父と娘の真夏デート
終業式の日は午前中で下校できるから嬉しいのだが、山のように出された宿題にうんざりする思いだ。さくらは荷物でいっぱいになったカバンを自転車のカゴに乗せた。
掃除当番のため、さくらはクラスメート達よりかなり遅く教室を出た。
当番は出席番号の順に3人一組で割り当てられるのだが、他の子達は用事があるとか、塾だからと言ってまともに掃除をしようとしないので、結局最後まで掃除をして帰るのはさくら一人になってしまう。
毎度のことなのであまり気にしていないが、ガランとした自転車置き場に一人で辿りつくと、さすがにため息が漏れる。
明日からしばらく優作に会えない。そのことも彼女を憂鬱にさせていた。
「掃除、終わったのか」
後ろで優作の声がして、さくらは振り返った。
「うん、今から帰るところ。優作君、今まで何してたの?」
「図書室にいた。休みの間に読む本を借りようと思ってな」
「ね、バス停まで一緒に帰ろう」
学校から優作が通学に使うバスの停留所まではほんの短い距離だが、少しでも長く一緒にいたい。さくらは自転車に乗らずに手で押して歩くことにした。
「……夏休み、何か予定あるの?」
「何も。さくらは?」
「私も何もないよ。夏休みって言ったって、学校に行かないで済むだけで、あとは普通の主婦と同じ」
「梨恵やお父さんと出かけたりしないのか?」
「うん……」この問いかけには、さくらは本当のことを言えなかった。
期末試験が終わったあの日の夜、聡介が梨恵を家から閉め出した時、その晩はまた『小松屋』の世話になったらしいと後で聞いたが、翌日梨恵はそのままアルバイトに行き、晩は何事もなかったかのように自分の家に帰ってきた。
聡介がその日当番で不在だったのもあるが、翌朝帰宅した時に、梨恵が帰っているのに気づいても父は何も言わなかった。
あの二人は既に親子ではなくただの同居人だ。
互いの存在を無視し、互いの間の深い溝を埋めようと努力すらしない。
それでも血のつながった家族には違いないのだ。
優作の言うように、父と梨恵と3人で出かけたりできたらどんなにいいだろう。
実現する見込みは限りなく低いのだが。
「あのさ、商店街の入り口に『小松屋』って料理屋があるの知ってるか?」
「うん、知ってる。今岡君、だったよね? 優作君の友達のお家がやってる店でしょ?」
「……何で知ってるんだ?」
「いろいろあってね……そのお店がどうかしたの?」
すると優作はなぜか目を逸らして、
「毎週土曜日の昼、俺は親父と二人でその店にいるんだ。で、夏休みの間はだいたい3日おきぐらいに入り浸ってる。自信持って人に勧められる料理を出す店だから、お前もお父さんや梨恵と一緒に……来てみろよ」
もしかして、という期待がさくらの心に膨らんだ。
彼もまた、夏休みに入ればしばらくは会えなくなることを残念に思ってくれているのではないだろうか。
「……うん、わかった……そうするね」
その時ちょうどバス停に、バスが到着した。
聡介がめずらしいことを言い出したのは、終業式の日の夜のことだ。
「さくら、明日何か予定あるか?」
「別にないわよ、どうして?」
「久しぶりにお父さんとデートしないか」
「いいよ、どこに行くの?」
父と出かけるのは久しぶりだ。さくらは嬉しくなった。
「そうだなぁ、……広島に行くか。お好み焼きを食べて、デパートでもめぐってみるか? 新しい服でもカバンでも、靴でもなんでも買ってやろう」
梨恵は? と聞きかけてやめた。彼女は明日もバイトだと言っていたし、どちらもいい顔をするはずもない。
「嬉しい、お父さんありがとう」さくらは父親の首に抱きついた。
暑いよ、と言いながらも聡介もまんざらではないようだ。
広島市の中心部は駅前より少し離れた八丁堀や紙屋町あたりに集中している。そこには複数の大型デパートが立ち並び、すぐ近くに商店街もあるので、いつも大勢の人で賑わっている。
夏休みに入った今日は特に、さくらと同じような年代の少年少女が溢れている。
父娘はまず、数年前東京から進出してきた比較的新しい『福島屋』と言うデパートに入ることにした。ほどよくエアコンの効いた店内はまだ開店して間もなく、入り口のところで店員が笑顔で迎えてくれる。
さくらはこのデパートに初めて入ったのだが、その全体の雰囲気に感銘を覚えた。
爽やかな淡いブルーの制服も素敵だと思った。
何よりも店員全員が惜しみない笑顔で迎えてくれる。
「お父さん、私、卒業したらこのデパートで働きたいな……」腕を組んで甘えてみる。
「そうか、デパートの店員か……さくらに似合いそうだな」と、聡介は笑った。
全部で9階建のこのデパートは、2階と3階が婦人服売り場である。
ひょっとしてものすごく高い洋服しか売ってないのではないだろうかと少し心配したが、真夏の大売り出しと銘打って、だいたいリーズナブルな値段だったのでさくらは安心した。
あまり洋服を選ぶのに時間をかけない彼女は、あっという間に2種類のワンピースを手にとって父親に見せてみた。
