表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/104

第56話 握り合う手


「……はぁ、……はぁ」


 私は募る焦りを隠しきれなかった。


 イリアの呼吸が荒い。

 脱力する頻度が増している。

 何より、私達の歩いてきた道に、未だに赤い足跡が続いている。


 分かっていた筈の事実。目を逸らす事の出来ない現実。それらが今、目の前に立ちはだかっていた。


 怪我を癒やす事も出来ず、途方もない距離を歩かされているイリアの体力が、急激に低下している。


 イリアは顔を上げようとはしなかった。上げられないのかもしれないし、上げたくないのかもしれない。そのどちらだとしても、俯くイリアの表情を想像する事は出来る。――苦悶の表情を浮かべているに違いない。


 足ががくがくと震えた。イリアの全体重が足にかかる度に、亀裂が入ったかの様にずきんと痛んでいた足の感覚は、既に無い。



 その時だった。

 目の前の視界が突然回った。

 何事が起きたのか分からず、私はイリアもろとも前面から倒れ込んだ。


「あぁっ!」


 鈍い痛みが全身を駆け巡った。地面にしたたかに打ち付けた体は、一瞬起きる事もかなわない程だ。しかし同時に、はっとして私は目を見開いた。


「イリア」


 倒れ込んだ私の隣には、当然イリアがいた。しかしイリアはぴくりとも動かないまま、横たわっている。


「イリアっ!?」


 ざわりと寒気がした。

 私は打ち付けた体を引きずってイリアのそばに近付いた。


「イリア、イリアっ……!」


 うつ伏せに倒れたままのイリアの頬を叩くと、私の声に反応する気配があった。うぅ、と呻きながらもイリアはその瞳を開いた。


「…………っ」


 イリアの口が僅かに動いた。


「イリア! しっかりして! あと少し……あと少しで帝都に着くから」


 ここまで来て、間に合わないなんてあってたまるものか。こんなに歩いたのだ、きっと帝都はもうすぐなのだから。


 つんと鼻の奥が痛んだ。

 涙が出そうだった。

 泣くものか――そう思い顔を上げた時だった。潤んだ視界に映り込んだそれは、灯り。都を彩る街灯の灯火。


「帝都……」


 それは私達が目指す場所だった。

 まだ視界には小さく豆粒程の大きさではあるが、確かに見えるのだ。


「イリア! あと少しだよ!」


 起きあがらなければ、そう思い腕に力を込めた時、私の指先が何か温かい液体に触れた。

 視線を落としたその先にあったのは、うつ伏せに倒れ込むイリアの腹部の出血で作り上げられた血だまりだった。


「……!」


 声になどなるわけがない。

 もし他人がこの血だまりを見たら、それが何時間も前に出来た怪我によるものだなんて、思わないだろう。それ程のおびただしい量の血だった。


「…………カ」


 弱々しい声が、静寂に包まれた闇に放たれた。

 喉をヒューヒューと慣らしながら、うつ伏せに倒れたままのイリアが、私に向けて手を伸ばす。赤く濡れた手は月明かりに照らされて、艶めかしく光っていた。


「……チェリカ……」


 伸ばされたイリアの手を無我夢中で取ると、冷え切ったその手は弱々しい力で、私の手を握り返した。

 その手のあまりの冷たさに、あまりの弱々しさに、私は声を出す事が出来なかった。目の奥は熱い。


「……もう、いいんだ。チェリカ」


 イリアは荒い呼吸の合間合間に言葉を紡ぐ。ゆっくり、ゆっくりと、私が聞きたくない言葉を紡いでいく。

 その時、苦痛に顔を歪めていたイリアが、ふっと笑った。

 続く言葉を聞きたくなかった。

 しかし、耳を塞ぐことも出来なかった。弱々しく私の手を握るこの手を、離したくなかった。


「……君に、もう一度会えて……良かった」


 良かった、と過去形で言葉を絞り出す様に言うイリアの手を、私は握り締めた。うつ伏せの状態のまま、私達はお互いを見つめる。イリアは褐色の瞳を細めて微笑んでいた。私は再び腕に力を入れようと試みるが、倒れ込んだ際の痛みが邪魔をして上手くいかない。

