恋する女はおバカなのです
あまりにもバカ過ぎて、ちょっと引いてます……(笑)
梨恵も優作のことが好きなのだ。その事実がどういう訳か、さくらの胸にひどく重くのしかかっていた。
それと同時に家に帰る道中、帰ってからが大変なのではないかと危惧していた。
しかし父も妹も家に帰る途中はおろか、家に帰ってからも一言も口をきくこともなく、それぞれ互いの部屋に引き揚げた。
考えてみれば昼食の支度もまだだった。さくらが準備に取り掛かろうと台所に立っていると、
「さくら、あんた優ちゃんのこと知ってるの?」と、背後で尖った声がした。
梨恵と話すのは久しぶりだ。少しばかり嬉しくなって笑顔で振り返る。
「うん、クラスメートなの」
すると梨恵はギラギラと怒りを宿した瞳で
「何で黙ってたのよ!!」と叫んだ。
なぜ、と言われても聞かれてもいないし、話をしたくても部屋に引きこもってロクに会話もしないのは自分のせいではないか。
そういう理不尽を、正当な論理だと信じて疑わないのが梨恵という人間である。
「聞かれてもいないのに答えられないだろう」と、めずらしく双子のやりとりに聡介が口を挟んだ。
お茶をくれないか、と言って彼は居間のダイニングチェアに腰掛けて新聞を広げる。梨恵は何も言わないで、再び自分の部屋に引きこもった。
「有村っていったら、栗原地区で名の知られたあの旧家だろう。何か、玉の輿にでも乗ろうと思っているのか? ガキのくせに」
「お父さんたら……梨恵はそんなこと考えてないわよ」
単純に優作が梨恵の好みのタイプだったのだろう。
良い意味でも悪い意味でも、梨恵には裏がない。
「ところでさくら……お前はどうなんだ? その……誰か、好きな男はいるのか」
ドキっ、と心臓が跳ねた。思わず持っていたお玉を落としてしまった。
脳裏に有村優作の顔が浮かんで消えた。
「そ、そんな人いないわ!」声が上擦ってしまう。
そうか、と父は心底ほっとした声で言った。
「……しかし、そうだなぁ。さっきの今岡君だったか、ああいう男の子だったらお父さん、さくらをお嫁に出しても安心して任せていられるな」
「お父さん……私まだ、来月でやっと16なのよ?」
「16から結婚できるだろう。戦国時代の殿様やお姫様は、12、13歳で結婚していたんだぞ」
今は20世紀よ、とさくらはそれ以上父親の相手をしなかった。
そして父は父で、何を考え始めたのか次第に無口になっていった。
常識では考えらえないこと、常人は普通考えないことをやってのけるのが高岡梨恵という少女であった。目的のためなら手段は選ばない。
『小松屋』での張り込みをやめさせられた翌日の月曜の朝。
さくらが眼を覚ました時、いつも洋服ハンガーにかけてある学校の制服が見えなくなっていた。
まさかとは思うが、梨恵が着て出かけて行ったのか?
慌てて梨恵の部屋のドアを開けると、既にもぬけの殻だった。思った通りだ。
パジャマを着て外に出る訳にもいかず、さくらはとりあえずシャツとジーパンに着替えた。自転車もない。
どうしたものかと悩んでいる内に時間だけが過ぎて行く。
最終的に聡介に相談して、車で学校まで送ってもらうことにした。
優作はいつもバスで通学している。最寄りのバス停から学校までは歩いて5分程度。
今日は1時間目から体育だ。あまり運動が好きではない彼は、中学生の頃は名ばかり囲碁部に所属し、現在は立派な帰宅部である。
かったりぃな、と思いつつ歩いていると、正門の手前で後ろから「おはよう」と声を掛けられた。
振り返ると、西高の制服を着た梨恵が自転車を押して歩いていた。
まったく同じ顔と声でも優作には二人を見分ける自信があった。
それは2人が醸し出す独特の雰囲気に他ならない。
そして本人が気づいているのかいないかはわからないが、双子を見分ける決定的な肉体的特徴もある。
間違いない、これは妹の方だ。
まさかこんな真似をしでかすとは。
今頃、姉の方は制服がなくて困っていることだろう。
優作は呆れを通り越して怒りすら覚えた。
「お前、梨恵だろう?」
「えっ、ち、違うよ……」
「だったら、今日の時間割を答えてみろ。1時間目は何の授業だ?」
「……」答えられるはずもない。
それから優作はちょっと来い、と他の生徒達に見つからないように梨恵を近くの建物の物陰に連れて行った。
「優ちゃん……あたし、ずっと優ちゃんに会いたかった」
「俺は別に会いたくもなかった」
冷たい返答に梨恵の表情がゆがむ。
「どうして……?」
「お前、こんなことして高岡……さくらがどんな気持ちになるか、考えたことあるのか?」
「さくらなんて知らない、あたしはただ、優ちゃんに会いたかっただけ!」
「いい加減にしろ!」優作は努めて声を抑えながら、それでも怒りを抑えることはできなかった。「お前は自分を中心に世界が、地球が回っているとでも思っているのか?! 俺はお前みたいに、どこまでも自己中心的で自分勝手な人間なんて大嫌いだ!!」
あまりにも考えのない、梨恵のその子供じみた行動は優作を苛立たせるだけだ。
「制服を返して、ちゃんと自分の学校に行け。いいな?」
その日慧が登校した時、めずらしいことに梨恵の方が先に来ていた。
一番隅の席で肩を落とし、悄然と俯いている。
