第61話 偽りの涙
また、この都を訪れる事になるなんて誰が思っただろう。しかも最後の最後は、冷たくなったイリアを連れてだなんて――。
街に一歩足を踏み入れた途端に、異質なものを見るような視線が突き刺さった。けれど、それは当然の事だ。戦が終わり、復興に力を入れ始めた都に住まう者が、今見ているのは、血にまみれた怪しい人間なのだから。
ひそひそと小声で耳打ちをする二人組がいた。決して私と視線を合わせない人がいた。私達に気付いていながら、何事もなく振る舞う人々がいた。
「おい」
その時だった。イリアを支える反対の肩をぐいと掴まれ、私は後ろを振り向いた。そこにいたのは、鋭い眼光を光らせた男だった。
「何者だ! まさか持たざる者達の残党か!?」
男が声高に言うと辺りはざわついた。答えずにいる私の肩を掴む男の手に、力が込められる。
「答えろ!」
男が私の体を突き飛ばす。その拍子にバランスを崩した私は、イリアもろともその場に倒れ込んだ。足に鈍い痛みが走る。
突き飛ばされ一瞬見失った男の影が私達の元に近付く。私は顔を上げ、男を睨み付けた。
「答えないという事は、やはり残党か」
男が私を見下ろす。大きな影が立ちはだかった。
「持たざる者達の残党は捕らえ処刑するのが、イリア殿不在の今、ダリウス殿が下した命だ」
くくっ、と男が嘲笑った。
私は目の前が真っ暗になっていくのを感じた。
今、男は何と言ったの? 処刑すると、そう言ったの?
「ん? 何だ、こいつは」
帝国の頂点を奪取し、今度は今まで自分達を虐げてきた持たざる者達を、処刑するというの?
それじゃあ、何も――。
「おい、貴様っ! 顔を上げろ!」
暗闇の中で男の声がこだまする。
あぁ、こんなの酷すぎる。 イリアはきっとこんな事望んでいない。これじゃあ、これじゃあ……。
繰り返しているだけだ……!
「聞こえないのか!?」
刹那、ぐいと体が引かれ、私は我に返った。しかし今体が動いたのは、私の体自体が引かれたからではない。男の太い腕が掴んでいたのは、イリアが纏っていた黒いローブだ。かっと顔が熱くなった。
「触らないでっ!」
思わず私は叫んだ。
しかし男は私の声に動じる事無く、乱暴にイリアの胸ぐらを掴み引き上げた。イリアの体が私の体から強引に引き離される。
「何だ……死んでるのか――」
男の手が、力無く下がったイリアの頭を、髪の毛を掴んで持ち上げた。
「やめ――」
「わあぁぁっ!」
言いかけた瞬間、男の悲鳴にも似た叫びが耳をつんざいた。同時に男はイリアの体を投げる様に離し、自身も尻餅をついていた。
私はどさりと音を立てて地面に沈んだイリアの体にしがみついた。あんなにも乱暴に扱われていながら、表情は穏やかなままだ。
「あぁ、ぁ……そんな……」
情けない声を絞り出す男。私は尻餅をついたまま動けずにいる男を睨む。
「貴様……貴様が殺したのか……?」
男の叫び声を聞きつけたのか、周りにはいつの間にか私達を囲む様に人だかりが出来ていた。
私はイリアを抱きかかえ、辺りを見回した。刺さる様な視線が痛い。
「貴様がっ……我等が改革者を――」
男の声が震えている。ざわめく人々。小さな悲鳴を漏らす者もいた。
「――イリア殿を殺したのか!!」
思わず耳を疑った。
イリアを殺した? 私が?
確かに私は間に合わなかった。イリアを救う事は出来なかった。でも、イリアに死に至らしめた傷を負わせたのは――。
胸に怒りが込み上げる。溢れる怒りが、言葉となって口をつく。
「馬鹿な事を言わないで……っ!」
「貴様ぁっ!」
しかし、先程まで尻餅をついていた筈の男が、顔を赤くして私に詰め寄り、その腕で今度は私の胸ぐらを掴んだ。体が持ち上がると同時に、喉が圧迫され息が詰まる。
「……ぁ……っ」
「何故、何故イリア殿を……!」
男の唾が飛ぶ。白く靄がかった様な視界の中の男の目には涙が浮かんでいる。冷たく変わり果てたイリアを見て、怒り、心底悲しんでいる。
「……ぅ……」
嫌だ。
こんな所で、死ぬなんて――。
「――は――――革者の――」
しかし私の思いとは裏腹に、視界はどんどん霞んでいく。目の前にいる筈の男の声が、酷く遠く感じた。
嫌だ、嫌だ。
せめて、ダリウスに――イリアを殺したあの老人に、この思いをぶつけなければ、私は何も果たせない。
脳裏に、私に幸せにと言って微笑んだイリアの顔が浮かんだ。自分は幸せだったと、言い切ったイリアの顔。そしてその幻は安らかに、瞳を閉じた。
「……ィ……リァ……っ」
そんな風に笑わないで。
幸せだったなんて言わないで。
イリア――。
「――――の騒ぎだ――」
遠くで声がした。その瞬間、私の胸ぐらを掴む男の力が緩み、私はその場にずるりと崩れ落ちた。
少しでも多く酸素を取り込もうと大きく息を吸って、酷く咳き込んだ。 視界がゆっくりと鮮明になっていく中気付く。今の声は――。
「何を騒いでいるのだ」
嗄れた声が近付いてくる。
私は四つん這いのまま顔を上げた。人だかりの輪が一部開き、その人が現れる。
金の刺繍が施された純白のローブは、あの時着ていたものではない。しかし、その白く長い髭、嗄れた声、対峙する者を圧倒する存在感を持つその人の名前を、私は知っている。
