第57話 幸せ
もし、人が俺の生き方を見たら――笑うだろう。
なんて愚かな人間なのだろう、と。
目的を果たせず、【力】を使い沢山の人を殺め、迷い迷って妹さえも傷つけた。挙げ句の果てに逃げ出して、このザマだ。なんて滑稽な喜劇。
それでもこの喜劇には、救いが用意されていた。数あるエンドロールの中のハッピーエンド。
チェリカ、君に会えた。
「――ア、イリアっ……!」
暗闇に響くチェリカの声。同時に頬に温かな感触と軽い衝撃。
重い瞼を開くと、そこには大きな瞳をさらに見開かせ、うつ伏せに倒れた状態のまま手を伸ばすチェリカがいた。
何が起きたのか分からず、思考を巡らす。
「…………っ」
体を動かした瞬間に激痛が走る。
そして、同時に思い出した。
あぁ、そうだ。俺は――。
「イリア! しっかりして! あと少し……あと少しで帝都に着くから」
チェリカが叫ぶ。
潤んだ瞳を俺に向け、手を伸ばしている。チェリカの青い瞳を見るのが辛かった。そんな顔をさせたい訳じゃ、ないのに。
チェリカは今にもこぼれ落ちそうになる涙を、隠すようにして顔を上げた。上体を反らし、彼方の地平線見つめている様にも見える。
「帝都……」
ぽつりとチェリカが上体を反らしたまま呟いた。
「イリア! あと少しだよ!」
そう言って再び視線を向けたチェリカの瞳は輝いていた。
帝都。確かにチェリカはそう言ったのだ。今俺達が倒れているこの場所から、レイヴェニスタの都が見えたというのだろうか。
しかし、俺にそれを確かめる術は無い。体を起こす事はおろか、首を動かす事すら出来なかったのだから。
もし、帝都がここから見えたのだとしても、チェリカにはこの状態の俺を運ぶ事は出来ないだろう。もう気力だけで、どうにか出来るものではない。
上体をぐいと起こしたチェリカが、顔を歪めた。どこか怪我をしているのかもしれない。
「……!」
しかし次の瞬間、チェリカは声にならない声を上げた。俺は、その顔がみるみるうちに青ざめていった事に気付いた。
その視線の先にあるのは、赤く濡れたチェリカの手。――俺の血に染まったチェリカの手だった。
いつの間にか、辺りには血だまりが出来ていた。腹から流れる血がいまだに止まらないのだ。チェリカの手はわなわなと震えている。
「…………カ」
チェリカの名前を呼ぼうとして掠れた声は、自分にも聞き取れない程、弱々しかった。呼吸をする度に、ヒューヒューと喉が鳴る。
チェリカが俺を見た。今まで見た事も無い、深い悲壮感に打ちひしがれた表情だった。
腕を伸ばす。ただそれだけで、激しい痛みが腹から指先へと駆け巡った。
「……チェリカ……」
ようやく絞り出した声は酷く頼りない。そんな俺の手を、必死に手繰り寄せる様にして空をかいたチェリカの手が掴んだ。俺の血で汚れたその震える手は、とても温かかった。
「……もう、いいんだ。チェリカ」
もう二度と得られる事は無いと思っていたのに、再びこの温もりを感じられた俺は、なんて幸せなのだろう。
ただそれだけで、どんな苦しみも痛みも癒えていく様な気がした。
自然と笑みがこぼれる。
「……君に、もう一度会えて……良かった」
良かった。
本当に心からそう思う。本当に心から満足しているんだ。
だから、チェリカ。もう、いいんだ。諦めて、いいんだ。
俺の手を握るチェリカの手に、ぐっと力が込められる。
俺は、涙を浮かべ潤んだチェリカの瞳を見つめた。チェリカの青い瞳もまた、俺をまっすぐ見据えていた。
チェリカはやがて思い出したかの様に、再び立ち上がろうと腕に力を入れていた。しかし、やはり上体を起こすのが精一杯なのか、腕に力を込めてはぐしゃりと体勢を崩す事を繰り返している。
その姿は、躍起になっている様にも見えた。
青白い月の光が、チェリカを照らす。
瞳からは、今まで辛うじてこぼれずにいた涙が、玉のような滴になって溢れ出している。
すん、と鼻を啜り、息を切らしながら、それでもチェリカは起き上がろうとしていた。
「……チェリカ……」
もう、いいんだよ。
俺の為に、そこまでしなくても――涙を流してくれなくても、いいんだよ。
「……泣かないでくれよ……」
チェリカの顔がますます歪む。止めどなく流れる涙が、赤い地面にぽたぽたと落ちては染み込んでゆく。
「君が……目の前に現れて、俺は……救われたんだ」
もしその涙が、俺を救えなかったと流すものだというなら、それは違う。
ただ、君が今ここにいるというだけで、俺は救われたのだから。
それはもう、十分過ぎる程に――。
「本当だよ」
チェリカに笑いかけてはみたが、その表情は変わらなかった。ただ悲しげに、悔しそうに唇を噛んで、涙していた。
俺は大きく息を吐いた。
そんな顔をさせたい訳じゃ、ないのにな。
「俺は……これで、いいんだ……」
チェリカが大きく首を横に振る。まるで何かから逃れる様にして、チェリカはそのまま俯き、頑なに顔を上げようとはしなかった。
胸が締め付けられる思いで、俺はチェリカの手を握る手に力を込めた。
あの日、俺はこの手を取る事が出来なかった。あともう少しの所で、俺はこの手を逃したのだ。
そして罪を犯した。決して許されざる罪を。
「……俺は、沢山の人を……ただ平穏に生きていた人達を……殺めた」
けれど、君は――こんなにも汚れ、血にまみれてしまった俺の手を、今取っている。確かに掴み、温もりを感じている。
もし、死が俺の犯した数々の罪に対する罰だとしても、最後に与えられたこの時間は、余りある程の救いだった。
「だから、俺は……これでいいんだ。……でも」
チェリカは、顔を上げようとはしない。むしろ、更に深く俯いてしまった様だ。
それでも、伝えたい。
この気持ち。今、とても幸せだという事を。
「俺は……幸せだよ……」
素直な、心からの気持ち。
「君の、温もりを感じて……、君の姿を見て……、君の声を聞けた……」
俺の言葉は届いているだろうか。
チェリカ、泣かなくていいんだ。俺はこんなにも、幸せなんだ。
「チェリカ」
驚く程穏やかに声が出せた事に驚きながら思う。
君のおかげだ。
沢山の墓標を打ち立て、白き花を舞い上がらせながら、暗い道をさ迷う俺に、素晴らしい終着点を与えてくれた。
「……ありがとう……」
俯いたままのチェリカの肩が震えていた。抱き寄せたい衝動に駆られたが、腕をこれ以上伸ばすことは出来なかった。
「……っ、私は――」
掠れ、震える声を絞り出すチェリカ。
止めどなく流れる涙を、俺は止める事が出来ない。
視界がぐらりと揺れた。
何かに引かれるように意識が遠のいてゆく。
急激に、急速に――これで、最後なのだと気付いた。
俺はチェリカの手を力いっぱい握りしめた。この体に残された僅かな力を、チェリカの手を握るこの手に込めた。
君に最後にもう一言だけ、伝えたいんだ。
「……チェリカ」
俺はカラファに戻れない。望んだ日常には戻れない。でも、それを補って余りある時を、俺は手に入れた。
だから、チェリカ。
今度は、君が――。
「……幸せ、に――」
全身の力が、抜けてゆく。
もう、痛みも苦しみも、何も感じる事は無かった。