時々職場にもいます、こういう人。
「……で、なんで俺んとこに来るんだよ?」
今岡慧はレードルの柄で肩を叩きながら、カウンター席の一番奥に陣取っている梨恵を見下ろしている。
「だって、他に思いつかなかったんだもん」
両手で水の入ったグラスを握りしめ、梨恵はふてくされた様子で答える。父親に家から閉め出された後、行きつく先はどうしても『小松屋』しか思い浮かばなかった。
「あら、いいじゃない。梨恵ちゃんが久しぶりに来てくれて、おばさん嬉しいわ」
慧の母親である今岡秀美は本当に嬉しそうだ。「あとでご飯持って行ってあげるから、3階に上がっているといいわ。今夜は家に泊って、おばさんと一緒に寝ましょ」
『小松屋』は3階建で、1階は調理場とカウンター、4人掛けテーブルが幾つかあり、2階は宴会場として座敷が設置されている。3階が今岡家の住居スペースで、家族三人はそこで普段の生活をしている。
「おばさん、ありがとう」甘えた声で言って、梨恵は3階に昇って行く。
優作会いたさに梨恵がこの店で張り込みをしている間も、母の秀美は唯一彼女の味方なのであった。『好きな男の子に会いたくてずっと待ってるなんて、一途で可愛い』と。
母が梨恵を可愛がるのには他にも理由があると、慧は知っている。秀美は今から約13年前に流産を経験している。今度産まれてくる子は女の子がいい、と喜んでいた最中の不幸だった。
日の目を見ることなく亡くなってしまった赤ん坊に梨恵を重ねているに違いない。
流産の原因は他ならない慧の父親にあった。
今はもう亡くなっているその父親は、大酒のみで乱暴者で、気に入らないことがあるとすぐに妻や息子に手を挙げる男だった。せっかく授かった二人目の子供も、父親の暴力によって出産はかなわなかったのだ。
一流の料理人で『小松屋』の主人であったが、時々アルコールのために手が震えて包丁が握れない、などと言う日もあった。
それでもこの店が今に至って繁盛しているのは、慧の父親が生きている頃からずっとこの店でアシスタントとして働いてくれていた、今岡修という板前のおかげである。
ある晩、いつものように泥酔してふらふらと外を歩いていた父親は、足を滑らせて海に転落し、そのまま帰らぬ人となった。
そしてほぼ自動的に『小松屋』の板長の座は今岡に譲られることとなる。
とにかく無口で必要最低限のことしか言わないが、慣れてくるとなんとなく今笑っているのか怒っているのか察することができるようになり、寡黙だけど本当に心の優しい人間なのだということがわかるようになる。
その『無口な今岡さん』が母親と再婚し、自分の父親になろうとは慧も予想外だったのだが、実の父親よりもずっと信頼できる。
継父は、梨恵がまたやってきたことをどう思っているんだろうか?
無言で野菜を刻んでいるその横顔からは、何も読み取ることができなかった。
今日は金曜日だから、仕事帰りのサラリーマン達で店は大賑わいだ。
猫の手も借りたいほど忙しくなってきた時、梨恵が1階に降りてきた。
何しに来たんだ、と一瞬慧はイラついたが、「手伝うよ」と注文を取りに行った姿を見て驚いた。
梨恵は注文を取ったり、出来上がった料理を運んだり、簡単な飲み物を作ったりの一連の作業を手際よくこなしている。頭はあまり良くないとしても、人間何か一つぐらいは取り柄があるもんだなぁ……と慧は思った。
最後の客がなんとか帰ってくれたのは、閉店時間をだいぶオーバーした午後11時半のことだ。
「梨恵ちゃん、手伝ってくれてありがとうね。ほんと、助かったわ」
暖簾をしまいながら秀美が言う。
ううん、と答えて梨恵はカウンター席に座りこむ。少し疲れている様子だ。
「すっかり遅くなっちゃったけど、晩ご飯にしましょう」
すると今岡は冷蔵庫から卵を取り出し、ボールに割り入れ箸でとき始めた。鶏肉と玉ねぎを刻み、だし汁をわかす。
『小松屋』で一番人気のメニューは親子丼である。やってくる客の9割が必ず注文するそれは、日本一だとの評判だ。
「よくやった」短い今岡の言葉に、感謝が込められていた。
いただきます、と一口食べて梨恵は「おいしい……」と感嘆の声を上げた。
「だろ? うちの父さんの親子丼は絶品なんだぜ」
学校を卒業して一人前の板前になれたら、この親子丼のレシピを教えてやる、と慧は今岡から言われている。それでいて、継父が梨恵にこの料理を出してやるということは、歓迎しているという意味なのだ。
黙々と食べている梨恵に、家で何があったのかと尋ねるのは無意味な気がした。
聞かなくてもだいたい想像はつく。
その後秀美は風呂を沸かし、梨恵に入るよう勧めた。
慧たち板前にはまだ、明日の仕込みをする仕事が残っている。
一通りの作業を終えて、やっとゆっくりできるようになった頃、パジャマ姿の梨恵が厨房に姿を見せた。
「……お前な……そんな格好でウロウロすんなよ」
寝る、とだけ言い残して今岡は厨房から出て行ってしまう。
「ねぇ、慧ちゃん」
「なんだよ?」
「男と女の友情って、あり得るのかな……?」それから「なんでみんな、梨恵じゃなくて、さくらばっかりなの……?」
「……」
慧は白衣を脱ぐと、梨恵に背を向けて階段を昇りはじめた。
「慧ちゃん!」
途中で足を止め、振り返る。
「じゃあ、聞くけどな。お前と俺は何なんだ?」そして「どうして優作なんだ? 俺じゃなくて」
今度は梨恵が黙る番だった。
「人に頼るのはやめて、自分自身に問いかけてみろよ。それが『考える』ってことだ」