「ダリ……ウス」
ダリウスの窪んだ目が私に向けられた。その瞬間、口元が不敵に歪むのを私は見逃さなかった。
「おお……! 何という事だ」
おお、としきりに呻きながらダリウスはよろよろと近付いてくる。私はとっさに傍らで横たわるイリアを抱き寄せた。
「ダリウス殿、その女がイリア殿を!」
先程まで私の胸ぐらを掴み上げていた男が叫ぶ。そしてダリウスは、まるで悲しみに打ちひしがれた様な声で言った。
「あぁイリア殿、何という変わり果てたお姿に……」
目の前で跪く老人の目から一粒涙がこぼれ落ちた。それはイリアの死を痛む涙――に見えた。あの時見たものが錯覚と思えるくらい、悲しみに満ちた表情に見えた。
でもあの日、私はこの目で見て、この耳で聞いたのだ。この老人の冷ややかな視線を、冷徹に吐き出された言葉を。
「ダリウス……!」
老人を目の前にして声が震える自分がいた。イリアをこんな目に遭わせた者に対しての、怒りだ。今、私の胸のうちは、怒りで煮えたぎっている。
引き寄せたイリアの体を掴む手に力が入る。目の前で偽りの涙を流す老人の口元が、醜く歪んだ。
「そんなにも、【力】を持つ者が憎いか? 持たざる女よ。お前達持たざる者の腐りきった支配を断ち切った我等が、そんなにも憎いのか?」
涙ながらにダリウスは訴えた。
両手で顔を覆いうなだれ、イリア殿、としきりに呻き、うそぶくその姿は寒気すら感じる程だ。
ダリウスは、私が病を治す【力】を持つ事を知っている筈なのに、私を、持たざる者と決め付けた。しかも、その上イリアを殺めた事を私になすりつけようとしている。
自分の手が震えているのが分かる。こんなにも怒りを感じるのは、今までに無いだろう。
「イリア殿を……改革者を殺せば、再びお前達の掌握する世界に戻ると、そう思ったのか……だとすれば、なんと愚かな」
しかしそんな私の心境とは裏腹に、辺りは静まり返ってゆく。すすり泣く声がどこかから聞こえた。
「イリア殿の意志を継ぐ我等の改革は、止まりはしない」
「な……にを、言っているの」
あまりの怒りに声が掠れた。
イリアの意志、ですって?
逆らう者を、逆らう可能性のある者を、虐げてきた者を殺し続ける事が、イリアの意志だっていうの?
「全ては我等【力】を持つ者達の世界の為。その為に命を賭して下さったイリア殿を殺めた罪は重いぞ、持たざる女よ」
「……っ!!」
思わずダリウスに掴みかかろうと動いた体が、次の瞬間、動かなくなる。振り向くと、私の体は先程の男ともう一人の屈強な男とに取り押さえられていた。ダリウスの一挙一動に気を取られ、その他の人の動きに気付かなかったのだ。
「ダリウス殿には指一本触れさせん」
「観念するんだな、持たざる者よ」
二人の男が吐き捨てる様に言った。そのまま私の体は地面に押し付けられた。ぎりぎりと捻られた肩に痛みが走る。
「イリア殿のご遺体を運びなさい」
嗄れた声が誰かに命じると同時に、それまで視界の端に映っていたイリアの体に複数の人間が近付いていた事に気付いた。
「イリアっ!!」
地面に押し当てられたまま顔を向けると、数名の人間がイリアの体を持ち上げ私のそばから去ろうとしていた。
私は自分の体を押さえつける手から逃れようともがいたが、その手が緩められる事は無く、もがくほどに力は込められる。
「離してっ!」
そうしているうちにもイリアの体を抱えた人間達は、どんどん遠ざかっていく。
「黙れ! 持たざる女!」
イリアの姿を目で追っていた筈の視界が、急に動かされると同時に頭部に痛みが走る。髪を引っ張られ、強引に正面を向かされたのだ。
「……あぁっ」
目の前に立ちはだかる大きな影。それはダリウスのものに他ならなかった。
私は地面に押し付けられたまま、その姿を見上げた。先程涙を流していた時とは打って変わって、恐ろしく冷たい視線をダリウスは私に向けていた。そして白く長い髭を撫でながら言い放つ。
「……愚かな女よ、お前の処刑は明日執り行う」
「イリアを……イリアをどうする気!?」
叫ぶと同時に、再び二人の男に頭を押さえつけられた。砂利で頬が擦れ、口に砂粒が入る。
「黙れ!」
頭上で私の体を押さえる男の声が響いた。力は強く顔を上げる事が出来ない私は、目の前に立つダリウスのつま先を見るほか無かった。
「イリア殿の葬儀も、共に行う。さすれば、イリア殿も浮かばれる事でしょう」
「――っ!」
満足に言葉も発せない状態の私に、吐き出される冷徹な言葉。
今、私の胸にこみ上げるのは怒りではない。むしろそれを通り越して、今は悲しすぎた。
目の前に憎むべき人間がいるというのに、イリアの仇がいるというのに、私は何も出来ない――。
私は涙を堪える事が出来なかった。
「地下牢に繋いでおきなさい」
はい、と歯切れよく返事が響くと同時に体がぐいと持ち上がる。
「ほら、歩け!」
乱暴に立たされ、歩かされる。それは、あの日、私が【力】を持つ者としてこの場所に連行されたあの時と、何ら変わりない扱いだった。
顔を上げた瞬間、二人の男に命を下し、その場で私達の姿を見送るダリウスと目が合う。
冷たい光をその目に宿した老人が、そこにはいた。