第74話 消失
「――会いたい」
松明の炎が静かに点る薄暗い地下牢で、呪文のように繰り返した言葉を口に出す。
全てが終わった今、それだけが私の願いだった。
もう、消えてしまっても構わない。ただ、そんな投げやりな思いだけが、胸を占めていた。
しかし、その時異変に気付く。
会いたいと願う、彼の人の名前が思い出せない。もう喉までその人の名前は上がってきているのに、どうしてもあと一歩が足りない。思い出せない。
「会いた、い……」
なぜ、と焦る間もなく、浮かぶ疑問。
会いたい。
それが、私の願い。
それなのに、不安になる。曖昧になる。それは本当に私の願いなの?
なぜ願うのか、理由すらも分からなくなる。そして疑問だけがつきまとう。
会いたい?
一体誰に――?
私は、何を願っていたのだろう。
いつの間にか、頬を伝っていたのは、涙。それを流す意味すら分からないのに。
「……分からない」
顔を上げた瞬間、心臓が跳ね上がった。
そこにあったのは、見知らぬ顔。
銀髪と褐色の瞳を持つ青年が、私の肩を抱いている。私は、この青年を知らない。それなのに、目が離せなかった。その腕から逃れられなかった。
胸の奥がむず痒くなる。焦燥のようなものを感じる。その理由が分からないから、さらに焦る。
青年は微笑んでいた。しかし、褐色の瞳からは涙がこぼれ落ち、銀の睫毛が濡れ、頬に影を落とした。
刹那、脳裏に衝撃が走る。様々な出来事の思い出が瞬間的に巡る。
平和に暮らす私。
――とユナと三人で、笑いあう日常。
ユナの発作を助ける為に、私に【力】を貸してくれないかと請う――の顔。
誕生日に――がくれたピアス。
ある日突然訪れた、平和な日常の終わり。
捕まれる腕、人を人と思わぬ扱い。
涙。私の為に帝都に現れた――。そしてシィンとの出会い。
奇跡の始まり。
死んだという記憶を代償に手にしたチャンス。
――を助ける為に、奔走した日々。 【力】を持つ者達と持たざる者との戦。――は【力】を持つ者達を率いて現れた。説得することも叶わず、私は死を覚悟した。けれど、私は生還した。
あと少し。あと少しだった。――を救うという目的は、果たされることなく、一つの結末を迎えた。
悲しくて、悔しくて。
いっそ出会わなければよかったのかとも思った。でも、すぐにそんな考えを振り払う。
私の幸せは、――と共にあったから。
出会えて……良かった。心からそう思えるから。
それなのに、消えてしまう。
名前も、姿形も、思い出も、私の記憶の中から剥がれ落ちていく。それは加速し、止まることを知らない。
願っても、願っても。
やがて、それすら分からなくなる。消えていくという事実すら、薄れていく。
目の前の青年が、微笑んだ。
思わず呟く。
「――あなた、誰?」
見知らぬ青年の頬に、手を伸ばす。
しかし触れることは叶わず、次の瞬間、視界は暗転した。
暗闇の中、どこか遠くで、声がした。
その声は、私の名を呼んで、言った。
幸せに、と。
その声は、初めて聞く声だった。