第75話 少女の涙
忘れた、ということすら忘れてしまったというのなら。
それは、存在の否定。
はじめから、なかった――そういうこと。
「――――きろ。起きろ、おい!」
鼓膜を乱暴に震わす怒声によって、私は目を覚ました。ほんの間近にあったのは眉を吊り上げた男の顔。その表情があまりに険しく、思わず小さく悲鳴が漏れた。
「なぜお前がここにいる!?」
そんな私の肩をがしりと掴み、男は声を荒げた。
突然のことに頭が混乱したが、徐々に記憶が鮮明になっていくにつれて、なぜ私が今こんな状況にあるのか理解することができた。
「ダリウス殿とシィンさんはどこだ! 答えろ!!」
そうだ。
私は、消えた筈だった。全ての記憶を取り戻し、現実の世界にはいられない筈だった。事実、私はあの時――再びこの体に火を放たれた時、消えた。
けれど、消えた筈の私のこの目に映ったのは現実世界のシィンとダリウス。生きることを諦めようとした青年と、その養父の姿だった。
死ぬなんて、許せなかった。沢山の犠牲を伴って得たこの世界を捨てようなんて。だから、だから私は――。
「おい! 答えろっ!」
顔を真っ赤にしながら、男は唾を飛ばす。その顔に浮かぶのは怒りの色。
本当のことを言うべきか迷った。嘘だと誤解されてしまえば、今にも掴みかかってきそうな剣幕だったからだ。けれど、私が伝えられるべきことは、たったひとつしかない。もっともらしい嘘を、わざと言ってしまうのは、無駄のように思えた。
「……消えたわ」
そう言った瞬間、男の顔がさらに赤くなった。血管の浮き上がった太い腕が、私のむなぐらを掴む。
「お前! そんな戯れ事を……っ!」
首が締まり、息ができない。振りほどこうにも、男の手はびくともしない。
「そんなわけあるか! お前が、お前が何かしたんだろう!!」
その言葉にいったい何の根拠があるのか、私には分からない。というよりも、すでに思考が働かなくなっていた。視界が白み、意識が途切れそうになる。
その時だった。
「違うよ!」
甲高い声が反響したと同時に、男の顔がふいに逸らされた気配がした。その手の力が緩み、私はその隙にそこから抜け出した。咳き込みながらも、声がした方向に目を向ける。
「違うよ。違うんだよ……。シィンは、シィンとダリウスは本当に……本当に消えちゃったんだよ」
そこにいたのは、焦げ茶色の髪を二つに結わえた少女。どこかで見たことがあると思いつつ、その動向を見守る。
「アイリ、お前なぜここに……」
男の低い声が、小さく響いた。そこには先ほどの怒気は含まれていない。それは心底驚いたというような口調だ。
男が少女の元へ歩み寄っていく。少女はどうやら泣いているようだった。しきりに鼻を啜る音が、狭い牢内に反響する。
「お前まさか、シィンさんのことを……」
少女の真ん前で屈み、男は少女の大きな瞳を見つめた。何かを悟ったかのように、優しく髪を撫でる様子は、いたわっているようにも見える。
「だって、だって……。シィンのこと、助けたかったんだもん、シィンは嘘なんかついてないんだもん……っ」
しゃくりあげながら、懸命に言葉を紡ぐ少女を見て、唐突に思い出した。
この子は、あの時の子だ。
あの時――リマオからミュラシアへと向かう途中に、シィンと一緒にいた所を遭遇した、あの子だ。確かに、あの時シィンは少女のことをアイリと呼んでいた。
「私、いつもいつもシィンのところに、来てたの。見つからないように、いつか、シィンこと、逃がしてあげようって……。でもシィン、足怪我してて動けなくって……」
男は黙って少女の言葉に耳を傾けている。私もまた、その少女から目を離せなくなっていた。
「今日も、そうしようと思ったの。でも、すぐにダリウスが来て……、シィンに、シィンに……剣を……っ。私、怖くて。シィンが殺されちゃうって分かったのに、隠れて、動けなくて……、そうしたら――」
そこまで言葉を搾り出してから、初めて少女がこちらを向いた。足元には、頬を伝ってこぼれ落ちた涙が、染みを作っている。
「――この人が、いきなり現れて、シィンのこと……助けてくれたの」
少女の視線に倣うようにして、男がこちらを向く。眉をしかめ、表情は険しいが、そこには先程まで私に向けられていた、激しい怒りの感情はない。
ほんの一瞬、男と目が合ったが、あっさりと逸らされ、再びその視線は少女の元へと戻されてしまった。
「……それで、それでダリウス殿とシィンさんは、一体……」
少女もまた、男に向き直り、鼻を啜る。
「シィンは、全部知ってるって。でも知っててもダリウスのこと、裏切れないって。だから、一緒に生きようって……【力】を……」
「……消えたのか」
男がゆっくり尋ねると、少女ははっきりと頷いた。
「シィンは、行っちゃったんだよ。もう、もう戻って、来ないんだよ……」
声を上げて泣き出す少女を男は胸に迎え入れた。焦げ茶色の髪を撫でる手は優しいが、その表情は茫然とし、瞳は虚空を見つめている。
私は立ち上がり、そんな二人の元へ近付いていった。一瞬、立ちくらみと目眩がしたが、それはさっき締め上げられたせいだろう。男が気付き、顔を上げる。
「……本当、なのか」
その言葉に頷く。それを見届けてから、男はがっくりと肩を落とした。そして、呻く。
「そんな、シィンさんの言葉は、真実だと……? ダリウス殿の言葉が、偽りだと……?」
そんな馬鹿な、と続けて男は頭を抱えた。俯き、泣き声を上げる少女を抱きしめたまま、しきりに頭を振る。信じ難い事実を、受け入れたくないとでもいうように。
「そうだとしたら、一体どこから? 欺かれていたというなら、始まりは一体どこから……?」
それは、私に向けられている言葉ではないようだった。男自身が、自問しているのかもしれない。
やがて、男は顔を上げた。その顔は蒼白で、目尻には涙が浮かんでいる。その口が、わなないた。
「では、本当に」
男の褐色の瞳が、私を見る。そこから涙が落ちた。途切れ途切れに吐き出される言葉は、震えている。
「あんたの、あの時の言葉は、真実だったと――」
瞬間的に、脳裏に鮮明に焼き付いたあの日の光景が蘇る。誰もが私を罵倒し、そして誰一人私の言葉を信じようとはしなかった。訴えた言葉は虚しく宙に漂うだけだった。そして代わりに受け入れられたのは、笑みを浮かべた老人の言葉。そうであったことは、はっきり覚えている。
それなのに――なぜだろう。あの時私が叫んだ言葉が、思い出せない。
「イリア殿を殺したのは、あんたじゃ……なかったのか……?」
「イリ……ア?」
その言葉を呟く。人の名だということは分かる。けれど、聞いたことのない名だ。
男が立ち上がった。そのまま近付いてくると、私の目の前で止まった。
「あんたは――」
目が、回る。
男の声が、近く遠く、定まらない。
何だろう、この感じは。このとてつもない、不快感は。
足元が、揺れた。
男が何かを叫んだが、それは私に届く前に、宙に消えた。