第63話 始まりの場所
「出ろ」
ガチャンと牢の格子が開けられ響く金属音と抑揚のない声。恐らく一晩明けたのだろうが、私は一睡もする事なく、その声を聞いた。
現れたのは、昨日私に掴みかかった男だった。しかし昨日と違うのは、男が黒い衣装に身を包んでいた事だ。それを見て、私はダリウスの言葉を思い出した。今日、今から始まるのは、私の処刑と、イリアの葬儀だという事を。
男は乱暴に私をこの場に繋いでいた鎖を外すと、今度は縄で私の両手を後ろ手に結んだ。
「さっさと歩け」
背を押され、無理矢理歩を進められる。男のぎらついた視線は立ち止まる事を許さなかった。
私は、あの日――現実の世界の私が処刑された日と同じ経路を辿り、あの日と同じ場所へと向かう事になった。
「貴様なんかに……何故、イリア殿が……」
私の自由を奪う縄を掴み男が小さくぼやいた。その言葉に反論したい気持ちを、私は必死に抑えた。今、ここで反抗したところで、何も変わりはしない。
【力】を持つ者通しで盲信している彼らに、私の言葉が届かない事は、分かっているのだ。
敢えて、私はイリアを殺害したという、途方もない冤罪を背負って、足を進めた。
地上へと続く階段を上りながら、私はイリアの言葉を思い返していた。
幸せに、と最後に紡がれた言葉。私が不幸せになれば、イリアは悲しむ。あの安らかな死に顔は露へと消えてしまう。イリアの最期の願い――意地でも、それを違えるわけにはいかないのだ。
長い階段は残りわずか。ここを抜ければレイヴェニスタ城のホールだ。薄暗い通路の出口には、そこから光が差し込んでいる。私は、眩しい光が差し込むその場所に足を踏み出した。
「……っ」
一瞬、暗闇に慣れていた目が眩しさに眩む。そして次の瞬間目の前に広がった光景――それは喪服を纏った数多くの人間が、ずらりと列を成している光景だった。
思わず息をのむ程の、あらゆるものを圧倒する雰囲気。
その列は、この地下牢の入り口からレイヴェニスタ城の広いホールを真っ直ぐに走り、出口へと続いていた。よく見ると、それは女子供から、屈強な男までさまざまで、中には鼻を鳴らし目元を拭う者もいた。
あぁ、こんなにもいるのだ。
イリアの死を悼み、涙を流す人間はこんなにも――そう、ただ一人を除いて。
人々の憎悪に満ちた視線が突き刺さる。それはまるで、茨に覆われている道を素足で駆け抜けているかの様な痛みだった。
そんな中、私は人々の列が為す一本道を進んだ。全てが始まった場所――そして全てを終わらせる為の場所へと続く道を、私は歩き続けた。
真っ白な壁に、どっしりと構える鮮やかな緋色の扉が開く。重厚な音をたてて開いたその扉の先にいたのは――ダリウス。艶のある漆黒の衣を纏う老人の傍らには、同じく漆黒の衣装を身に着けたシィンもいた。
足を止めた私を一瞥して、ダリウスは大きく一歩進み出た。ダリウスは、真っ直ぐその視線を私に向ける。私も、その視線から目を逸らさない。
私達が対峙する事に水を差すかの様に、それまでダリウスの傍らで微動だにしなかったシィンがずいと進み出て、私の後ろに立った。シィンは私の腕を縛る縄を持つ男とその役を交代した様だった。
「参りましょう、ダリウス」
背後でシィンが声を上げると、ダリウスは頷いて踵を返した。そしてその足が一歩一歩進むのに合わせて、シィンが私の背を押す。
「……シィン」
シィンは一言も発する事はない。ただ淡々と機械的に私の背を押し、広場へと続く道を歩かせるだけだった。
酷く、長い道に感じた。
それまでも私は沢山の距離を歩んできた筈だった。けれど、今歩く道はその道程より、酷く困難で、酷く長かった。
その長い距離を経て、広場へと到着した時、私の目に飛び込んできたのは、あの日と同じ大きな十字架だった。
あの日と同じ状況、あの日と同じ光景が、目の前には用意されていた。
沢山の野次が飛び交う中、私の体が十字架にくくりつけられる。広場の中央に設置されているのは、より見せしめとして効果を発揮するからなのだろう。
もし仮に持たざる者がこの光景を見れば、【力】を持つ者達に主導権を奪われたこの国で生きる事に、きっと恐れを抱く。逆らおうなどとは思わない筈だ。
そして私を処刑する事で、イリアを殺害したという冤罪は、【力】を持つ者達にとって真実となるのだ。
足下には木片が多く積み重ねられている。
どれもよく乾燥していて、これなら火がつけられた際、勢いよく燃え広がるだろうな、などと妙に落ち着いている自分がいた。
心の中はこんなにも怒りで煮えたぎっているというのに――。
両手足、そして腰回りを十字架に張り付けにされた私は身動き一つとることが出来なかった。そんな私に、周りを取り囲む喪服の人々は容赦なく野次を飛ばす。
私は俯き目を閉じた。これ以上悪意に満ちた言葉を聞きたくなかった。
やがて、騒がしい程に飛ばされていた野次が止んでゆく。同時に大きくなっていったのはすすり泣きだった。
私は顔を上げ目を開いた。
「…………!」
この十字架を中心に出来ていた人だかりの輪が一部途切れ、その先に見えたのは葬列。幾人かが真っ白な棺を真上に掲げ、ここに向かおうとしていた。