「よぉ、めずらしいな。こんな時間に教室にいるなんて」
いつもは遅刻ギリギリか、遅刻してくるのが当たり前なのに。
慧の声に顔を挙げた梨恵は眼にいっぱいの涙を浮かべている。
「どうし……うわっ!!」
いきなり立ち上がったかと思うと、梨恵は人目を憚ることなく慧に抱きつき、わんわんと声を上げて泣き出した。
周りで見ているクラスメート達はひゅ~と口笛を吹いたり、ニヤニヤと見守っている者もいれば、ひそひそと何か話し合っている生徒もいる。
困った。慧は梨恵の肩をつかんで、とにかく教室を出た。
今日の一時間目はサボりかもしれない。本当は真面目で優秀な生徒なんだけどな。
慧は梨恵を学校の敷地内にある自動販売機の前のベンチに座らせた。小銭を取り出して缶コーヒーを2本買う。
「ほら」
コーヒーを差し出しても梨恵は相変わらずグスグスと泣きやまず、鼻をすすっている。
その時、慧は気付いた。
(いつもと髪型が違う……)
いつもはセミロングの髪をポニーテールにしているのに、今日は髪をおろしている。
「まさかとは思うが……お前、お姉さんの制服を着て西高に行ったりしなかったか?」
「……なんでわかるの?」
慧は手のひらで顔を覆った。
「……この、バカ!! 何やってんだお前は!!」
「優ちゃんに会いたかったんだもん! それの何がいけないの?!」
「いいわけあるか! お前は本気で何考えてるんだ?!」と、叫んでから慧は自分の中で既に答えを見出していた。
優作に会いたかった、それだけだろう。
「……で、優作に怒られて泣いてたのか」
梨恵はこくん、とうなずくと「……嫌われちゃったみたい……どうしよう。あたし優ちゃんに嫌われたら生きていけないよ……」
つくづくと慧は思う。
こんなのが妹で、あのお姉さんはよくグレずに育ったものだ。ため息をつきながら彼は梨恵の隣に腰掛け、缶コーヒーを一口飲んだ。
「あのさぁ、梨恵。お前……優作にも言われただろ? もっとお姉さんの気持ちを考えてみろって」
「うん……」
「逆の立場だったらって、考えてみろよ。もしお姉さんがお前の大切にしてる……たとえば一番気に入ってる洋服を、勝手に着て出かけてみろ。どんな気持ちがする?」
「そんなの許さない」間髪入れず答えが返ってきた。
「……その許されないことを、お前はお姉さんに対してしたんだよ。わかるか?」
しかし梨恵にはピンと来ていないようだ。
「さくらってさ……何しても怒らないんだよね」
「なに?」
「昔っからそう。いつもヘラヘラ笑ってるだけで、怒った顔なんか見たことない。お父さんとお母さんがケンカしてる時だって、まぁまぁ、なんて言って笑顔でその場を収めちゃうんだよね。そうすると二人ともなんとなく何のことでケンカしてたのか忘れちゃうんだけど、でもそれって根本的には解決になってないじゃない?」
ただの頭の悪い子だと思っていた梨恵の口から、思いがけないセリフが出てきた。
驚くと同時に慧は、あのお姉さんならきっとそうだろうな……と思った。
幼い頃から観察力と洞察力に優れている慧は、一度会っただけだがあの家族の内情をだいたい読み取っていた。
父親は長女だけを愛し、次女を疎んでいる。長女は父親を心底敬愛にしているが、次女はまるで蛇蝎のごとく忌み嫌っている。
さらに彼女達の母親は幼い頃から、梨恵だけを甘やかして育ててきたのだろう。
しっかり者のさくらは放っておいても大丈夫だから、と。
「……お姉さんが怒ってるかどうかはともかく、だ。とにかく、お姉さんに謝れ」
(俺はこいつの父親か……?)
慧は胸の内で呟く。
梨恵は唇を尖らせた。もう泣きやんでいる。
「顔で笑ってても、心では泣いてることがあるんだ。お前にもいつか、そういうことが分かる日が来る」
「慧ちゃんて……なんか、大人だね」
「今頃気づいたのか? 大人の言うことは素直にきくもんだぞ」
うん、と梨恵はその時初めて素直に答えた。
「ちゃんと謝ったら、優作にも伝えておいてやるよ。梨恵も反省してるから、嫌わないでやってくれって」
「ほんと?!」単純なものだ。
さっきまでの涙はすっかり消え去っている。「今日帰ったらちゃんと、さくらに謝るから、だから……お願いね」
「ああ、わかった」
そう言って慧は時々優作にするように梨恵の頭をくしゃっと撫でた。そうしてから、子供扱いしてしまったことにキレられるだろうか? と一瞬考えたが、彼女の反応は思いがけないものだった。
「……ねぇ、今のもう一回やって」
「え?」
「今の、もう一回」
梨恵は慧の大きな手をつかんで自分の頭に乗せた。
恐らくだが、この子は父親にこんなふうに頭を撫でてもらったことがないのだろう。
そう思うと少しばかり憐れなような気もした。
「だーめ。もう一回やって欲しかったら、ちゃんと褒めてもらえるようなことしろよ」
「いいじゃない、慧ちゃんのケチ!」
バカな子ほど可愛いというが、たぶん今の自分の心境はまさにそれなんだろうな。
飲みかけの慧の缶コーヒーを奪い、梨恵はそれをごくごくと飲みほしてしまった。
父親の気分と同時に、淡い切ない気持ちが溢れてくる。何とも言えない気分だ。
その時ホームルームの終了、1時限目の始まりを知らせるチャイムが鳴った。