表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
92/104

第75話 少女の涙



 忘れた、ということすら忘れてしまったというのなら。

 それは、存在の否定。

 はじめから、なかった――そういうこと。








「――――きろ。起きろ、おい!」


 鼓膜を乱暴に震わす怒声によって、私は目を覚ました。ほんの間近にあったのは眉を吊り上げた男の顔。その表情があまりに険しく、思わず小さく悲鳴が漏れた。


「なぜお前がここにいる!?」


 そんな私の肩をがしりと掴み、男は声を荒げた。

 突然のことに頭が混乱したが、徐々に記憶が鮮明になっていくにつれて、なぜ私が今こんな状況にあるのか理解することができた。


「ダリウス殿とシィンさんはどこだ! 答えろ!!」


 そうだ。

 私は、消えた筈だった。全ての記憶を取り戻し、現実の世界にはいられない筈だった。事実、私はあの時――再びこの体に火を放たれた時、消えた。

 けれど、消えた筈の私のこの目に映ったのは現実世界のシィンとダリウス。生きることを諦めようとした青年と、その養父の姿だった。

 死ぬなんて、許せなかった。沢山の犠牲を伴って得たこの世界を捨てようなんて。だから、だから私は――。


「おい! 答えろっ!」


 顔を真っ赤にしながら、男は唾を飛ばす。その顔に浮かぶのは怒りの色。


 本当のことを言うべきか迷った。嘘だと誤解されてしまえば、今にも掴みかかってきそうな剣幕だったからだ。けれど、私が伝えられるべきことは、たったひとつしかない。もっともらしい嘘を、わざと言ってしまうのは、無駄のように思えた。


「……消えたわ」


 そう言った瞬間、男の顔がさらに赤くなった。血管の浮き上がった太い腕が、私のむなぐらを掴む。


「お前! そんな戯れ事を……っ!」


 首が締まり、息ができない。振りほどこうにも、男の手はびくともしない。


「そんなわけあるか! お前が、お前が何かしたんだろう!!」


 その言葉にいったい何の根拠があるのか、私には分からない。というよりも、すでに思考が働かなくなっていた。視界が白み、意識が途切れそうになる。

 その時だった。


「違うよ!」


 甲高い声が反響したと同時に、男の顔がふいに逸らされた気配がした。その手の力が緩み、私はその隙にそこから抜け出した。咳き込みながらも、声がした方向に目を向ける。


「違うよ。違うんだよ……。シィンは、シィンとダリウスは本当に……本当に消えちゃったんだよ」


 そこにいたのは、焦げ茶色の髪を二つに結わえた少女。どこかで見たことがあると思いつつ、その動向を見守る。


「アイリ、お前なぜここに……」


 男の低い声が、小さく響いた。そこには先ほどの怒気は含まれていない。それは心底驚いたというような口調だ。

 男が少女の元へ歩み寄っていく。少女はどうやら泣いているようだった。しきりに鼻を啜る音が、狭い牢内に反響する。


「お前まさか、シィンさんのことを……」


 少女の真ん前で屈み、男は少女の大きな瞳を見つめた。何かを悟ったかのように、優しく髪を撫でる様子は、いたわっているようにも見える。


「だって、だって……。シィンのこと、助けたかったんだもん、シィンは嘘なんかついてないんだもん……っ」


 しゃくりあげながら、懸命に言葉を紡ぐ少女を見て、唐突に思い出した。

 この子は、あの時の子だ。

 あの時――リマオからミュラシアへと向かう途中に、シィンと一緒にいた所を遭遇した、あの子だ。確かに、あの時シィンは少女のことをアイリと呼んでいた。


「私、いつもいつもシィンのところに、来てたの。見つからないように、いつか、シィンこと、逃がしてあげようって……。でもシィン、足怪我してて動けなくって……」


 男は黙って少女の言葉に耳を傾けている。私もまた、その少女から目を離せなくなっていた。


「今日も、そうしようと思ったの。でも、すぐにダリウスが来て……、シィンに、シィンに……剣を……っ。私、怖くて。シィンが殺されちゃうって分かったのに、隠れて、動けなくて……、そうしたら――」


 そこまで言葉を搾り出してから、初めて少女がこちらを向いた。足元には、頬を伝ってこぼれ落ちた涙が、染みを作っている。


「――この人が、いきなり現れて、シィンのこと……助けてくれたの」


 少女の視線に倣うようにして、男がこちらを向く。眉をしかめ、表情は険しいが、そこには先程まで私に向けられていた、激しい怒りの感情はない。

 ほんの一瞬、男と目が合ったが、あっさりと逸らされ、再びその視線は少女の元へと戻されてしまった。


「……それで、それでダリウス殿とシィンさんは、一体……」


 少女もまた、男に向き直り、鼻を啜る。


「シィンは、全部知ってるって。でも知っててもダリウスのこと、裏切れないって。だから、一緒に生きようって……【力】を……」


「……消えたのか」


 男がゆっくり尋ねると、少女ははっきりと頷いた。


「シィンは、行っちゃったんだよ。もう、もう戻って、来ないんだよ……」


 声を上げて泣き出す少女を男は胸に迎え入れた。焦げ茶色の髪を撫でる手は優しいが、その表情は茫然とし、瞳は虚空を見つめている。

 私は立ち上がり、そんな二人の元へ近付いていった。一瞬、立ちくらみと目眩がしたが、それはさっき締め上げられたせいだろう。男が気付き、顔を上げる。


「……本当、なのか」


 その言葉に頷く。それを見届けてから、男はがっくりと肩を落とした。そして、呻く。


「そんな、シィンさんの言葉は、真実だと……? ダリウス殿の言葉が、偽りだと……?」


 そんな馬鹿な、と続けて男は頭を抱えた。俯き、泣き声を上げる少女を抱きしめたまま、しきりに頭を振る。信じ難い事実を、受け入れたくないとでもいうように。


「そうだとしたら、一体どこから? 欺かれていたというなら、始まりは一体どこから……?」


 それは、私に向けられている言葉ではないようだった。男自身が、自問しているのかもしれない。

 やがて、男は顔を上げた。その顔は蒼白で、目尻には涙が浮かんでいる。その口が、わなないた。


「では、本当に」


 男の褐色の瞳が、私を見る。そこから涙が落ちた。途切れ途切れに吐き出される言葉は、震えている。


「あんたの、あの時の言葉は、真実だったと――」


 瞬間的に、脳裏に鮮明に焼き付いたあの日の光景が蘇る。誰もが私を罵倒し、そして誰一人私の言葉を信じようとはしなかった。訴えた言葉は虚しく宙に漂うだけだった。そして代わりに受け入れられたのは、笑みを浮かべた老人の言葉。そうであったことは、はっきり覚えている。

 それなのに――なぜだろう。あの時私が叫んだ言葉が、思い出せない。


「イリア殿を殺したのは、あんたじゃ……なかったのか……?」


「イリ……ア?」


 その言葉を呟く。人の名だということは分かる。けれど、聞いたことのない名だ。

 男が立ち上がった。そのまま近付いてくると、私の目の前で止まった。


「あんたは――」


 目が、回る。

 男の声が、近く遠く、定まらない。

 何だろう、この感じは。このとてつもない、不快感は。

 足元が、揺れた。

 







 男が何かを叫んだが、それは私に届く前に、宙に消えた。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