妻の裏切り:1
お父さんとお母さんはどうして結婚したの?
お父さんはな、お母さんの罠にはめられたんだよ。
本当は他に好きな人がいたんだ。それなのに……。
お母さんは私のことが嫌いなの?
いつもお父さんの味方をするから?
違うよ。あいつは嫉妬しているだけなんだ。
お前はいつもお父さんのために一生懸命いろいろしてくれるから、可愛いって思うんだよ。
でもお母さんは自分じゃ何一つしないくせに、お父さんが少しも愛してくれないって文句ばっかり言うんだ。
いつ、どのタイミングで離婚を切り出したらいいのだろう……。
がくん、と頭が揺れて高岡聡介は目を覚ました。
「だいぶお疲れみたいだね、聡さん」
原田刑事課長から声をかけられて、恥ずかしさに頬が熱くなる。
「すみません……」
「いや、こっちも無理を聞いてもらっているからな。でも、今日は非番だろう? 娘さんが寂しい思いをしているんじゃないのか」
「ええ……今日は、午前中で帰ると約束しています」
「そうか、ならそろそろ帰り支度をせんとな。子供との約束は守らないと」
課長は壁の時計を見つめながら言う。
はい、と聡介は苦笑した。
結婚の誓いは守らなくてもいい、と言われたような気がしたからだ。
そうして足取り重く帰宅すると、中から出てきた娘が飛びついてくる。
「お父さん、おかえりなさい!!」
「ただいま。ごめんな、少し遅くなったな……」
「ううん、大丈夫」
聡介は玄関を見渡した。靴が少ない。
「……あの二人はどうした?」
娘は首を横に振る。
あの二人とは妻ともう一人の娘のことだ。
「よくわからないけど、出かけちゃった」
「お前は置いてきぼりか?」
健気な娘は首を横に振る。
「違うの、お父さんが帰ってきた時に、1人じゃ寂しいだろうから、さくらが自分から留守番するって言ったの!」
「……そうか。ありがとうな、さくら。お父さんはお前さえいてくれたら……」
胸にこみ上げるものがあって、聡介は思わず娘の小さな身体を抱きしめた。
「お父さん、痛い……」
「あ、ごめんな」
少し力を緩めるが、離すつもりはない。
「なぁさくら、これからはお父さんと2人だけで生きていこうか……?」
今まで何度も、表現を変えては同じことを言ってみた。
けれどさくらは一度だって頷いてくれたことはない。
家族は一緒に暮らすものだ、と誰かが彼女に吹き込んだのだろうか。
同じ両親から産まれたのが信じられないほど、その双子の姉妹は何もかもが異なっていた。
同じなのは顔と声だけで、あとはまるで別人である。
先に産まれた方の姉のさくらは、父親である高岡聡介によく懐いてくれた。
稼ぎが悪いだの、学もなければ品もないなど、夫を常に見下し、まるで敬意を払わない母親の奈津子を反面教師にしたかのように、さくらはいつでも父親を深く敬い従順を示す。
後に産まれた妹の梨恵はといえば、すべての意味で母親に生き映しであり、常に母親の後にくっついて離れなかった。父親を軽んじ、まるで言うことを聞かない。
当然ながら、聡介はさくらを愛し梨恵を疎んじた。
彼の家庭は分裂していた。
それでもやはり子供には母親が必要だろう。
それに広島県警尾道東署刑事課に勤務する彼は、仕事柄家を不在にしがちで、そういう理由もあって自分一人で娘を育てる自信もなかった。
ところでどういう訳か、奈津子はあからさまに梨恵ばかりを可愛がった。
それでもさくらは母親に対しても父親と同じように接する。
こと家事に関しては一切手伝おうともしない妹とは対称的に、積極的に手伝いを申し出て母親を助けていた。
やがて長女が家事を覚えると、妻はそれらを長女に丸投げするようになった。
夫婦としては冷え切った関係であっても、娘達と母親はそう悪い関係でもない。
そうして聡介は仕事に打ち込み、やがて15年の歳月が経った。
広島県尾道市は瀬戸内海に面した山と海に挟まれた町である。
1年を通して比較的温暖な気候であり、狭い坂道と古い神社が目立つ。
高岡聡介は生まれも育ちも尾道で、高校卒業と同時に警察官を拝命した。
妻の奈津子とは警察学校の同期である。
彼女は聡介との結婚と同時に退職し、双子の娘を産んだ。
時折、娘達に聞かれても答えることができない質問が一つだけある。
お父さんとお母さんはどうして結婚したの?
