追憶 ---少年と老人・4---
「ごめんください。あの、だれかいますか?」
それは、老夫婦の家にやってきてから一週間ほど経った、ある日の昼下がりのことだった。玄関のドアがノックされるのと同時に、聞き覚えのある高い声がして、俺は顔を上げた。
玄関に向かった老女が扉を開けると、そこにはひどく懐かしい顔があった。
「お兄ちゃんがここにいるってきいたから」
思わずのけぞり過ぎて、椅子から転がり落ちる。しかし痛みは忘れていた。すぐそこに、見知った顔がある。ただその事実が、まだ傷の治りきらない足を動かした。
そんな俺の様子を、老夫婦は目をまん丸にして、見送っていた。大丈夫かい、と手を差し伸べられたのが視界の端に入ったけれど、それさえも押しのけて、俺は彼女の元へと向かった。
「アイリ!」
そこにいたのは、アイリだった。懐かしく、愛おしい少女の姿がそこにはあった。
「お兄ちゃん!」
アイリが俺に気付いて声を上げた。その大きな瞳が潤んでいたのは、気のせいじゃない。すぐ目の前に、俺のすぐ目の前にアイリがいる。本当に、アイリだ。
目頭が熱くなった。もう会えないかと思ったんだ。それが今、目の前に。
アイリの小さな体を抱きしめながら、その温かさを確かめる。ああ、良かった。生きていて、良かった――。
「お兄ちゃん、しんぱいしたよ……! 私もおじいちゃんも……っ」
その言葉に、俺は涙を拭い顔を上げた。そんな俺の顔をまっすぐ見据えるアイリ。瞳は潤んでいるが、浮かべているのは満面の笑みだ。
「無事なのか、みんな――!」
思わず声が大きくなったことに気づいて振り返ると、老夫婦もまた、柔らかな笑みを浮かべていた。
「ご家族が迎えに来てくれたのね。よかったわねえ……!」
「ずっと元気がないようだったけれど、やっと笑顔を見せてくれたなあ。良かった、良かった」
そう言われることで初めて、俺はこの二人とろくな会話をしていないことに気がついた。いくら不安で、寂しくてたまらなかったからといっても、こんなにも親切にしてくれたのに。思ってみれば、名乗ってもいない。
謝ろうと口を開きかけた瞬間、老人は口元に人差し指をあてた。
「いいんだよ、謝らなくたって。わしらはしたいことをしただけだ。それよりも、君が笑えるようになって良かった。本当に心配していたんだよ。一体どんな酷い目に遭ってきたのだろうと」
「そうよ。ご家族が来て下さったというなら、ご家族のところにお戻りなさい。それが、体の傷にも、心の傷にも一番だわ」
老夫婦が交互に口を開く。なんだかその二人の優しさが嬉しくて、自分の馬鹿さ加減が情けなくて、また涙がこみ上げてきた。
それを見られたくなくて俯くと、そこかしこに巻かれた包帯が目に入った。それも、この二人が毎日取り替えてくれていたのだ。礼を言うことも、名乗りもしない、こんな恩知らずな俺の為に。
「……ありがとう」
小さく呟いた。聞こえたかどうかは分からない。確かめようと、少しだけ顔を上げた。二人は微笑んでいた。
「ほんの少しの間だったけれど、孫が出来たようで嬉しかったわ。ねえ、あなた」
「そうだなあ。もしこの町を訪ねてくるようなことがあったら、遊びにおいで。ああ、包帯は毎日取り替えるんだよ。化膿してしまったら大変だからね」
微笑みながら近づき、老夫婦は俺の手を取った。その温かさがまた、心に染み込んでいく。
鼻を啜り、立ち上がる。アイリの小さな手をつかみ、俺は扉の前に立った。
「ありがとう……ございました」
深く一礼してから、扉を閉めた。扉は乾いた音を立てて、ゆっくりと閉まっていった。
優しい老夫婦。
助けることになんのメリットもない俺を――【力】を持った俺を、介抱してくれた。まるで、肉親のような温かさを持った二人だった。
「……ィン。シィン」
ぼうっとする俺の服の裾を、アイリが引いた。俺はひざまずいて、改めてその 小さな体を抱きしめた。
「アイリ……!」
腕の中で、アイリがくすくすと笑ったので、俺は腕を緩め、覗き込んだ。アイリは泣き笑いの表情を浮かべて、俺の服を強く掴んでいた。
「よかった、よかった。シィンが無事で。私、私はずっと信じてたもん。シィンが死んじゃうわけなんてないって」
「……ごめんな、アイリ」
「だから、私さがしたんだよ。いっしょうけんめい、さがしたんだよ。そうしたら、この町でシィンのけはいがしたから……っ」