「ねぇ、どっちがいいかな?」
青いワンピースと、白いワンピース。青い方はデザインが気に入って、白い方は今持っている靴やカバンとコーディネートしやすそうだったから選んでみた。
ただし青い方が若干値段は高めである。
「青だな」即答だった。
「……そう?」
「青は、彰彦の好きな色だからな」
「……じゃあ、青にするね」
何も聞かなかったことにして、さくらは青いワンピースをレジに持って行った。
婦人服売り場を後にした二人はそれから、台所用品や文房具コーナーを冷やかして、それから『福島屋』を出た。
それから昼食にしよう、と商店街の一画にあるお好み焼き屋に入る。
食事を終えた後、他2、3件のデパートをハシゴしたり、商店街を歩き回り、梨恵へのお土産を買って時刻は午後3時半を回っていた。
ふと思いついて、さくらは言った。
「ねぇお父さん。県警本部ってこのすぐ近くでしょ? 私、一度見てみたいな」
広島県庁はこの繁華街の大通りを挟んだ向かい側にあり、そのすぐ隣に広島県警本部のビルがあるのだ。
「しかし……」
「関係者以外立ち入り禁止なの? だったらお父さん、立派に関係者じゃない」
さくらは躊躇している父の腕を取り、さっさと横断歩道に向かう。
道路を渡るとそこは一転してビジネス街の雰囲気になる。行き交うサラリーマン達は忙しそうに歩きながら、少し場違いに見える親子連れなど見向きもしない。
県警本部が何階建てなのか知らないが、地元にはない背の高いビルを見上げながら、二人はしばらく黙っていた。
今のところこれと言って大きな事件はないのか、本部の前を通りかかる人は少なく、マスコミ関係と思われる人影もほとんどいない。
「いつかお父さんも、ここで働くのかな。そうしたら、また引越しだね?」
もし彼が県警本部付きの勤務になれば当然住居は広島に移すだろう。尾道から広島まではかなり距離があり、通勤圏内ではない。
「……いつの話だろうな?」
父は苦笑している。
「お父さん、優秀なんでしょう?」
「さぁな……もしかしたら俺より先に彰彦の方がこっちに来るかもしれないな。あいつは優秀だから、所轄の刑事のままで終わる訳がない」
確かに和泉は頭がいい。優秀な刑事が具体的にどんなものかさくらは知らないが、彼はまだ若いしその見込みは充分にあると言える。
「あのな、さくら。もう気付いているかもしれないが……」
聡介が何を言い出すつもりか、さくらには半分以上予測がついていた。
「お父さん、さくらのお婿さんに彰彦はどうだろう? って考えてるんだ。あいつなら本当に、安心してお前のことを任せられる。お前には小さい頃から苦労ばっかりかけてきたからな、幸せになって欲しいんだ。誰よりも」
やはりそうか、と胸の内で呟く。
「どうなんだ? さくら。その、彰彦のことは……」
まるで自分自身のことをどう思っているのか聞いているように、聡介は落ち着かない様子で尋ねる。
「和泉さんは、とてもいい人よ。でもね」
でも、という言葉に聡介の顔に少し緊張が走る。
「私まだ学生だし、卒業したら働きたいの。今はとてもじゃないけど、そんなこと考えられないわ。それにね」
「それに?」
「私より先に、梨恵をお嫁に出してからじゃないと。私、お父さんと梨恵を二人だけにしておけないわ」
「……」
長女の台詞に、父は気まずそうな顔をして黙り込む。さくらの言うことはもっともだと自分でも理解しているに違いない。
「だいいち、和泉さん自身の気持ちはどうなの? ちゃんと確かめた? あの人、本当に優しい人だから、もしかしてお父さんに気を遣ってるかもしれないじゃない」
聡介はしばらく黙っていろいろ考えていたようだが、
「そうだな、さくらの言うとおりだ。お父さん一人だけで、ずいぶん盛り上がっていたみたいだな」と、苦笑する。
それからさくらの肩を抱き寄せると、
「でもな、さくらには幸せになって欲しいと心から願っている。それだけは真実だ」
わかっている。充分すぎるほどに。
(私の幸せって……なんだろう?)
幸せの尺度も価値観も人によって違うものだ。であれば、自分の幸せとは一体なんだろう?
願わくば父と妹が和解して、片親ではあるがまずは仲の良い家族であること。
好きな人と結婚して、子供を産んで……そんなのは遠い将来でいい。
ただ。偶然なのか必然なのか、妹と同じ人を好きになってしまった。
優作がどちらを選ぶのか、それともどちらも選ばないか。
もし彼が梨恵を選んだとしたら?
和泉がもし、自分を愛してくれたとしたら?
自分は彼を愛せるだろうか?
彼はとても親切で善良な人だ。
優作とは違った魅力のある大人だ。
でも、もし優作が自分を選んでくれなかったとしたら……?
その時自分は、何をもって幸せだと感じることができるのだろうか?
「……くら、さくら?」
「あっ、ごめんなさい。なに?」
「いや、そろそろ帰ろうって言ったんだ」
気が付けばもう午後4時が近い。
聡介は明日、朝から仕事だ。
二人は県警本部を背にして、尾道へ帰ることにした。