第66話 涙と炎
おそるおそるシィンの口から出た言葉は、何度も区切られているせいか、酷くたどたどしく感じた。同時に広場には、とてつもない緊張が走る。
「彼女は……イリアの大切な人なんだ」
シィンが私に指先を向けた。それにならう様に、人々の視線も私に集められた。
刺さる様な視線だった。誰もが憎しみを込めた目をしている気がした。
でも、私は俯くわけにはいかなかった。目の前で震える指先を向ける少年の為にも。そして、私自身の願いの為にも。
「そして本当なら、俺達の仲間だ。彼女は……【力】を持ってる。病を癒やす【力】を」
広場がざわめいた。
誰もがにわかには信じられないといった顔をしている。
「彼女だけが、イリアを救えた。その【力】で、救える筈だったんだ……」
シィンが俯く。
その視線の先には、白い棺で眠るイリアに向けられている。 しかし、人々にシィンの言葉の意味は理解出来ていない様だった。
――当然だ。
彼らは、きっと知らない。いや、知らされていないのだろう。
シィンでさえも、自分で気付いたのだと言っていた。イリアの【力】が病であるという事に――。
「……イリアは病に冒されていた。みんなだって、ほんの少しくらいは、心当たりがあるだろう?」
広場に飛び交っていた野次が、少しだけ小さくなった。シィンの言葉に思う所がある人は少なくない様だ。
「イリアはここに至るまでに、何度となく倒れた。血を吐きながらも、それでも俺達の為に【力】を使ってくれた。……その【力】が病の症状であるなんて、知らずにね……」
人々が息を飲む気配がした。
「【力】を使えば使うほど、病状は悪化していく、そんな病だったんだ」
シィンは大きく息を吐いた。
私にあの時告げたイリアの【力】の真実を、今度はそれを知らずに【力】を求めた彼らに、シィンは語った。
「ち、ちょっと待って下さい、シィンさん! そんな事を俺達に信じろっていうのですか?」
少しだけ震えた声で言葉を挟んだのは、先程までシィンに対して掴みかかろうとした男だ。
「そんな、馬鹿な……あの【力】が、病だなんて……。――ダリウス殿」
男の顔は蒼白だった。彼もシィンの言葉に心当たりのある人間なのだろう。
男はシィンとダリウスを交互に見た。老人は長い髭をさすり息を吐いた。
「……惑わされるな」
短く、一言。
しかし、重々しく発されたその一言は、シィンの言葉に動揺する人々の迷いを拭い去るには十分だった。
「……シィンさん、あなたはそうまでして」
「イリア殿まで、愚弄するのですか……?」
「そんな嘘を――」
ダリウスの放ったたった一言は、辺りの空気を一変させた。
シィンの言葉を信じかけていた人々の表情は、打って変わって、怒りや悲しみの混じったものに変わっていく。
彼らにとって、指導者たるダリウスはやはり指導者で、シィンはその補佐役に過ぎない事の表れだった。
「シィン、私を失望させるな」
低く、唸る様な声で言って、老人は足元に転がる松明を手に取った。辛うじてまだ燃えているそれを、シィンに差し出す。
シィンは、松明を見やり、顔を上げた。何か言いたげに口を動かしたが、言葉になる事はない。
「これで、最後だ」
ダリウスが体側におかれたシィンの手を取り、燃え続ける松明を握らせる。そして、シィンがそれを持った事を確認すると、細いその体を抱き寄せた。
びくりと肩を震わせた少年の体は、漆黒の衣を纏う、枯れ枝の様な腕に包まれた。
少年の黒髪を、老人が撫でる。
抱き寄せた体を、これでもかと言わんばかりに、老人はきつく抱き締めていた。
それは、駄々をこねる子供を宥める、親の様に見えた。
きっと、誰もがそう思っている。
親子の美しい絆を、誰もが信じただろう。
「……今更真実を述べてどうする?」
――しかし、その声は私の耳に届いた。
抱き寄せたシィンの耳元で、邪悪に囁かれた老人の言葉。シィンの体越しに、私に視線を向けながら、微かに――。
「惑わせて、全て崩壊させる気か? それをイリア殿が望むとでも?」
微かな、微かな声だった。もしダリウスの顔が私に向けられていなければ、届かなかったかもしれない程――もちろん、その言葉に周囲が気付ける術はない。
シィンが手に持つ松明はゆらゆらと炎をともしたまま、静けさの中でぱちぱちと爆ぜた。
「イリア殿の創り出した安寧を、混乱に陥れるのか?」
シィンの体がぐらりと揺れた。
ダリウスの言葉に対して、今度はシィンが動揺を露わにした。
イリアがその命を賭して創り出した安寧の崩壊――今、私を逃してこの場を乱す事は、そういう事なのだと、ダリウスは述べた。
しかしそれは同時に、私にシィンの言葉の真実を確信させた。この場で同じく処刑された女性、そしてイリアの妹であるユナにさえも、目の前の老人の何らかの陰謀があったのだ。
「シィン、お前が今しなければいけない事は、ひとつだ」
ダリウスの両手が、松明を持つシィンの右手を包む。そして再度少年の耳元に口を寄せると、シィンは振り向いて私を見た。
耳元で囁かれた言葉は、今度は私まで届かなかった。でも、ダリウスがシィンに何を囁いたのかは、容易に想像出来る。
シィンが、今、しなければいけない事。それは――。
シィンが踵を返す。
右手に松明を携え、射抜く様な視線を、私に向ける。
ダリウスは、髭を撫でながら、落ち着いた様子で、ただそれをじっと眺めていた。
「シィン……」
私は、少年の名前を呼んだ。
シィンは視線を私に向けたまま、にじり寄る。じりじりと距離が詰められ、一歩、また一歩と後ずさるうちに、私は再び十字架の元へと追いやられた。
「シィン」
足元では、積み重ねられた木片が乾いた音をたてる。私は、足元とシィンの手の内で揺らめく松明の炎とを交互に見合わせた。
本当に、これで最後かもしれない――そう思った。
諦めたくなかったから、許せなかったから、足掻いて見せた。
結局、変わる事はなかったけれど、彼らに私が訴えたかった事は、伝える事が出来た。
もしこの先、ここにいる誰かが、私の言葉を覚えていて、そしてこの世界の理不尽な負の連鎖に気付いてくれれば――それで、いいのかもしれない。
ねぇ、イリア。
こんなにすぐにあなたの元へ行ってしまったら、あなたは怒る? 幸せに、と言い残したあなたの最期の言葉を、裏切ってしまう?
でも、でもね。
私は私なりに、自分の選んだ道を進んできた。
だから、お願い――私がそこへ行ったら、笑ってほしい。昔みたいに、最期の時の様に、笑いかけて。
「……ごめん……」
目の前に立つシィンのエメラルドグリーンの瞳から、一滴涙がこぼれた。
同時にその手元から、松明が落ちる。
ゆっくりとオレンジ色の線を描き、松明は私の足元に積まれた木片の上で爆ぜた。
炎はまるで意思を持っているかの様に、瞬く間に木片に燃え移り、目の前を赤く染めた。
十字架を背にした私の周りを、取り囲む様に燃え上がる炎。手も足も自由に動かせる筈なのに、退路は既に絶たれていた。
息をしようとする度に、まるで喉が焼けるかの様な痛みに襲われ、そのあまりの痛みに、意識は朦朧としてゆく。
――その時、声がした。