 立ち上がらなければ。急がなければ。分かっているのに言う事を聞かない体が憎かった。

 そんな私をあざ笑うかの様に、夜空では相変わらず星が瞬き、月は辺りを照らしている。


 涙が溢れた。

 悔しくて、悲しくて、切なくて。

 止める事は、出来ない。


「……チェリカ……」


 肩で息をしながら、イリアは私の名前を呼んだ。

 静寂の中だからこそ聞き取れる、微かな声だった。


「……泣かないでくれよ……」


 イリアは少しだけ眉を下げ、困った様な笑みを浮かべていた。泣いている私を慰める様に、宥めるように、優しい声で続ける。


「君が……目の前に現れて、俺は……救われたんだ」


 本当だよ、ともう一度繰り返してイリアは大きく息を吐いた。

 私は、声を出す事も、動く事も出来ず、ただ涙を流しているだけだ。

 そんな私は、なんて無力なのだろう。なんて無様なのだろう。


 私の手の中にいるイリアの手が、弱々しい力で握り返した。


 私の目をじっと見据えるイリアの褐色の瞳。逸らす事なく、閉じられる事なくただ真っ直ぐに向けられる視線。


「俺は……これで、いいんだ……」


 イリアは口角を上げてみせた。

 青白い顔を月明かりが照らす。


 これでいい筈なんて、ない。

 私は首を横に振って、視線を落とした。イリアはそんな私を見て、更に手に力を込める。


 私は顔を上げる事が出来なかった。もう、この現実から逃げ出してしまいたかった。


 死んでほしくなかった。

 ただ生きて欲しかった。

 私のせいで誤った道へと進んでしまったイリアを救いたかった。

 それだけを願って、それだけを叶えたくて、私は今、ここにいるというのに。それなのに――。


「……俺は、沢山の人を……ただ平穏に生きていた人達を……殺めた」


 呻き声にも似た声でイリアが言う。

 それが、確かに事実である事は分かっている。でも、それは真実ではない。

 破壊の【力】で沢山の持たざる者達を殺めたのは事実。でも、それは理不尽に処刑されてしまう【力】を持つ者達を救う為だったのだから。

 もし、ただ単純に殺戮を悦びとしていたのなら、彼は今こんなに苦しんではいない。


「だから、俺は……これでいいんだ」


 イリアはヒューと喉を鳴らし、大きく息を吐いた。そして、顔を上げて、と懇願する様な声で続ける。


「……でも、俺は……幸せだよ……」


 イリアの手が力を込めたのを感じた。弱々しく、微かな力だったけれど、確かに。


「君の、温もりを感じて……、君の姿を見て……、君の声を聞けた……」


 私はうつ伏せたままイリアの言葉を聞いた。

 それはささやかな抵抗だった。この現実を受け入れてしまわなければ、もしかしたら、と。何の根拠もない希望にすがっていたのだ。

 血塗れの大地に、じわじわと涙が染み込んでゆく。


 一呼吸おいて、チェリカ、とイリアが呼んだ。優しい声だった。

 今、イリアはきっと微笑んでいるに違いない。こんな運命を押しつけられながら、それでも優しい笑みを浮かべているに違いない。


「……ありがとう……」


 やめて。やめてよ。

 ありがとうなんて、言わないで。


「……っ、私は――」


 情けない程に掠れ、震える声を私は絞り出した。


 私は何もしていない。私はまだ、あなたを救えていない。私のせいで体に、心に傷を負ったというのに、そんな風に言わないで。

 私は憎まれてこそ、ありがとうなんて言われる権利はないの――。


 その時、イリアの手が私の手を強く握った。先程までの様な、弱々しい力ではなかった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