ダリウスが昨日言っていた事が実行されようとしているのだ。
破壊の【力】を持ち世界変革を成功させたイリアの葬儀と、私の処刑式を同時に同じ場所で行おうとしているのだ。
悪趣味――そうとしか思えなかった。
真っ白な棺は私の目の前で下ろされた。すすり泣く声が一段と大きくなる。
私は涙が出そうになるのを懸命にこらえた。その時だった。
「イリア殿は――」
悲しみが渦巻く広場に、嗄れた声が響く。
「我等の光だった」
それまで周りの人だかりの一部となっていたダリウスが、白い棺の元へずいと進み出た。そしつ踵を返し私に背を向けると、ぐるりと周りを見渡した。
「そして希望の光は、我等を安寧の約束された地へと導いて下さった。……イリア殿が我等を……未来のない世界から救って下さったのだ」
一通り周りを見渡した後、ダリウスは視線を棺に移し、跪いた。
「貴方は、我等に必要な御方だった。そして、この世界で生きるに相応しい御方だった……そうだというのに」
低く威厳に満ちた声で紡がれた言葉に、私は寒気を感じずにはいられなかった。
なんて悲しみに満ちた声。
なんて憂いを秘めた立ち振る舞い。
きっと今この場にいる人間は、ダリウスの言葉を疑いはしないだろう。
「凶刃に倒れられた貴方の遺志は、私が継ぎましょう。そして、必ず――我等だけの世界を」
歓声が上がる。すすり泣きの混じったそれは、広場を揺らす程大きなものだった。
ダリウスが立ち上がる。
裾に付いた土埃を手で払って振り返ったダリウスと、目が合った。
「……イリア殿が生きるべき未来を奪った、持たざる女よ」
ダリウスの声色ががらりと変わった。
怒気を含んだ声で、ダリウスは私に呼びかけた。
「お前の犯した罪は、万死に値する」
違う、……違う!
「違うっ!」
しかし、私の声は大観衆の怒声にかき消えた。
「私は、イリアを殺してなんか……っ」
もうダリウスの声すらも聞こえない。いや、もしかしたらダリウスを盲信する彼らにさえも聞こえていないのかもしれない。
でも――諦めるものか。
絶対、絶対に、諦めてたまるものか。
「殺してなんか、いない……!」
ダリウスがくるりと向き直り、その顔が私に向けられた。
そして、嘲笑った。口の端を上げ、不気味に、そして勝ち誇ったかの様に。
長い髭で覆われた口元が動く。その声を聞き取る事は出来なかった。いや、声にすら出していなかったかもしれない。けれど、今確かに、ダリウスは言った。
「我等の、勝利だ」
瞬間、全ての髪の毛が逆立つかの様な怒りに襲われた。
全ての罪をなすりつけたダリウスに対してだけではない。結局、何も出来ずにいる自分に対しても、だ。
イリアの成した事を無駄にはさせないと心に誓いながら、繰り返す事を止めたいと思いながら、何一つ事を上手く運べない自分に、腹が立った。
ダリウスが片手を上げる。
それに反応して周囲のざわめきは瞬時に消えた。同時に、前へ進み出たのはシィンだった。その手には松明が握られ、傍らには年端もいかない少年がいる。
シィンは、私と目を合わせようとはしなかった。俯いたまま少年の手を引き、そして私の真ん前までやって来た。
「さぁ、我等がイリア殿を、無残にも殺めた持たざる女に……裁きを!」
ダリウスの声が響く。同時に怒号にも似た歓声が上がった。
同時に目の前に立つ少年が、シィンの持つ松明に手をかざす。すると一気に松明は燃え上がり、大きな炎を灯した。
私は、自分を括りつけた十字架と、白い棺を囲む人々の顔を見渡した。みな、喜びに打ち震え、悲しみに打ちひしがれ、そして希望に満ちた顔をしている。
平穏に生きられる世界を目の当たりにしている今、それは当然の事だった。
私は、決して彼らのそんな気持ちの全てを否定しているわけではない。【力】を持ち迫害され続けた人間なら、誰でも夢見た世界だ。
でも、繰り返してしまえば、何の意味もない事は、今の私にはよく分かっていた。
この世界を歩み、【力】を持つ者の悲しみを知り、【力】を持たざる者の憤りを知った。理不尽に奪われる命の重みを知った。
だからこそ――。
「さぁ、シィン」
ダリウスがシィンに歩み寄る。シィンは赤々と燃える松明を持ち、俯いたままだ。
「点けなさい」
ダリウスがシィンの背を軽く押す。人々の歓声を背にシィンは顔を上げ、松明をかかげた。その表情は複雑だった。
シィンは、私の味方ではない。
【力】を持つ者として、ダリウスを指導者と信ずる者達の一人だ。イリアの身を案じたほんの少しの間だけ並び歩いた、ただそれだけにすぎない。
けれど、その中のたった一人なのだ。彼等が改革者としたイリアを殺めたのは、ダリウスだという事を知る、たった一人なのだ。
イリアが死んで、シィンとの立ち位置は遠く離れてしまったと、そう思っていた。
しかし、今シィンが浮かべる表情は、シィンの足場が揺らいでいるからこそのものの様に思えた。
「シィン」
私は、呼びかけた。
目の前で、今まさに私を殺す為の炎を携えたシィンの名を呼んだ。
びくりとその肩が震え、手に持つ松明の炎が揺らめいた。