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第70話 聞きたかった言葉





 ――シィン――



 聞いたことのある声が、湿気を含んだ空気を震わせたような気がして、俺は顔を上げる。一瞬その状況が理解できず逡巡してから、足に走る痛みで全てを思い出した。

 夢を見ていたのかもしれない。今、ここに至るまでの、長い長い夢を。


「…………はは」


 きっとそうだ。もう誰も、ここにはいない。あの時共に捕らわれの身となっていたチェリカ・ヴァレンシアも、ダリウスも。必要のない手駒は、容赦なく切り捨てる。俺は――もう彼に見捨てられたのだから。父親にも仲間達にも、俺は捨てられたのだ。


「……っ」


 悲しくないはずがない。ずっと一緒に過ごしてきたのだ。間違った道だと分かっていても、離れることを躊躇い、ここまで共に歩んできたのだ。悲しくないはずなど、ない。

 それでも、こうなることを選んだのは、この俺だ。もう、騙し続けることは出来なかった。仲間達にも、自分自身にも。

 この後、自分がどうなるのか想像して、すぐに止めた。サラやユナ・フェイト、イリアのことを考えればすぐにわかることだったからだ。

 全て、終わった――そんな虚脱感に襲われて、俺はその場に横になった。その時だった。


「……シィン」


 ダリウスの声がした。

 衣擦れの音や気配すら感じさせずに、白い衣をまとった姿は、目の前にあった。そして、彼は枯れ木のような手を、格子の中に差し入れた。


「馬鹿なことを」


 しかし、その手は俺が手を伸ばし掴もうとすると、するりと逃げていった。体を動かすと同時に、激しい痛みが足先から駆け上がってくる。


「痛むか、シィン。されど、その苦しみもすぐに終わる」


 何の抑揚もない声でダリウスが言う。その手には、いつの間にか鈍く光る短刀が握られていた。背後に灯る松明の炎が揺らめいた。


「私に逆らう人間には、死しか残されない。それは、お前も同じだよ」


 あまりに淡々と、残酷な言葉が吐き出される。

 俺は、ただ俯いている。何も出来ない。反論することも。懇願することも。泣き喚くことも。声を発することさえ。


「私は間違ってなど、いない」


 そんな中、ダリウスは声を大にして続ける。牢の中でうずくまる俺を、その窪んだ目で見下ろしながら。

 ガチャリと音がして低い金属音が響いた。牢の格子が開けられたのだ。ダリウスが歩み寄る。


「間違っていては、困るのだ」


 俯く俺の視界に映るのは、松明に照らされ浮かび上がったダリウスの影。短刀を握る手が振り上げられる。


「せめてもの情けだ。見せしめとなるのは辛いだろう。私が、終わらせてあげよう。イリア殿の死に心を痛め、後悔の末に自害をしたと、皆には伝えておく」


 死を宣告したその声は、酷く優しい。それはまるで、安らぎさえ感じさせるほどに。


「お前と出会い、私は夢を叶えることが出来た。持たざる者達が平穏に生きられる世界を創ることが出来た。もう、何者にも怯えることのない世界を」


 優しい声でダリウスは続ける。

 短刀を振りかざしたまま、ゆっくりと、言葉を紡いでいく。


「シィン、お前のことは忘れはしない。そして語り継がれるだろう。悲劇の改革者と共に歩んだ優しき介添者として」


 突然、涙が溢れた。

 これが最後なのだから、と言わんばかりに、涙が流れ出した。

 恐怖ではない。不思議と、恐怖を感じてはいないのだ。それはきっと、目の前に、すぐにそばにダリウスがいるからだ。彼こそが、俺に死を与えようとしているのに、俺は安心している。彼は、俺の父親だから――。


