第67話 記憶の再演
ごめんなさい。
あなたを救えなくて、
――ごめんなさい。
それは、戻る筈のない記憶の一片に、確かに刻まれている声。
急激に意識が遠のいていく。
ううん、違う。
この感覚は――。
「イリア!!」
目の前で崩れるイリア。
その腹からは、兵士の一人が突き刺した長剣が覗いている。
同時に十字架に張り付けにされた私の足元に、火が放たれた。
それは過去の出来事である筈だった。しかし今、まさに現実として、その過去が目の前で繰り広げられている。
夢ではない。
確かな痛みと苦しさをもって、私はあの日の私として、今ここにいた。
「チェリカ……」
イリアが顔を上げた。口元は血で染め上げられている。
その声に答えようとするも、声を出すことが出来ない。炎の熱気と煙とを吸い込んだ喉は、既にその役割を果たせそうもなかったのだ。
イリア、あなたを助けたいのに、私はそれを止めることも出来ない。
悔しくて、涙が出た。
危険を冒し、ここまで来てくれたのに、私はその思いに答える事が出来ない。
私はもう――死んでしまうから。【力】を現したあなたを置いて、死んでしまうから。
シィンの【力】で得た僅かな可能性でさえ、何の意味も持たなかった。結局どう足掻いたって、私はイリアを救えないのだ。
こんなにも、こんなにも願っているのに、私の願いは叶わない。
(私の、願いは)
炎に焼かれた喉で吐き出せたのは、ほんの少しの空気だけ。音にはならなかった。
(イリア、あなたを――)
それは、途方のない願いだったのだろうか。
それは、あまりにおこがましい願いだったのだろうか。
それは――。
(――救いたかった)
視界が、暗転していく。
音が消え、静寂に包まれる。
もう、全て――終わり。
そう思った。
『あなたを――救えなくて、ごめんなさい』
その時、聞き慣れない声が頭に響いた。
音のない世界で聞こえたその声は――女性のもの。暗闇が支配する視界の中には、ぼんやりと光が浮かんでいた。やがてその光は人の姿を成し、私の眼前に進み出た。
「だ……れ?」
焼けただれ、空気しか吐き出せなかった喉で、唐突に声が出せた。しかし、その問いかけは、その光には届いていないようだった。
その間にも、人の姿を成した光はどんどん色味を帯びていく。
「……!?」
光を纏い、私の目の前に立つ人影。その姿は、イリアによく似ていた。その性は女性に他ならなかったが、艶やかな銀の髪も、褐色の瞳も――イリアに、似ていたのだ。
『ごめんなさい』
もう一度、イリアに似た女性の影が呟く。細い手で顔を覆い、俯いた。
『あなたは、生きたいと願ったのに……私だけは、あなたを覚えていなければいけなかったのに』
手を伸ばす。
十字架に括りつけられていた私の体は、いつの間にか自由を取り戻していた。
『シオン……ごめんなさい』
長い銀髪に触れる。
泣きながら言葉を吐き出すその姿は、酷く儚げに見えた。
幻――としてはおかしなものだ、と思う。死の際に見る幻は、もっと違うものだと聞いたことがある。自分が今まで生きてきた軌跡を垣間見るようなものだ、と。
断言出来る。私はこの女性に会った事はない。彼女によく似た人であるなら、それは別だけれども、それにしても不可思議だ。
それとも、これは――別の人間の死に際の夢なのだろうか。
『ごめんなさい――』
女性の嘆きは叫び声となって、耳をつんざいた。私の声も、この手の感触も届いていない様だ。
ただただ涙を流し、ただただ贖罪の言葉を吐き出す女性。
何をこんなに悔いているのだろう。
何が彼女をこんなに苦しめているのだろう。
私がそれを知る術は無い。無い筈なのに、目頭が熱くなった。鼻の奥がつんと痛んだ。
まるで彼女の心に同調する様に、私の心までもが、言い知れない悲しみに覆われていく。理由も分からないのに涙が出てくる。流すつもりもないのに、涙はどんどん溢れていった。
脳裏に浮かぶのはイリアの笑顔。
儚げな笑みを浮かべ、幸せだと言い切った彼の最期の顔。
「イリア」
思わず呟く。
その時、目の前で嘆き悲しんでいた女性と、初めて目が合った
涙を浮かべた褐色の瞳には、確かに私が映っている。
『私は、救いたかった……』
私の目を真っ直ぐ見据えながら、女性が言葉を紡ぐ。
それは同じ願いだった。誰かを救いたいという、たった一つの願いだった。 けれど、私は知っている。
私の願いは叶わない。ただ一つの願いは露と消えた。
『……あなたも、救えなかったの?』
潤んだ瞳を向け、女性が言う。
まるで、私の心を読んだかのようなタイミングだった。
『あなたも、大事な人を失ったのね?』
褐色の瞳から溢れ出した涙が、一筋流れた。その白い手が伸ばされる。
『私達、同じなのね。同じ【力】を持つ彼を救えず、ここに迷い込んだ。……この夢の中に』
細い指が、私の頬に触れた。
女性の顔はすぐ目の前だ。形の良い口が紡ぐ言葉を、私は――覚えている。
そう、鮮明に――今、思い出した。
『その悲しみが、後悔が、そして願いが、あなたをここに導いた。……悲しいのでしょう? 後悔しているのでしょう? 願わずには、いられないのでしょう?』
冷たい指が、つうとなぞる。
くすぐったいというより、その冷たさだけが頬に残った。
『……ねえ、彼を助けたいのでしょう?』
あの日、シィンは言った。
私は奇跡を起こしたのだ、と。
消える筈の運命をねじ曲げ、存在出来た理由。その理由に、全て忘れていた頃は気付ける筈もなかった。
けれど、全て思い出した今、全てに辻褄が合った。
「救いたい」
問われた答え。
いつ、そして何度聞かれても、それが変わることは無いだろう。
そして、だからこそ――。
『……一緒に、行きましょう』
刹那、視界が白く弾けた。