アイリの小さな体は、小刻みに揺れていた。随分と心配をかけてしまったことに、申し訳なさを感じながらも、探してくれていたということに嬉しく感じながら、もう一度強く抱きしめた。
「……うふふ、お兄ちゃんなんてはじめて呼んだよ。ダリウスがね、そうしたら喜ぶし、あやしく思われないよって。急いでシィンを迎えに行っておいでって」
「ダリウスが……」
ああ、なんていう日なのだろう。こんなにも、生きているということを嬉しいと思ったことはない。
俺を待ってくれている。みんなが、ダリウスが――。
涙が出た。
早く帰りたい。
みんなに、会いたい。
ダリウスに――父さんに、会いたい。
ラスツールでレイヴェニスタ軍に襲撃されてから、仲間達は散り散りになって逃げたのだと、アイリは説明してくれた。そして今度は聖堂のある町、ミュラシアに集結しつつあるという。
ラスツールよりも、さらに帝都に近づいていることを意外に感じながらも、再びダリウスに会えることに、俺は胸を踊らせていた。
一度は死を覚悟した身だ。それはまさに奇跡にも感じた。
「シィン!」
ミュラシアに辿り着いた俺とアイリを迎えたのは、目に涙を浮かべた仲間達だった。
「良かった! 無事だったのね!」
「シィン、心配したぞ!」
みんな、俺の無事を心から喜んでいるように見えた。けれど、そこにダリウスの姿はない。
「さあ、行きましょう。ダリウス殿がお待ちです」
俺はみんなに誘導されるまま歩き出した。ふと、不安になってアイリの手を強くつかむ。それを不思議に思ったアイリが俺の顔を見上げたけれど、それを直視することは出来なかった。今、この胸の内に急速に広がる不安を、悟られたくなかった。
「おお、シィン!」
聖堂の扉を開けたその先に、ダリウスはいた。身に纏った白い衣は、ステンドグラスから差し込んだ色とりどりの光で染まっている。
「良かった、本当に無事で良かった……」
ゆっくりと、ダリウスが俺の元に近付いてくる。それなのに、俺は動き出せないでいた。会いたくてたまらなかったはずなのに、足が動かない。
俺の目の前に止まるダリウス。その皺だらけの手が俺の頬に触れた。俺は顔を上げられなかった。
「……良かった」
そう小さく呟いたきり、ダリウスは黙り込んだ。
思わず顔を上げて、初めてその時ダリウスが涙を流していることに気がついた。
「ダリウス……!」
その瞬間、それまで感じていた不安が消え去っていった。それと同時に、俺はダリウスの体にしがみつくように抱きついた。
俺の頭を撫でる手は、優しく温かい。
ダリウスの手は、父親の手だった。その瞬間まで、確かに――。
「ああ、これで我らの願いが潰えることはなくなった!」
その言葉の意味が分からず、俺は逡巡した。答えを掴めない俺に対し、ダリウスは続ける。
「破壊の【力】を持つ人間が現れただけでなく、シィンまでもが帰ってくるとは」
俺の頭を撫でていた手を大仰に広げ、ダリウスは笑った。先程までの涙が嘘であったかのような表情だった。
「シィン、帝都で見てきたことを話しなさい。ああ、それよりもまずは移動しよう。もしまた軍に見つかってしまったら、我らの大願は叶わない」
視界がぐらりと揺れた。その言葉が同じ口から出たとは思いたくなかった。 ダリウスは、笑っている。
俺が無事だったから、喜んでいるのではない。俺の持つ【力】を失わずにすんで喜んでいるのだ。
必要なのは、俺じゃない。
必要なのは、この【力】――。
「さあ、シィン」
ダリウスが手を差し出した。
もし、この手を取らなければ、どうなるだろう。ダリウスは俺を愛してくれるだろうか。【力】があると知られる前の、普通の父子のように、愛してくれるだろうか。
「ダリウス……」
悲しいけれど、きっとそれはない。拒めば、きっと捨てられる。
そうしたら、俺はどうなる? この広い世界でたった独り、さまよわなければいけないのか?
帝都の地下牢に捕らえられていた時のことが脳裏に浮かぶ。
【力】を持つというだけで受けた数々の暴力。【力】を持つというだけで、自分が悪いとさえ思ってしまう無数の暴言。
体が震えた。
あの時の恐怖が蘇った。
「シィン」
【力】を使うことを拒む――そんなこと、俺には出来ない。
独りでなんて、生きられない。
差し伸べられた手を取らない理由は、なかった。