのは慧だった。彼は二人の姿を見かけると、意外そうな顔をした。

「こんばんは。今日はお客として来ました」

 すると和服姿の慧の母親が、笑顔で二人をカウンター席に案内してくれた。

 残念ながら優作の姿は見えなかった。

 週の半ばだからか、開店して間もないからか店内に他の客の姿はない。

 さくらは、おしぼりを受け取るついでに先日また梨恵が世話になったことを持ちだした。

 すると慧の母、今岡秀美はにっこりと笑って

「まぁ、お姉さんなのにお母さんみたいなこと言うのね。気にしなくていいのよ、うちはむしろ梨恵ちゃんのおかげで大助かりだったんだから」

「え……?」

「あの日は金曜日の夜で、ものすごく忙しかったの。でも、梨恵ちゃんがよく手伝ってくれてね。テキパキと上手にさばいてくれて……その働きぶりったら、毎晩でも働いてもらいたいぐらいだったのよ」

 そうだったんですか……と、さくらは今初めて知った事実に驚いた。

「高岡さん、立派なお嬢さんに二人も恵まれましたね。うらやましいわ」

 ころころと秀美は笑うが、聡介はにこりともせず、

「……とんでもない、立派なのは長女の方だけです。妹の方は、親に恥ばかりかかせる不出来な子供です!」

 さくらは顔を歪めた。

 本気でそう思っているのだとしても、人前で言うことではないではないか。

 それに歩み寄る努力すらしないのは親子ともどもお互い様だ。

「子供は親も、産まれてくる家も選べないよな」と、慧が口を挟んだ。「でも、親は子供をどこに出しても恥ずかしくないように大切に育てるか、ほったらかしにするかは選択することができるはずだ」

「慧! なんてこと言うの!!」

 秀美は厳しい声で咎めたが、慧は手元に集中したまま顔も上げない。

「すみません、失礼なことを……後で厳しく叱っておきますから」

 聡介ははっ、と何かに打たれたような顔をしていたが、やがて項垂れて言った。

「彼の……息子さんの言うとおりです。今岡さんこそ、素晴らしいご子息に恵まれていますね」

 お客として来た以上何も食べないで去る訳にもいかず、さくらは本日のおすすめ定食を二人分注文した。

 優作の言っていた通り、上品でおいしい料理だったが、父はたぶん味なんて少しも分からないだろう。

 やがて他の客も増え始め、店の半分ぐらいの客席が埋まった頃、父娘は店を後にした。


 家に帰ると梨恵が既にバイト先から帰宅し、居間でテレビを見ながら一人で夕食を食べていた。

 いつもそうだが、家の中で父と妹は顔を合わせても声も掛け合わない。お互いの姿を見るなり自分の部屋に引っ込んでしまう。

 だが、今夜は少し訳が違った。

「……おかえり……いや、ただいまか」

 動揺しながら聡介は梨恵に向かって言うと、慌てて自分の部屋に入った。

 梨恵は眼を丸くしてさくらを見つめる。

 さくらが父親を尊敬できる理由には、彼の謙遜さが大きい。

 あんな息子ほども若い少年に正論でやり込められて、それでも自分でも反省しているせいか、こうして家に帰ってから実際に努力を見せている。

 それから聡介は服を着替えて再び居間に戻ってくる。

 新聞を手に、梨恵の座っている斜め前の椅子に腰を下ろし、

「……アルバイトは、楽しいか?」目は新聞の方に落としたまま言う。

「……うん」

 何が起きたのか訳がわからない、という表情だが、それでも父親から関心を示されて嬉しかったのだろう。

 梨恵は箸を置いてテレビの音を小さくした。

「そうか……それなら良かった。ところで……」

 何を言おうとしたのか、聡介の言葉はそこで途切れた。

 頭の中でいろいろと考えているに違いない。

「高校を卒業したら、進学したいか?」

 まだ高校1年よ、何そんなこと聞いてんの?! と言うのではないかと、さくらは一瞬ヒヤリとした。しかし案に相違して、

「わからない……」とだけ答えがあった。

 そうか、と聡介は立ち上がり、

「さくら、買ってきたお菓子を食べよう。梨恵も……食べるだろう?」

 デパートの地下で梨恵へのお土産としてシュークリームを買ってきた。

「あっ、これこないだテレビで紹介されてたやつでしょ? やったぁ!」

 お茶淹れるわね、とさくらはヤカンを火にかけた。

 少しぎこちなくはあったが、いつになく温かい空気が家の中に流れた。

 シュークリームを食べてから聡介は風呂を入れに居間を出て行った。アルコールがほとんど飲めない彼は、甘い物が大好きだ。

「ねぇ、一体どうしたの? 何があったの?」

 父親の姿が居間から見えなくなった途端、梨恵は立ち上がってさくらにコソコソっと耳打ちした。

「今岡君のおかげよ。今度会ったら、お礼言っておいてね」

「今岡君って……慧ちゃんのこと? なんで?」

「実は今日ね、『小松屋』で晩ご飯を食べて来たの。それでまぁ……いろいろとあったのよ。それにしても、あの人同い年とは思えないわね」

「慧ちゃんは、一つ年上だよ」

「えっ、ほんとに?」

「小学校の頃、大けがをして一年進級が遅れたんだって」

 それにしても……とさくらは思う。一つ年上だけで、あんなに大人だとは。

「あの彼に比べたら、うちのお父さんの方がよっぽど子供みたいね」

 その時、自分の部屋から着替えを取ってきた本人がまた居間に姿を見せたので、さくらは慌てて口をつぐんだ。

「梨恵……もし、進学したいなら言いなさい。ちゃんと備えはしてあるから。それ以外でも、困ったことがあれば何でも相談しなさい……じゃあ、風呂に行ってくる」

 うん、と答えて梨恵は父親の背中を見送った。

「明日、台風が来るんじゃないの……?」


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