追憶 ---少年と老人・3---
俺よりも先に牢から出されたのは、チェリカ・ヴァレンシアだった。出された、と言っても解放されるわけではない。それは、命の最後のカウントダウンの始まりを意味していた。
チェリカは夢から無理矢理目覚めさせられ、引きずられるようにして連れられていった。ここを出される瞬間、目が合ったけれど、悲しい顔をしていた。
次は俺の番だ。
痛む体を横たえ、目を閉じた。ひんやりとした石畳の冷たさが背中に伝わる。
どれほどそうしていたのか、こんな状況にも関わらず、まどろんできたその時、ズシンと大きな衝撃が地下牢を襲った。
慌てて起き上がり、辺りを見渡す。そこで思わず俺は目を見開いた。天井が半分ほど崩れ、格子がぐにゃりと曲がっていたからだ。それにも関わらず、見張りの兵がここに現れる気配もない。
それは絶好のチャンスだった。このままでは殺されてしまう。それを免れる為の、最初で最後の好機だった。もちろん、それを逃すわけもなかい。
俺は、体の痛みも忘れて立ち上がった。曲がった格子に手をかけ、力を込めると、難なくして人一人くぐり抜けられるほどの隙間を作ることが出来た。
その時、俺には外で何が起きているのかなんて、分からなかった。恐らくは天災なのだろうと、地上への階段を上りながら考えていた。自分はなんて運がいいんだろう。軍に捕まって、逃げることが出来たのは、きっと俺くらいなものだ。そんなことを考えて、思わず笑みが漏れた。
けれど次の瞬間、俺は思わず息をのむことになる。地上に出た俺が見たその光景――それは地獄だった。
人が沢山死んでいた。血の海に横たわり呻く人間が何人いたことか。しかもその中には、女や子供もいた。
地面はひび割れ、そこかしこに瓦礫が転がっている。家々は赤く燃え上がり、黒煙を吐き出していた。
「な……なんだ、これは……」
酷い臭いが鼻をつき、俺はその場で嘔吐した。
それまで感じていた小さな幸福感や、その異様な状況に対する好奇心はいつの間にか吹き飛んでいた。なによりも勝っていたもの、それは恐怖だ。早く逃げなければ――そう本能が告げていた。
それなのに、足がすくんで動けなかった。胃が持ち上がるような感覚に何度も襲われて、そのたびに吐いた。
再び突風が吹き荒れたのは、それからすぐだった。同時にガラガラと激しい音が鳴り、辺りの城壁が崩れ落ちていく。
そこから、一体どのようにして逃げたのかは、よく覚えていない。無我夢中に、がむしゃらに走り抜けたのだろう。
ただ一つだけ。俺は、広場を横切った。そこで見たんだ――その惨劇の中心で、涙を流すイリアの姿を。
ラスツールの本拠地には、誰もいなかった。軍に見つかっているのだから、当然と言えば、当然なんだけれど。それでもやっぱり悲しかった。俺を待っている人間なんていないんだ、とネガティブに考えたりした。
途方に暮れるしかなかった。みんながどこに行っているのか、見当もつかなかったからだ。それから思い出したかのように体中が痛み出し、俺は座り込んだ。
「……ダリウス」
思わず涙が出てきた。これから一体どうすればいいんだろう。誰も知らない、【力】が許されないこの世界で、たった一人で生きていかなければいけない。そう考えただけで、体が震え出した。
「おや、君。どうしたんだい?」
そんな声が降ってきた時、俺は一瞬期待して顔を上げた。その声が嗄れていたからだ。ダリウス、と口元まで出かかったところで止めた。そこにいたのはダリウスではなかった。
目の前に立っていたのは、いかにも人の良さそう顔をした老人だった。しかし、彼は俺の怪我を見るなり、目を見開いた。
「酷い怪我じゃないか! 手当てをしなくちゃいけない! さあ、こっちにおいで!」
彼は皺だらけの手で、俺の腕をつかんだ。枯れ枝のような腕だったけれど、力は強かった。加えて言えば、それに抵抗する力すら俺には残っていなかった。怪我はもとより、腹が減って仕方がなかったんだ。
「まあ! どうしたの、その怪我……! 取りあえずお入りなさい!!」
質素なたたずまいの一軒家で、老人を出迎えたのは、おそらく彼と同じくらいの歳だろうと思われる老女だった。俺はなされるがままに、室内へと入っていった。
居間の椅子に腰掛けるように促され、俺は言うとおりにした。テーブルの上に置かれた皿からは、湯気が立ち上っている。首を伸ばして覗き込んでみると、それは野菜がゴロゴロと入ったスープだった。どうりでうまそうな匂いがしたはずだ。
「さあさ、食事の前に手当てをしてしまいましょう。少ししみるでしょうけど、我慢してちょうだいね」
部屋の奥に行った老女は、その手にガーゼやら包帯やらを持って戻ってきた。そして椅子に座る俺の前に屈むと、濡れたガーゼを足の怪我にあてた。瞬間、飛び上がるほどの痛みが、足から駆け上ってきた。
思わず力む俺の肩に、老人が手を置いた。何だかその温かさが心強かった。
年老いたわりにテキパキとした動きで、老女は俺の怪我という怪我にガーゼをあてがい包帯を巻いていった。
「ふう。とりあえずはもう大丈夫でしょう。それにしても、こんな酷いけが……一体どうしたの?」
老女の質問に、俺は答えなかった。正直に答える訳にはいかないのだ。【力】を持つ者として通報されたらたまらない。もう、あんな目にあうのは嫌だった。
けれど、そんな俺に対して、二人はそれ以上問い詰めたりはしなかった。何だか、そこで張りつめていたいた緊張の糸が切れてしまったのか、涙が出てきた。
身元不詳の怪我人である俺に突然泣かれて、あの老夫婦さぞかし驚いたことだろう。けれど二人は何も言わずに、俺に食事を与え、温かな寝床を用意してくれた。
その夜、布団に入りながら、色々なことを考えた。
今、みんなはどうしているだろう。全員無事に逃げられただろうか。ダリウス――ダリウスはどうしているだろう。俺はここにいるよ。俺は、ここにいるんだよ。
「……父さん」
小さく呟く。俺がまだダリウスに【力】があることを明かす前には、そう呼んでいた。まだあの時は、父と子として、その辺にいる普通の親子のように接していたのだ。
仲間、同士、指導者と協力者。それが今の俺とダリウスの関係性。指導者を失うわけにはいかないから、守った。
でも、本当は俺――。
「……寂しいよ……」
隣の部屋で眠る老夫婦を起こさないように、俺は声を押し殺して泣いた。