「ありがとう、シィン。愛している」


 それは、ずっと聞きたかった言葉。

 願い願って、やっと叶った、俺の願い。


「父さ……ん――」


 愛しているという、たったひとこと。

 ただ、それが聞きたかったんだ。

 瞳を閉じる。ダリウスの言葉を、噛み締めるように、頭の中で反芻させる。

 ああ。これで、もう――。


 ヒュッと風を切る音が走る。

 その瞬間だった。


 ――だめよ――


 また、声が聞こえた。

 幾度となく邂逅を果たし、自分自身の願いを叶えようとした彼女――チェリカ・ヴァレンシアの声が。


 ――諦めるなんて、だめよ――


 声が降ってくる。

 どこからともなく、高く、低く。


「な……お前、何故……!」


 次の瞬間、ダリウスが声を発し、俺は目を開けた。そして、その光景に目を見開く。


「まだ、消えるわけには……いかないのよ……!」


 目の前にいたのは、消えたチェリカ・ヴァレンシアだ。顔や手足は傷だらけで、衣服はすすにまみれている。

 それはまさにあの日と同じ姿だ。無実の罪で断罪される瞬間消えた、あの日のチェリカ・ヴァレンシアだ。

 チェリカ・ヴァレンシアは、短刀を持つダリウスの腕に掴みかかっていた。彼女とダリウスの力は互角だ。


「チェリカ・ヴァレンシア……」


 思わず、呟く。

 これは一体何度目の邂逅だろう。イリアだって、もういないというのに。


「シィン、あなた、諦めるつもりなの」


 ダリウスともみ合いながら、チェリカ・ヴァレンシアが息も切れ切れに叫ぶ。俺は動くこともせず、そんな光景を見ていた。


「だとしたら、馬鹿だわ」


 チェリカ・ヴァレンシアの手が、短刀を持つダリウスの手首を強く掴むと、それは乾いた音を立てて石畳の上に落ちた。そのまま俺の手元まで、短刀が転がってくる。


「イリアが、あなた達の為に、創った世界よ! 最後まで、足掻いて……生きなさいよ!」


 ダリウスの腕を掴んだまま、彼女が叫ぶ。俺は動けない。


「イリアが願ったのは、叶えたかったのは、あなた達の幸せよ! それなのに死ぬなんて、許さない……!」


「は……! 何を言う為に現れたかと思えば、世迷い事を! シィン、それを取りなさい! 私がさ迷う亡霊を滅してくれよう」


 ダリウスが俺の足元を見やりながら、チェリカ・ヴァレンシアに負けじと声を荒げた。

 俺は、短刀を拾い上げた。顔を上げると、ダリウスは不敵な笑みを浮かべていた。


「さあ、シィン……早く、それを!」


 顎でチェリカ・ヴァレンシアを指す。それが何を意味しているのか、俺は分かっているつもりだ。けれど、動けない。


「シィン!」

「シィン!」


 甲高い声と嗄れた声が、同時に俺の名前を呼ぶ。二人の顔を見る。青い瞳と窪んだ瞳は、まっすぐ俺を見据えている。俺は、その瞳に応えなければいけないのだ。


「俺は……」


 言いながら立ち上がる。足の痛みで一瞬ふらついたが、何とか立つことが出来た。短刀を手にしっかりと持ち、顔を上げる。

 ダリウスは笑みを浮かべている。俺はそんな彼の目を見た。ずっとずっと隣にあった、大事な存在である父の瞳を、まっすぐに見つめた。

 どうしようもなく、泣きたい気持ちだった。それでも、選ぶほかはない。俺自身がどうしたいのか、もう分かっているのだから。


「シィン、さあ、短刀を渡すんだ」


 優しい声。

 俺を諭す、優しい言葉。


「シィン、あなた本当は分かっているのでしょう。自分がしたいことを」


 チェリカ・ヴァレンシアは俺の心を読んだかのように、言い放つ。

 分かっている。分かっているから、こんなにも悲しい。


 酷く重い一歩を踏み出す。

 その後は、もう何も考えられなかった。ただがむしゃらに足を動かし、二人の元へと近づいた。

 満面の笑みを浮かべるダリウスと、涙を浮かべたチェリカ・ヴァレンシア。そんな二人の顔を見るのも、きっと、これで最後だ。


「シィン……、さあ、さ迷う亡霊を消そう」


 ダリウスが手を差し出す。

 目の前の二人は、既に掴みかかることなく静かに向き合っていた。そして、俺に視線を向けている。


「…………父さん」


 ダリウスが目を細め微笑む。

 俺は短刀を握る手を伸ばした。そして――その手を開く。

 乾いた音と共に、短刀は回転しながら後方に転がった。


 ダリウスとチェリカ・ヴァレンシアの表情が固まる。何が起きたのか理解できていないようだった。

 それと同時に足を踏み出す。両手を広げ、ダリウスの懐に飛び込み、俺はその体を強く掴んだ。


「な、何を――」


 腕の中でダリウスが叫ぶ。それでも、俺は離さない。

 腕の中でもがく年老いた父親の力は、酷く脆弱だ。けれど、俺や仲間達にとっては絶対的な存在だった。彼の言葉は全てが正しく、行うことは全てが正義だった。

 そのことに疑問を持ったのは、いつからなのか。

 それは多分、彼女に、チェリカ・ヴァレンシアに出会ってからだ。偽ることも諂うこともない、彼女の想いを、生き方を見て、気付いてしまったんだ。俺の生き方は、間違っていると。



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