……お母さんがお前達を妊娠したからだよ……。
それはたった一夜の過ちだった。
どうしてあの夜、あんなことをしたのだろう……?
本当はわかっている。つまらない対抗心と、くだらない野心だ。
県警本部長の娘である彼女を手に入れればきっと、望む以上の地位が得られる。
上意下達なんていう、くだらない縛りに歯噛みしなくてすむ。きっと思うように仕事ができて、もっとこの県警も良くなる。
だけど……そんなのは泡沫の夢であった。
若さゆえの暴走だったのかもしれない。
そのことに気付いた時にはもう、手遅れだった。
唯一の救いはさくらの存在だ。
どんなことがあっても、この子だけは幸せにしなければ。
そう心に決めたはずだった。
それは双子の娘達が中学を卒業した年の春休みのことだ。
その頃、高岡家は広島県内でも島根県との県境にある安芸高田市に住んでいた。
しかし春から、地元の尾道東警察署へ再度戻るという人事異動が決まっていたので、娘達は二人とも尾道市内の高校を受験して合格した。
新しい制服に袖を通すのを楽しみにしていたその頃、市内で連続して若い女性が暴行を受けた上で殺害される、という事件が発生した。
当然ながら、聡介は連日捜査本部に詰めていた。
やがて、捜査線上に一人の男が浮かび上がる。
その男は某有名メーカーの社員だった。エリートで知られ、優秀な社員として評判だった男に嫌疑がかけられたのは、襲われてたまたま通りかかった人に助けられ、未遂に終わった被害者女性の目撃証言による。
容疑者は犯行に失敗してから逃亡して県内のどこかで潜伏している。
刑事達は猟犬のように日々容疑者を探し、あちこちで張り込んだ。
しかし、もし被害者がさくらだったら?
張り込みの車の中で聡介は眠気と戦いながらそんなことを考えていた。
その日、聡介は容疑者が目撃されたという通報があったカプセルホテルの前で張り込んでいた。
朝から気温が低く、車の中にいても、寒さが足元から忍び寄ってくるようだ。
段々と苛立ちが募る。
交代の刑事がくるまであと10分。
捜査本部に戻ったら、家に電話をしてみようか。
さくらの声が聞きたい。
娘が元気で無事であることを確認したい。
なお、その目撃情報がガセであり、結局張り込みは徒労に終わったことが発覚したのはそのすぐ後のことだ。
そんなことはままある。
気を取り直すために、やはり娘に電話をしよう。
知らない男の人からお母さんあてに電話がかかってきた。
高校受験も無事に終えて来月からは高校生。
のんびりと解放感に浸っていた春休みのある朝。洗濯物を干し終えて、部屋に戻って久しぶりに本を読もうと考えたさくらは、居間の電話が鳴ったので受話器を取った。
「はい、高岡です」
『もしもし? 奈津子?』
父親の声ではない。父親でない他の男の声が、母親の名前を呼び捨てにしている。
さくらの声は、電話だとよく母親と間違えられる。
「……どちら様ですか?」
電話は無言で切れた。
なんとなくだが、さくらは嫌な予感を感じていた。
「どうしたの? 電話、誰から?」
「……なんか、間違い電話だったみたい」
胸騒ぎがする。どうしてだろう?
