第71話 シィンの気持ち
「シィン!」
それは、確かな音となって、その場所き反響した。
私の目に映ったのは、目を閉じていた間に、確かに見ていた光景。ダリウスが短刀を振りかざし、シィンはその切っ先をただじっと見据えている。そして、刃は今にも振り下ろされようとしていた。
避けて――そう言葉を発する前に、私の足は、腕は動き出していた。
「駄目よ!」
ただがむしゃらに二人の元にかけより、私はダリウスの両腕を掴んだ。振り下ろされるはずの刃が、空中でぴたりと止まる。
シィンを見やる。そのエメラルドグリーンの瞳が大きく見開いた。小さく口を動かす。それは私の名前を呟いたかのように見えた。けれど、それでも逃げ出す気配もないシィンに、私は思わず声を荒げた。
「あなた、諦める気なの!?」
ダリウスの腕に力が込められる。しかし老人のものであるそれは、私の腕でも何とか留めさせることが出来ていた。
私はなおも叫んだ。老人も何か叫んでいたが、耳には入らなかった。ただ真っ直ぐ、黒髪の少年だけを見据え、訴える。
「だとしたら、馬鹿だわ。イリアがあなた達の為に創った世界よ! 最後まで、足掻いて……生きなさいよ!」
死ぬ間際でさえ、イリアは恨み言を言わなかった。それは、彼が誰も恨んでいなかったからだ。あんな酷い怪我を負わされながらも、イリアはダリウスさえも恨んでいなかったのだ。
「イリアが願ったのは、叶えたかったのは、あなた達の幸せよ! それなのに死ぬなんて、許さない……!」
本当は、私はダリウスが憎い。イリアを死に至らしめた怪我を負わせたこの老人が、心底憎い。
でも、イリアが憎んでいないから――。
「シィン!」
もう一度少年の名を呼んだ瞬間、ダリウスの手から短刀が滑り落ちた。それはカラカラと音をたて、シィンの足元に転がっていった。
「は……! 何を言う為に現れたかと思えば、世迷い事を! シィン、それを取りなさい! 私がさ迷う亡霊を滅してくれよう」
同時に冷静さを取り戻した私の目の前で、ダリウスが叫ぶ。その嗄れた声が若干枯れている。
「シィン!」
ダリウスがシィンを見やる。微笑みかけているのか、その横顔は歪んで見えた
。
シィンがふらりと立ち上がる。やはり足を怪我しているようで、動作は緩慢だったが、その手を伸ばし短刀を取ると、足を引きずりながら私達の元へ歩み寄ってきた。
私が押さえつけていたダリウスの力は、既に緩んでいた。腕を離すと、老人はシィンに向き直る。そして、つい先ほどその手にかけようとしていた少年に向かって呼びかけたのだ。
「さあ、シィン。短刀を渡すんだ」
「シィン、あなた本当は分かっているのでしょう。自分がしたいことを」
歪んだ微笑みを浮かべる老人の隣で、私もまた向き直った。私達にとって、すでに力比べなど意味を持たない。後は、シィンがどちらを選ぶか、それだけだった。それは酷く勝算の薄い賭けでもあった。
「…………父さん」
そしてその瞬間、シィンの手から短刀が落ちた。はっと、隣で息を飲む気配がしたと思ったのと同時に、少年が勢いよく前に進み出る。その足が向かったのは――ダリウス。
「な、何を――」
シィンの腕がダリウスの体に回される。それは酷く優しい所作に見えた。けれど見た目以上に強い力のようでもあった。そんな中、シィンがこちらを見ずに私の名を呼ぶ。
「イリアのこと……ごめん。間に合わせてやれなくて、ごめん。でも、俺だって、助けたかったんだ。……本当だよ」
シィンの声を背に、老人の顔がみるみるうちにに怒りの色に染まっていく。少年の力に抗おうとするが、かなわない。
「離さないか! シィン!」
「あんたが、ダリウスのこと憎く思っているのは、分かるよ。……でも、それでも、あんたにダリウスのことを傷つけさせはしない。たとえ、間違っていても。たとえ、俺のことを……愛してくれなくても。あんたにとって、イリアが奇跡を起こしてまで救たい存在であったように、俺にとってダリウスは――大切な、父親だから」
ダリウスが喚く中、シィンは続ける。私はその横で、ただ静観するしかなかった。
「……俺は、ダリウスを……裏切れない。全部、全部知っているけれど、それでも――俺は、父さんを守るよ」
守る、とシィンは確かに言った。その意味が分からず、私は顔をしかめた。しかし、ダリウスは何かに気付いたのか、急に慌てふためく。
「やめろ……やめないかっ! 私の世界が……、やっと手に入れた、何者にも脅かされない世界が……!」
ちらりと少年の視線が私に向けられた。彼は、微笑んでいた。
「……俺は、生きるよ」
そう言って瞳を閉じるシィン。
その瞬間、はっとする。一つの推測が頭を巡った。やがてそれは、老人の言葉により確信へと変わる。
「離せ! 離せ、シィン!」
二人の輪郭がぼやける。それは、目の錯覚なんかじゃない。シィンが、【力】を使おうとしているからだ。
「行こう、……父さん」
「やめ……ろ! シィン……っ! うわ……あああ――」
ダリウスが叫ぶ。それまで聞いたことのないような、悲痛なものだった。
刹那――二人の体は消えた。老人の叫びの残響がまだ耳に残る中、私はただ一人、その場所に残されたのだった。