両親の仲が悪いのはごく幼い頃から知っていた。だけど、今まで他の男の影を母親に見ることはなかった。
昔はミス県警で男の人の引く手数多だったのよ、などと自慢することもあったが、少なくとも知らない男が母親に電話をしてきたのはこれが初めてだ。
父親に知らせようかと一瞬思った。
でも、今はそれどころではないかもしれない。
もう少し様子を見よう。
その日の夕方だった。洗濯物を取り込むためにベランダに出たさくらは、家のごく近くで不審な男を見かけた。
全身黒ずくめの服装とサングラス。野球帽を深く被り、さくらの方をじっと見上げていた。
気持ちが悪くなってさくらは慌てて家の中に入った。
しばらくして、電話が鳴りだした。今度は奈津子が出た。
母親は一瞬絶句した後、急にきょろきょろと周りを見回し始めた。
さくらが見ているのに気付き、
「あんたは部屋に戻りなさい!!」と強い口調で言う。
言われた通りさくらは部屋に戻った。ふすまを閉めると、奈津子がぼそぼそとしゃべっている声が漏れてくる。
何かおかしい。嫌な予感がしてならない。
「何よ、しけた顔して」
狭いアパート暮らしで、双子は二人で一つの部屋を共有している。ベッドに腹ばいになり、音楽を聴きながら雑誌を読んでいる梨恵がさくらに声をかけた。
「……なんか、知らない男の人がお母さんに電話かけてきたのよ」
「それがどうかしたの?」
「どうかしたって、梨恵! ……あんまり考えたくないけど……その……」
「彼氏かもしれないって?」
端的に言えばそういうことだ。
「いいんじゃない、別に」
梨恵は足をバタバタと動かしながら、ポテトチップスをつまんだ。ベッドの上でお菓子を食べるなと、あれだけ言われていても全然治らない。
「あんな小汚いオジさんと別れて、もっと若くて素敵な彼とやり直せばいいのよ」
「バカなこと言わないで! それに、私達のお父さんよ!? そんな言い方しちゃだめ」
さくらは声を荒げたが、梨恵はどこ吹く風といった顔で
「……さくらって、ほんといい子ちゃんよね」
それだけ言ってもうそれ以上、口を開こうとはしなかった。
電話が終わったようだ。
さくらはそっと襖を開けて、様子をうかがった。
奈津子は唇に拳をあて、それが考え事をする時の癖なのだが……熊のように居間の中を行ったり来たりしている。
「お母さん」思いきって声をかけてみる。
すると電流でも走ったかのように奈津子は震え上がった。
「あ、ごめんなさい……今日はお風呂、どうする?」
「え? お風呂……ああ、お風呂ね」
「今日も寒いから、お風呂入れようか。シャワーだけじゃ温まらないもんね」
母親はいつも長風呂だ。その間に、父親に電話しようとさくらは心に決めた。
まだ携帯電話が普及していないこの時代、仕事場にいる父親に連絡するには直接警察署へ電話をかけるしかない。
今は特に忙しいだろう。そんなことで電話をしてくるなと言われるかもしれない。
でも、黙っているのは苦しい。
奈津子が風呂場へ行ったのを見届けてから、さくらは受話器を取り上げた。
幸い、父親は本部にいた。
『さくらか? どうした』
なんとなくだが父の声は疲れているように感じた。
無理もない。連日の張り込みに加え緊張で気が張っているのだ。そんな気遣いがさくらの判断を狂わせた。
「……お父さん、あのね……その、着替えはまだ足りてる? ちゃんとご飯食べてる? 今日はね、お稲荷さんをたくさん作ったんだよ。そっちに持って行こうか?」
『ああ、ありがとう。まだ大丈夫だ。そんなに気を遣わないでいいんだよ』
「そう……」
無理しないでね、とだけ付け加えてさくらは電話を切ってしまった。